38.閑話_エンジェル・ウイングⅠ
リンネがヴェルデを訪れた日から時を遡ること十七年、彼女は王都に居た。これは、世界を救おうと奮闘するもう一人の少女の物語――。
人が集まれば社会ができ、社会ができれば階級も生まれる。
ここロンダルシア大陸もその例に漏れず、2つの王家を頂点とした、貴族及び平民と奴隷からなる階級が存在していた。
ただ、嘗ての栄華は見る影もなく、滅び行く世界に数多く見受けられる陰謀と腐敗のみが蔓延っていた。
怠惰であるだけならまだ救いようがあっただろう。しかし、一部の貴族の中には、積極的に闘争を引き起こす輩も存在した。
それも、このような世界であっても生き足掻こうというのならまだ許せる。しかし、大半は自らの欲望を満たすためだけの、穢れた権力闘争であった。
結果、百を数えた大陸貴族家は僅か半世紀のうちに半分となり、その後の四半世紀でさらに半分となった。十数年後、王候貴族の総人口ですら30人を切る時代が来ようとは誰に予測できたであろうか――。
★☆★
静寂を切り裂く激しい雨音。1週間ぶりに大地を湿らせた雨粒は、1人の女の涙であったのかもしれない。
黄金色に輝く王宮を望む丘の上、王都の中でもやや人通りの少ない町の一角に、悠然と佇む屋敷が1つ。
閉ざされた門扉の前に居るのは、薄ら笑いで銀貨を数える2人の門兵のみ。
屋敷の片隅に目を移せば、そこには1人の少女を前にして小声で言い争う2人の男女が居た。
男はこの屋敷の主人である伯爵家に雇われた腕利きの冒険者、対する女は伯爵婦人の身の回りの世話をする上女中の1人だ。
男の主張は正義の名のもとに首尾一貫していた。
たとえ人攫いの目的が少女の身を案じてのものであっても、断じて見逃すことはできない。
ただ、男も悪辣な魔人ではない。強い決意を秘め真一文字に結ばれていた口を解き、言い放つ。
「今からでも翻意し、少女をこの場に置いて立ち去るのであれば、見なかったことにしてやる」と。
そして、虚ろな表情を浮かべて黙ったままの少女を見やり、最後にこう付け加えた。
「貴族にはなれないが幸せに生きる道、今のまま幸せではないが貴族として生きる道――この子にとって、どちらが良いのか俺にはわからん、お前が選べ」と。
誘拐の目的も、誘拐した後どうすれば良いのかすらも聞かされていなかった女は、男の言葉に応じることができず、ただただ俯く少女を見るのみだった。
そして女はふと気づく。
少女の細くて白い腕に生々しい痣があることに――。
虐待――。
一瞬、脳裏を掠める2文字。
改めて、男の言葉が重々しく女の心に圧し掛かる。
敬愛する伯爵夫人の、涙ながらに懇願する姿が脳裏に浮かぶ。
親は身を呈してでも子を守るもの、そう言って娘を救ってほしいと土下座をしてまで女に依頼した痛ましい姿が――。
女にも当然に家族は居た。
親を思う子の、子を思う親の心は決して穢されてはならない。
たとえ自らの命がここで尽きようとも、夫人が見せた尊い心を守り抜きたい――そう、決意をする。
女は、少女の手を掴み、走り出す。
男は、女の胸を槍で、一突きにした――。
★☆★
数日の後、伯爵夫人は真相(娘を女中を通じて誘拐しようとした罪)を知った主人に処刑され、女中の親族一同も同じ運命を辿ることとなった。
また、伯爵令嬢誘拐事件を未然に防いだ功績は、男に近年稀に見る出世を齎した。伯爵の側近にまで抜擢されて得た生活は、細い命綱のみに支えられていた冒険者時代とは雲泥の差であった。
しかし、この呪われし時代に、そんな安楽の日々が長らく続くわけがない。
ある日、男は主人の部屋から漏れ出た悲鳴を耳にする。
壁に身を寄せ、全身が耳になるほどに聴覚を研ぎ澄ます。
聴こえるのは、男の奇声と嘲笑、そこに混じる幼き少女の嗚咽――。
辿り着いたのは、唯一無二の、そして残酷とも言える真実――。
