第35話
「いやあ、ご苦労様ですアビー。よくやってくれました」
そう言って、アビーさんを馴れ馴れしく呼んだのはフィオスだった。人を小ばかにするような態度で手を叩いて、俺の前を歩いていく。
「この前のプレヴラの騒ぎのときは、どうなることかと思いましたが、フフ。宮廷の官吏たちも、案外間抜けの集まりだったようですね」
アビーさんの前まで行くと、やつは俺に身体を向けて、魔王の手先みたいな顔を見せつけてきた。
てめえ、どういうことだ。
「頭の悪いアビーでは、ちゃんとした事情の説明はできませんから、ここからは私が話をしてあげましょう」
フィオスはわざとらしく両手を広げて、余裕のある態度を見せつけてくる。
「私はね、ユウマ殿。ずっと前からここに来たかったんですよ」
「なにっ?」
「天穹印は大陸の浮力を調整し、周囲に雲海を発生させて温度調節を行う、大陸の要です。ゆえに天穹印の間の最下層に安置され、各国の王族たちによって護られています。なので私は王家の証がどうしても必要だったのです」
言いながらアビーさんから王家の証を奪い取る。
「エレオノーラには、王家の証がふたつ存在します。ひとつは、国の元首となる国王が受け継ぐもの。そしてもうひとつは、元首の妻である妃が所持するものです。ですが、正妃のアンジェリーナ様は何年か前にお亡くなりになってしまったようなので、証は娘のセラフィーナ王女に委ねられました」
王家の証が青い光を放っている。
「私は陛下か王女のどちらかから、証を奪い取らなければならなかったのですが、陛下はあの通りとても強靭なお方です。仮に一対一で戦ったとしても、返り討ちに遭うリスクは下がりません。なので必然的に王女がターゲットになるのですが、王女はああ見えて意外と用心深く、証を自室のどこかに隠して私に見せようとしませんでした。あなたに対してだけは違っていたようですがね」
そうなのだ。会って二日目で天穹印の間に連れてこられたから、あまり実感はなかったけど、シャロや他の官吏たちはここに入ったことすらないらしいのだ。
セラフィはいつもにこにこしていて、暑苦しいくらいに俺のまわりにまとわりついてきた。
けれど、それはあいつがそれだけ、俺のことを信用している証だったのだ。
「それに王女の自室は後宮の奥深くです。男の私では後宮に入れません。なので私は、アビーに命じて証を盗ませたのです」
フィオスは冷笑して、王家の証を俺の方に投げ捨てる。
「それはもう必要ありません。国宝を売りさばくなど、そんな畏れ多いことは私にできません。なので、あなたからセラフィーナ王女に返してあげてください」
すると、またわざとらしく両手を広げた。
「あとはユウマ殿のご察しの通りです。プレヴラを脱獄させたのもアビーです。騒ぎを起こして、その隙に証を盗めと命じたんですがね。いやあ、タイミングが実に悪かった。よりによって王女が証を持ち出したときに実行に移したものですから、この女の不器用さ加減にはほとほと愛想が尽きていたところですよ」
フィオスがアビーさんへとふり返る。アビーさんはまたがたがたと、悪魔に追い詰められたようにふるえ出した。
「フィ、フィ、フィオ……フィオ、ス、さま……」
「でも、最後には私の期待に応えてくれたようですね。かなり強引な方法でしたが、まあ結果オーライだと思うしかありません」
フィオスの口調はいつもと変わらない。
「ですが――」
不意に腰の剣に手をかけて、瞬時に抜刀。そして――ああっ!
「あなたはもう用済みです」
アビーさんのお腹に剣を刺しやがった。
刺し貫かれた衝撃で、アビーさんが身体の支えを失う。フィオスの剣に持ち上げられた状態で、ぼん! と紫色の煙を発して、小犬の姿に変化する。
フィオスが剣を後ろに引き抜くと、小犬になったアビーさんが俺の足もとに転がってきた。
「アビーさん!」
あまりに衝撃的すぎて、俺の頭が真っ白になる。けど、ぎりぎりのところで耐えてくれ。
小犬のアビーさんを抱きかかえようとしたけど、ああ! 血が、アビーさんの身体から血が出て止まらねえ!
手で傷口を抑えても、だめだ。ああ、出てくるなっ!
このままだと出血多量でアビーさんが死んでしまう。でも、どうすればいいんだ!?
