ひだまり荘のクロ
坂道を少し上った先に、「ひだまり荘」と呼ばれる古い木造アパートがある。
木枠の窓、ギシギシ鳴る階段、風で揺れる郵便受け。新しくはないが、不思議と落ち着くその佇まいに、長く住み続ける人も多い。
春になると中庭の木々が芽吹き、淡い緑が陽の光に透けて揺れた。風はやさしく、廊下を通り抜けて、どこか懐かしい匂いを運んでくる。
そんなひだまり荘に、数年前から一匹の猫が住みついていた。
名前は「クロ」。
艶やかな黒い毛並みと、くるんとした尻尾を持った少し気まぐれな猫だった。誰かが飼っているわけではない。
けれど、ひだまり荘の住人たちは皆、クロのことをまるで家族のように思っていた。
クロは住人の部屋を気分で巡っていた。
年配の女性の部屋では日当たりのいい布団の上で丸くなり、大学生の部屋では教科書の上にどっかり座って勉強の邪魔をし、OLの買ってきたスーパーの袋に頭を突っ込んでは怒られていた。
けれど、不思議なことに、クロはときどき、まるで何かを察するかのように、誰よりも早く心が沈んでいる人の部屋に現れるのだった。
ある曇り空の日、新しい住人がひだまり荘にやってきた。
まだ若い青年で、二十代半ばに見える。
彼は誰とも挨拶を交わさず、黙々と小さな荷物を運び入れた。服は無地のパーカーとジーンズ。無表情な横顔がどこか張り詰めていて、笑ったところを想像できなかった。
「なんか、ちょっと暗いね、あの人」
住人のOLがぽつりと言った。
「まあ、事情があるんでしょう。そっとしておくのがいいわよ」
年配の女性がそう返す。住人たちは、そのまま青年のことを深く詮索しなかった。
だが、クロだけは違った。
青年が引っ越してきて三日目の朝、クロは静かに青年の部屋の前に座った。
ドアの前にちょこんと座り、にゃあと鳴く。
青年は無視した。数日間、クロは毎朝その場所に現れては鳴き、去っていった。ときには軽く蹴られかけたことさえあった。
けれど、クロは動じなかった。
クロがドアの前に座り続けて五日目の夜。
青年はようやく、重たそうにドアを少しだけ開けた。
「……なんなんだよ、おまえ」
クロはすっと入り込み、室内を一瞥したあと、窓際に歩いていき、そこに座りこんだ。
窓は閉まっていて、カーテンも厚手のままだったが、クロはただ、じっとその前にいた。
青年はしばらく黙っていたが、ぽつりとつぶやいた。
「……勝手に入るなよ」
クロは顔だけこちらを向いて、にゃあと小さく鳴いた。
その日から、青年の部屋には小さな変化が訪れた。
まず、翌日には窓が少しだけ開いた。
埃をかぶったカーテンが風で揺れ、日差しが入り込んだ。
数日後にはコンビニ弁当ばかりだったテーブルに、インスタントの味噌汁と、レトルトのご飯が加わった。
誰に見せるでもない、小さな暮らしの改善。
「今日、面接、行ってみた」
ある夜、青年はクロに話しかけた。
「行ったけど、駄目だった。……分かってたけどな」
クロは青年の足元で丸くなっていた。返事はない。
ただ、静かにそこにいるだけ。
「……昔さ、猫を飼ってたんだ。黒猫。クロって名前だった。おまえ、ほんとに似てる」
青年の声がわずかに震えていた。クロはしっぽを軽く揺らし、まるで「知ってる」と言いたげに目を細めた。
それから、青年は少しずつ笑うようになった。
郵便受けを確認し、洗濯物を干し、コンビニ以外の道も歩くようになった。住人の一人と挨拶を交わした日には、帰ってきた彼の顔にうっすらと安堵の色が差していた。
「おまえ、俺が思ってるより、ずっとすごいんじゃないか?」
ときどき、そんなことを言いながらクロの背を撫でる青年の手は、もう震えていなかった。
だが、春が来たある朝。クロはふらりと部屋を出たきり、戻ってこなかった。
青年はその日の夜、窓辺のクッションを見つめながら静かに待っていた。
次の日も、その次の日も。
けれど、クロは戻ってこなかった。
住人たちは「またどこかに行ったのかもね」と口々に言った。
不思議と、皆それ以上は気にしなかった。
クロは、そういう猫だった。
青年はそれでも毎朝、窓を開け、クッションの埃を払った。
クロがいた場所には、今も柔らかい日差しが差し込んでいる。
「おまえが、来てくれて……ほんとに助かったよ」
そう呟いたとき、青年の声にはもう迷いがなかった。
春風がそっと部屋を通り抜けた。
まるでクロのしっぽが、窓辺をくすぐったかのように。