なぜ伯爵夫人が娘を誘拐しようと企てたのか、なぜあの女は命を懸けてまで少女を救おうとしたのか。
彼の頭の中で、暗雲に阻まれていた2つの星をホウキ星が一瞬にして繋いだ。
男は鈍器で殴られたような衝撃を心に受け、そのまま倒れ込むように扉を潜り抜け――そして現実を目の当たりにする。
男は主人に事の真相を問うた。
それに対する伯爵の言葉は、皮肉にも嘗て自分が女中に問うたものと同類だった。
「この雌を助けるために俺を殺して犯罪者となるのか、このまま黙して立ち去るのか、お前自身がよく考えて選べ」と。
男の決断は早かった。
幼い少女を着の身着のまま、屋敷から連れ出す。
屋敷に残されたのは、胸を槍で貫かれ紫色に|澱んだ血の池で仰向けに倒れる伯爵と、家財一切を盗もうと走り回る元使用人のみだった――。
★☆★
男は走る、走る、走る。
幼い少女を連れて。
森を抜け、崖を駆け下り、ひたすら走った。
追っ手は、来なかった――。
それもそのはず、敢えて魔物が跋扈する危険地帯を逃走に選んだのだから。
気づけば国境すら越えていた。
さらに人混みを避けるように、北へ北へと逃れた。
やがて逃避行は行き止まりに達して終焉を告げる。
そう、彼らが辿り着いたのは、大陸北端の町、ヴェルデだった――。
重厚な城壁を前にして、男が少女に問う。
「お前はもう自由だ。今後の運命は、全てお前の選択で切り拓け。これからは、自分がやりたいことだけをすればいいんだ」
「……」
「お前、このまま一生、一言も喋らないつもりか? 人見知りってわけでもないだろ? ガキなんだから、遠慮なんてするな。何でも言っていいんだぞ」
「……ありがとう」
ただの一言。
少女の口から漏れ出した心の発露。
それが、彼には涙が止まらないほど嬉しかった。
「怒りや、悲しみはないのか?」
言葉の重みとは対極に、彼が見せたのは零れんばかりの笑顔だ。
「……そんな気持ち……とっくに、忘れた」
「そうか……ならば、俺と共に、生きてくれないか」
「……うん、それでいい」
人生とは、無限に近い選択肢の、数多の累乗が示す未知の可能性である。
それは、言わば、天空に浮かぶ星々の全てを訪れようとする気の遠くなる旅路の中で、ホウキ星の刹那の煌めきを掴むようなもの。
2人の出逢いは、辛うじて1点で交わった大小の円、その微かな接点が導いた、まさにこの世界における奇跡だった。
こうして、血の繋がりを持たない2人の、縁も所縁もない異国での生活が始まった――。
「どんな家に住みたいんだ?」
「王様が住んでるような、おっきいおっきいおうち!」
眩しい笑顔で精一杯に両手を広げる少女。
「あのなぁ、俺はそんな金持ってねぇぞ?」
「えぇ~! 何でも言っていいって言ったのにぃ」
「それはそれ、これはこれだ――」
男が振った財布代わりの小袋から聞こえてきたのは、数枚の硬貨が力なく擦れ合う音のみ。
「まぁ、何とかなるか!」
笑顔で見つめ合い、手を取って歩き出す2人。
朝日を受けて輝くその笑顔に、通り過ぎる人々も釣られて笑いかけてくる。
「えっと……いつまでも“お前”って呼ぶのもアレだからな。名前を教えてくれないか?」
「リーシア! リーシア・アルンティア!」
「おっと、そうだった! 姓は誰にも言うな。リーシア、意味はわかるな?」
辺りを見回し、小声で呟く男。
少女は年齢の割に利発で、すぐさま事情を悟って小さく頷く。
「俺の名は――」
「おじちゃん!!」
「おいっ! 俺はまだ23だ。おじちゃんじゃない、お兄ちゃんと呼べ!」
「うん、わかったよ! おーにーいーちゃんっ!!」
「ま、いっか」
頭を掻きながら照れ笑いをする男の腰に、綺麗な金髪の少女が纏わりつく。
「これで8軒目か――」
「お兄ちゃん、疲れたー! お腹空いたー!」
「もう少し我慢してくれよ」
「だってぇ、昨日から何も食べてないんだよぉ!」
「わかったわかった、先に食事にしてやる」
