第55話
それから三十分くらい仮眠していたのだろうか。
「これが召喚術の写本です」
「わあ、ありがとう!」
セラフィのギガヘルツな声が聞こえて、俺は目が覚めた。堅い長椅子で寝ていたから、首の付け根のあたりが痛い。
「ごめんねアンドゥ。退屈だったでしょ?」
セラフィが申しわけなさそうに俺の顔をのぞきこむ。なあに、別にいいってことよ。
「写本がどうのという会話が聞こえたけど、その本はもらえたのか?」
「うん! 原本はイーファがもってるから、写本はくれるんだって!」
出会ってまだ三十分くらいしか会話していないのに、もう名前を呼び捨てるような間柄になったのか。本までいただいちゃって、すっかり親友じゃないか。
「だってイーファすごいんだよ! 召喚術にすごくくわしいし、あたしの知らないこともいっぱい知ってるし。もう驚いちゃった!」
百年にひとりの逸材と言われているお前が驚くとはな。
セラフィは写本の頁をめくると喜色満面で頬も少し紅潮なんかさせて、ものすごく嬉しそうにしている。おもちゃをもらった小学生みたいにわあわあとはしゃぎだして……ああもう、ガキみたいに走りまわるなよ。
「イーファさん、本当にどうもすみません」
「いいんですよ。原本は手もとにありますから。それに本も、本棚にしまわれているよりも、だれかにつかってもらえた方が喜びますから」
そうかもしれませんけど。出会ったばかりなのに本なんていただいちゃってもいいのかな。
俺の間抜けな顔をイーファさんが見やる。
「あなたはセラフィーナ様のボディガードなのですか?」
「あ、はい。そんな感じです」
「お名前は?」
「あ、悠真です。安藤悠真」
「ユウマ……変わったお名前ですね」
久しぶりに言われてしまった。
イーファさんは、間近で見ると本当にきれいな人だった。ヨーロッパの美術館に飾られている絵画から抜け出してきたような美しさだ。
肌は真珠みたいに真っ白で、睫毛もすごく長い。少し面長の顔は余計な肉がなくて、都会の洗練されたイメージが感じられる。
でもやはり、顔には表情がない。嬉しそうに笑っても、迷惑そうに眉根を寄せてもいない。俺のことなんて全然興味ないのかもしれないけど。
無表情なイーファさんが手を差し出して、四つ折りにされた紙をわたしてくれた。広げてみると、森の簡単な地図が描かれている。
「来た道をまっすぐに戻り、分かれ道を左側に進んでいけば、やがてイザードのお城にたどり着きます。ユウマさんが宿泊されている客舎も、その近くにあるでしょう」
「ありがとうございます。助かります」
「かまいませんよ。困ったときはお互い様ですから」
親切な人だな。嫌われてなんていないんじゃないか。
「それでは、失礼いたします」
「じゃあね、イーファ。ばいばい」
ぶんぶんと手をふるセラフィに、イーファさんは浅く会釈をして森の奥へと消えていった。
* * *
「えへへー。術法書もらっちゃったぁ」
それから一時間くらい彷徨って、狼に三回くらい襲われてからなんとか客舎にたどり着いた。
必死の言葉通りに死ぬ気で帰ってきたのに、セラフィは自分の部屋に戻らずに俺のベッドを占領している。イーファさんからもらった写本を持ってにやにやしながら。
刻印術が好きなのはわかるが、そんなにやにやするほど嬉しいのか、それは。
普通の女の子だったら、もっとこう、洋服とか美しい装飾品をもらって喜ぶべきなのではないのか?
いや、こいつを普通の女の子と比較するのがむしろ間違っているな。俺としたことが、迂闊な凡ミスだった。
俺が鬱陶しそうにしていると、セラフィがすかさず詰め寄ってきた。
「だってだって、召喚術の術法書だよ! エレオノーラにはほとんどないから、すごくすっごく珍しいんだよ! どんな感じなのかすっごく気になるじゃん! アンドゥだって気になるでしょ!?」
わかった。わかったから俺の頬に写本を押しつけるな。
「王宮の書庫にも召喚術の術法書はあったけど、あれは偽物だったから、本物がどんな感じなのか、ずっと見てみたかったんだもん」
王宮にあった……? ああ、俺を召喚するときに参考にした本のことか。あれは偽物だったのか。
「まあ、それのせいで俺は召喚されて、今はこうして多大な被害を被っているわけだが」
「えっ? 何か言った?」
そこはスルーかよ。別にかまわないけど。
セラフィは俺のベッドに戻って、またにやにやしながら術法書のページをめくっている。実はかなり夜更かししてて、日付も変わっているのだが。
しかし、さっきの暗い顔が目に焼きついているから、セラフィを帰すのをためらってしまう。
王女なんて傍から見たらゴージャスな生活していて、何不自由なく育てられている印象しかないけど、それはあくまでマンガやライトノベルでの話であって、現実は違うのだ。
ゴージャスな生活をしているのは間違いない。だが何不自由なく育てられているのは嘘だ。
政略結婚の材料につかわれて、他国の接待を湯水のように受けさせられて、王族の責務だか貴族のマナーを毎日のように全うさせられている。
自由なんて、むしろ全然ない。セラフィはまだ十四歳なのに。
陛下の考えや、官吏たちが決めた政策に従って生きていかないといけないんだ。なんてつまらない人生なんだろう。
そんながんじがらめな境遇なのに、王女なんていうご大層な身分だから、気軽に相談できる相手もいない。陛下は忙しい方だから、相談どころかまともに顔を合わせる時間すらないし。
そう考えると、セラフィはすごく寂しいやつなんだと思う。こいつはいつもにこにこしてて、そういう顔はあんまり見せないから、今まで気づいてやれなかったけど。
近侍という立場だからとか、そんな義務的な理由じゃなくて、俺ももう少し、こいつのことを――。
「ねえねえ。一回だけでいいからさ、召喚してみようよ!」
心配してやってるのに、興奮して俺の腕を引っ張ってくるな。
「あのなあ。もう日付変わってるんだから、そろそろ部屋に戻って寝ろよ」
「ええー、一回くらいいいじゃん。アンドゥだって、ちょっとは興味あるんでしょ?」
「だめ。興味もない。だから早く部屋に帰って寝ろ」
するとセラフィは頬をふくらませて、聞き分けの悪い小学生みたいな顔をした。
「ちぇー。蜥蜴の顔が十個くらいついてる子を召喚してみたかったのに」
よりによって、そんな気持ち悪いやつを召喚する気だったのか。そのゲテモノ趣味はどうにかならないのか。
それから五、六回くらいの攻防を経て、ふてくされるセラフィを自分の部屋へとなんとか追い出すことに成功した。あいつは意外と頑固だから、説得するのが大変なんだ。
重責の中に身を置いていることをちゃんと自覚しているのだろうか。
そういえば、イーファさんのことを聞きそびれちゃったな。すごく親切で優しい人だったけど、只者じゃないよな。
清楚な感じで落ち着いていて、そして刻印術に詳しい。……セラフィを圧倒するほどに。
他国から来た旅行者なんだろうけど、どこの国の人なのだろうか。エレオノーラの人なのかな。
ここでいくら考えても、わかるわけはないか。
夜もかなり更けているから、俺もそろそろ寝よう。




