第68話
昨日から避難しているこの城は、ミズーラ城という名前であるらしい。バラクロフの街の北にミズーラの森というのがあって、そこに建てられているからミズーラ城という名前なのだそうだ。
ひねりがないとか、ユーモアがないと思ってはいけない。
ちなみに貴賓館やこの間に宿泊していた客舎も、この森の中にある。なので俺とセラフィが夜に彷徨っていた森も、このミズーラの森なのだ。
街の北側のすべてを占める広大な森の真ん中に、ミズーラ城は建造されている。四方を高さ数十メートルという堅牢な城壁に囲まれて、さらに城門と城壁の上からイザードの王師と禁衛師団が目を光らせているから防備は万全だ。
さっき窓からちらっと見たけど、フランスあたりにありそうな古城っぽい城壁だったから、簡単には忍び込めないぜ。その上イザードの屈強な師団が厳重に警備してるんだから、侵入者どころか鼠一匹すら入ってこれないはずだ。
そのあたりはさすが、プロの軍隊だ。王様があんなでも下々はしっかりしている。
でもひとつ難点なのが、街からかなり遠いということだ。森がすごく広大で、しかも城が森の奥に建てられているから、街まで車で三十分少々もかかってしまうのだ。
そうすると食料の買い出しが困難で、食料が減ってきたからといって気軽に買いに行けないのだ。
近くにコンビニでもあれば、そんな問題は一蹴できるのだが、コンビニなんて当然ながらイリスには存在しない。
そして不幸なことに、食料はわずか三日分しか城に備蓄されていないらしい。なので、遅くても明後日には買い出しにいかないといけないが、車の出し入れで数分だが城門を開けるので、そこをセイリオスの連中につけ狙われるともかぎらない。
万が一を考えて、買い出しと城門の開閉は宮伯のキボンヌが責任をもって統括するらしい。けど、平気なのかね。あんな高速ゴマ擦り機にそんな重責をあたえて。
セイリオスの捜索は昨日から行っているみたいだから、食料のことは気にしなくていいとキボンヌは自信満々に言っていたが、どうなることやら。
無駄に豪華絢爛なこの城の中で飢え死にするのだけはご免被りたいものだ。
* * *
シャロと話し合いを終えた俺は、城内を当てもなく散策している。すぐに部屋へ戻ってもよかったけど、なんとなく気持ちが落ち着かないのだ。
あんな事件があった後なんだ。気持ちの切り替えなんてすぐにできるわけがない。できるとしたらそれはマシンか、ゲームのキャラクターのどちらかだけだ。
城には厳戒態勢を布いているのじゃから、万一にも侵入されることはないはずじゃ――とテレンサは自信満々に言っていたけど、本当にだいじょうぶなのだろうか。
やつらは貴賓館に平然と火を放つ連中だから、同じ手口できたら対処できないんじゃないか?