「やったぁ! おにーちゃん、大好き!」
男はこの瞬間、女の怖さを知った――。
露店で買った1本の串焼きを、男は少女に手渡す。
「食え。焦って飲み込むなよ」
「お……おいひぃ!」
「そうか。よく味わえよ? ってか、100回噛むんだぞ!」
残金は銀貨7枚と銅貨が5枚、合わせて705リル(70万5000円)。
宿屋1泊の値段は2食付きでも5リルほどだが、男はこの町に家を購入するつもりだった。
朝から歩き通しで物件を探し回ったが、戸建てを買えるほど甘くはなかった。西の王国アルンであればぎりぎり手が届いたのに――。
「行き先を間違えたかなぁ」
「ん? おにいちゃん、道に迷ったの?」
「まぁ、そんな感じだ」
ギルドの紹介先を全て当たってみたが、どうしても最低2000リルは必要だった。前借りすることも考えたが、どこぞの放浪者を信用して貸してくれる物好きがいるとも思えず、早々に諦めた。
そんな中、ふらっと立ち寄ったギルドの依頼掲示板で、思ってもみなかった依頼が目に飛び込んできた。
D-10-2000L 誘拐犯の捕縛
「こちらですね。えっと――アルン王国からの依頼となっております。貴族様の子女誘拐の疑いが掛けられているBランク冒険者の捕縛、となっております」
一瞬、ギルド職員と視線が交錯する。
「受理しますか?」
「いや、やっぱりこっちにしたい」
男は目の前から無造作に1枚を剥がし、カウンターへ置く。
「D-3-800Lですね。こちら、難易度は低めですが失敗報告が3件寄せられておりますので、念のためご注意ください」
「分かった、気をつけよう」
「どうしたの? いつもより顔が怖いよぉ?」
「いや、何でもない。リーシア、お前、自分の名前、好きか?」
「ん? どういう意味?」
「お兄ちゃんが新しい名前を付けてあげようかって意味だ」
「え、ほんと? うん、つけてつけて!!」
「そうだな――アリスってのはどうだ?」
「アリス? アリス……アリス! アリス!!」
「どうだ?」
「アリス、好き! 私、アリスがいい!!」
「よし、お前は今日からアリスだ! アリス、改めてよろしくな!」
小さい身体でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ少女。
男は思う。何としてでも、彼女の笑顔を守り抜きたいと。
そして3日後――綺麗な金髪をばっさりと切り落とした少女と、見事なまでに髪を緋色に染めた男の姿は、町の中心街を外れた丘の上にあった。
池を前面に臨む小さな平屋。
広い庭は、手が付けられないくらいに荒れ果てている。
「ここが、アリスとおにーちゃんのおうち?」
「ごめんな、王宮とはえらい違いで――」
「ううん! おっきいね、このお庭ぜーんぶでしょ? これならたくさんお野菜が育つよね! あっ!」
走り回った挙句、豪快に転んだ少女。
「大丈夫か? まぁ、農家でもやってのんびり暮らそうか」
「えへへっ、楽しみだねぇ!」
「あぁ、これからの人生は楽しいことだらけだぞ!」
「やったぁ!!」
手を取り合って建物の中へと入る2人。
見方によっては犯罪臭が漂いそうなものだが、当の本人たちは全くそんな気はない様子だった。
「古いな。かなり手を入れないと駄目だ」
「アリス、お掃除がんばるよ!」
「無理はするなよ? 俺も頑張るからな」
冒険者の傍ら、彼は娘に剣術を教え、自立できるよう育て上げた。
少女は持って生まれた利発さ故に、物覚えも良かった。
すぐに料理を覚え、常に剣術を磨き、次々に魔法を得ていく。
充実した日々の中、少女と男との間には強い絆が生まれていた。
しかし、少女は男を自分の兄だと思っていない。まして、父親代わりなどとは全く。
気づいた時には、既に、男を好きになっていったのだから――。
お読みいただきありがとうございます。次回、もう一話だけ閑話を挟みます。