「その女はアラギという種族の幻妖です。つまり今の状態が本当の姿なのです」
アビーさんを刺した下衆が何かほざいてやがる。
「私もくわしくは存じませんが、アラギは外見を変化させる術に長けているようなのです。その女は術を悪用して召し使いに扮し、何食わぬ顔で王宮に潜んでいたのです」
うるせえ。
「その女がなぜ王宮に潜んでいるのか、私も疑問に思いましたがね。大方、下で業風に巻き込まれて、イリスに来てしまったのでしょう。そして下に帰ることもできず、かといって幻妖の姿のままだとイリスの人間に狩られてしまうので、仕方なく召し使いに――」
「うるせえよ」
あいつの言葉を聞いているのが、耐え難かった。
頭に血が上らない、この冷然とした怒りはなんなのだろうか。
止血方法なんてわからないから、シャツの袖を破って傷口に巻いてみる。けど、血は、止まらない。
アビーさん、すまない。
「なんでだ。……なんで、アビーさんに、こんな酷いことをしたんだ」
「なんで?」
フィオスはわざとらしく聞き返してきて、しばらくして「ははは」と高らかに笑った。
「やっと口を開いたかと思えば、妙なことを聞きますね。幻妖なんて人間に危害をくわえることしか考えない、知能の低いただの下等生物ではないですか。害獣と同じく始末されるのが普通なのに、あなたは害獣を駆除するなと言いたいのですか?」
私のどこに間違いがあるのですか? と言いたげな顔をしている。
こんなやつに利用されていたから、アビーさんはあんなにつらそうにしていたんだ。
気弱でドジっ子で、悪いことなんてとてもできそうにないのに、なんでプレヴラを脱獄させたのか、ずっと疑問だったんだ。
悪い子じゃないのに、あんなやつのせいで悪事に手を染めて、今は意識不明の重態だ。こんなの、見ていられねえよ。
「ア、アンドゥ……さま」
俺の胸でうずくまっているアビーさんが意識を取り戻した。けれど声はかすれて、今にも消えてしまいそうだ。
「だいじょうぶか。動いたら傷口が開くぞ」
「はい。……申し訳、ありません」
「謝るなって。あいつをたおしたらすぐ医者に見せてやるから、すげえ痛いと思うけどがんばるんだ」
「はい……」
犬と会話してるとか、そんなことはどうでもいい。アビーさんを、助けてやりたいっ。
だが、
「あいつをたおす? ここで私をたおすというのですか? それは聞き捨てならない言葉ですね」
俺の前にいる下衆がエリートぶった口調で剣をかまえやがった。聞き捨てならないのはこっちの方だ。
状況が目眩く変化して、思考と気持ちが全然ついていかなかったけど、アビーさんを手当てして少しずつ冷静になってきた。
状況は、俺が想定しているよりずっと単純だったんだ。下衆がいて、アビーさんが利用されていた。それだけだ。
「俺は、こっちの世界に来てまだ日が浅いから、幻妖だとか天穹印の一般的な価値基準なんて全然わからない。そもそもそんなに頭いい方じゃないしな」
アビーさんをそっと見下ろしてみる。アビーさんは丸い目をつむって、静かに呼吸している。
俺のシャツは、アビーさんの血でまっ赤だな。落ちっかな、これ。
「幻妖は人間に危害をくわえるタイプが多いし、忌み嫌われるのが普通なんだろうけど。……でも、友好的なやつも中にはいるんだろ? そういうやつらと仲良くするのは、そんなにおかしいことなのか?」
「おっしゃっている意味が、よくわかりませんね。友好的であろうとも、幻妖が下等生物であることに変わりはないと思いますが」
フィオスの返答は早い。考えるまでもないということか。
こいつの価値基準は、どうやら知能レベルの高さに左右されるらしい。害獣がどうというのは関係ない。
だめだなこいつ。こういうエリートぶった野郎は生理的に好きになれない。
「実は俺も、お前の言っていることがよくわかんねえんだよ。お前はさっきから下等生物で押してくるけど、上等だったら酷いあつかいをしないのか? お前の言う下等の定義はよくわからねえけど、俺のいた国じゃあアビーさんみたいな愛犬は、ペットとして可愛がられてるもんだぜ」
「下等というのは、そのままの意味なんですがね。……やれやれ。あなたはもっと頭のいい人だと思っていたのですが、どうやら私の思い違いだったようですね」
勝手にほざいてろ。
何を勘違いしているのか知らないが、俺は頭のいい人間じゃない。ごく普通の高校生だから、当然ながら上等な人間でもない。
結局意見はかみ合わず、フィオスが漆黒の刃を光らせる。ここでこいつをたおさないと、アビーさんが出血多量で死んでしまう。
けどフィオスは、かなりの使い手だ。……多分。
剣のレベルとか、くわしいことはよくわからないけど、あいつの自信たっぷりなオーラがそういうイメージを植えつけてくるのだ。
もしかしたら、シャロと同じレベルかもしれない。
俺も剣を持っているけど、剣術なんて当然知らないし、剣道だって一度も習ったことはない。運動神経だって普通だ。
悔しいけど、いくら贔屓目に見積もっても俺に勝ち目はない。改造コードでも駆使できれば、笑えるほど簡単にたおせるのかもしれないが。
俺はどうすればいい。