不安が先行しているから、考えがすぐに悪い方向へとたおれてしまう。
だからといって廊下を歩いていればすっきりするわけではないが、部屋でじっとしているのは辛いんだよな。
廊下の窓から外を見てみる。今日は幸いにも雨が降っている。
雨量は大したことないが、外で火計をつかうことはできなそうだ。
澄みわたる晴天を曇らす雨雲か。まるで今の心を映し出すキャンバスのようだ。
俺の心もこの曇天のように灰色がかり、暗く鬱然とした情操をかもし出している。
全くもって必要のない感想を述べてしまったが許してくれ。
悶々と廊下を歩いていると、椅子の置かれた休憩所のようなスペースにアビーさんの姿があった。アビーさんは椅子に座って、ひとり寂しく空を眺めている。
細くととのった眉を少しひそめて、憂いを帯びた表情で空を見上げるアビーさん。ミニスカートから伸びるしなやかな足を膝でぴたりと閉じて、少しふくらんだ胸にそっと右手を添えている。
ああ、実に儚げだ。切ないよ。よくできたフィギュアなんかよりもずっとずっときれいだよ。
ここまでくるともはや芸術作品だ。今ならワンダーフェスティバルでフィギュアの写真を撮ってくる人たちの気持ちがわかる気がする。
「あ、ご主人さま」
アビーさんが俺に気づいて、こっちにふり向いてくれた。
「何してるんだ?」
「あ、はい。……いえ、その、お城に呼ばれてからすることがなくなってしまったので、空を眺めていました」
そう言ってアビーさんが苦笑する。そのひかえめな笑顔がとてもか弱くて、胸の真ん中に恋という名の矢を射抜かれてしまう。
でもそれを顔に出すことはできないので、俺はなるべく平静を装って言った。
「そ、そうか。でもっ、今日は、あいにくの雨だから……残念、だよなあ」
顔面に力が入りすぎているような気がするが、平静を保てているだろうか。
アビーさんの言う通り、城内では家事の一切をイザードのメイドさんたちが取り仕切っているから、エレオノーラのメイドさんたちはみんなお払い箱にされている。
俺たちはそもそもイザードの客人なので、こちらに来てせっせと仕事をする必要はないのだ。だけどアビーさんや他のメイドさんたちは急に仕事をとられてしまったので困惑しているみたいだ。
「でもまあ、せっかくだから、たまには羽根を伸ばせばいいんじゃないか? 休暇をもらったような感じでさ。わざわざ遠出して他国まで来てるんだし」
「はい。でも、旅行なんて一度もしたことがないので、どのように振る舞ったらいいのか、全然わからなくて」
アビーさんは旅行の経験がないのか。といっても、俺も旅行なんて中学三年の修学旅行で京都や奈良に行ったことくらいしかないが。
「ご主人さまは、何度も旅行に行かれてるんですか?」
「あ、いや。実は俺もそんなに行ったことはない」
海外旅行にかぎっては一度もない。当たり前だが。
「ご主人さまもわたしといっしょですね」
「ああ、そうだな」
ずっと立っているのも微妙なので向かいの椅子に座ろうか。
「お飲み物、お持ちしましょうか」
「いや、いいよ。喉かわいてないから」
「そうですか。お飲み物がほしくなったらすぐに言ってくださいね」
アビーさんが天使のような笑顔でほほえんでくれる。
アビーさんはやっぱりいい子だ。この笑顔だけで暗く鬱然とした情操なんか吹き飛んでしまいそうだ。
でも、せっかくの休日なのに天気が悪いから台なしだ。
わざわざ遠くにまで来たんだから、アビーさんとイザードの観光地にでもまわりたかったな。
イザードの観光地って、どんなところがあるのだろうか。ヨーロッパっぽい町並みだから、観光地といえば宮殿や聖堂が一般的なのだろうか。
「なあアビーさん」
「はい?」
「イザードの観光地って、どんなところがあるか知ってる?」
「イザードの観光地、ですか?」
アビーさんがきょとんとした顔で瞬きする。
「わたしは存じ上げませんけど、シャーロットさまなら知っているのではないでしょうか」
まあ、そうだろうけど、あいつには聞きたくないな。その後の小言がうるさそうだから。
「イザードの観光地をお知りになりたいのですか?」
「すごく知りたいというほどでもないけど、どこが有名なのかなと思って」
ずっと黙っているのが気まずいので、話の種にしたかっただけだが。
でもアビーさんは旅行の話が好きなのか、嬉しそうに微笑んでくれた。
「いいですね。わたしもイザードの観光地に行ってみたいです」
「そうだろ? こんな状況じゃなかったら、色々なところにまわれたのによ。残念だよな」
「そうですね。今は、外出なんてとてもできませんけど。でも、ずっとお城に篭っているのもよくありませんし」
「でもまあ、セイリオスの連中はじきに見つかるだろうから、すぐに外出できるようになるよ。そうしたら、有名な名所とか、いっぱい観光しよう」
「はい。……ぜひ」
アビーさんがそっとうつむいて返事する。心なしか顔が赤くなっているような気がするが、きっと気のせいだ。
心の奥底から上がってきたナルシシズムをふり払って、俺は「ああ」というボキャブラリーの欠片もない一言を返した。




