どんぐりの約束
山道の脇に小さな公園がある。ブランコが二つ、錆びたすべり台がひとつ、あとは大きな楠の木が真ん中に立っているだけの、素朴な場所だ。
秋になると、その楠は無数のどんぐりを落とす。風が吹くたび、ころころと転がる音が響く。まるで木が子どもをあやすように、楽しげな音色を奏でていた。
陽斗がこの公園に来るのは、いつも放課後だった。
今日は特に理由があったわけじゃない。ただ、授業中にふと窓の外の木の枝が揺れるのを見ていたら、急にここに来たくなったのだ。
ベンチに腰をおろし、足元に散らばるどんぐりを眺めた。
丸いもの、細長いもの、帽子をかぶったもの、傷だらけのもの。
形も色もすこしずつ違う。人間みたいだ、と陽斗は思った。
「陽斗?」
名前を呼ぶ声がして振り返ると、菜々(なな)が立っていた。
肩までの髪が、風に揺れている。制服のリボンがほんの少し曲がっているのは、走ってきたからだろう。
「ここにいると思った」
「なんで分かった」
「秋になると必ず来るもん、陽斗」
菜々は陽斗の隣に座ると、足でひとつのどんぐりを転がした。
ころり、と軽い音が響いた。
「この公園、浩司くんが好きだったよね」
陽斗の肩がわずかに震えた。
「ああ……昔、よくここで遊んでた」
「私も覚えてる。三人でどんぐり拾いしたこと」
陽斗はうつむき、指先でどんぐりをつかんだ。
丸くて、温かくて、手のひらの真ん中におさまるちょうどいい大きさ。
それを見つめる視線に、重たい記憶が浮かんでいく。
「事故の前の日、浩司に言われたんだ」
声が少しだけかすれる。
「『大人になったらまたここで勝負な。どっちが多く拾えるか』って」
菜々は黙って、陽斗の横顔を見つめた。
風が、落ち葉とどんぐりを転がしていく音だけが響いた。
「俺、覚えてるよ。笑いながら言ってた。『拾ったぶんだけ願いが叶うんだぞ』って」
陽斗の手のひらに、力がこもる。
「叶えたい願いなんて、あの時はなかったのにな」
菜々はそっと自分のポケットに手を入れた。
そして、小さな布袋を取り出す。
紺色の布で、白い糸で星の模様が刺繍されていた。
「これ、渡そうと思ってた」
「なにそれ」
「どんぐりを入れる袋。……今年も拾おうと思って」
菜々は布袋を陽斗の手にのせた。
柔らかい布の感触が、指先に温度を移していく。
「ずっと言えなかったけどね」
菜々は小さく息を吸った。
「私、浩司くんに救われたことあるんだ」
陽斗は顔を上げる。
菜々は視線を落としたまま続けた。
「中一の時、学校に行けなかった日があって。教室に戻るのが怖かった時、浩司くんが『公園来いよ』って呼んでくれてさ。何も言わずに、ただ一緒にどんぐり拾ってくれた」
「……あいつ、そういうやつだったから」
「そのとき、浩司くん言ったんだよ」
菜々は小さく笑った。
「『どんぐりってさ、土の中で眠ってる間に強くなるんだぞ』って。『苦しい時期がないと芽が出ない』って」
陽斗の胸の奥で、何かが溶けていくような感覚がした。
ずっと閉じたままの蓋が、少しだけ外れる音がした。
「だから、拾いたいの。今年も」
「菜々」
「葉っぱが落ちるのも、どんぐりが落ちるのも、終わるためじゃないよ。次に繋がるためだよ」
陽斗は、手のひらにある布袋を見つめた。
袋の中に、どんぐりをひとつ落とす。
ころん、と袋の底で音がした。
「願い、あるよ」
「どんな願い?」
「……ちゃんと前に進みたい」
菜々は小さく笑って、立ち上がった。
風が吹くと、どんぐりがいっせいに地面を転がる。
軽い音の粒が、ふたりを囲む。
「じゃあ、拾おうか」
「勝負する?」
「もちろん。負けないよ」
陽斗は立ち上がり、空を見上げた。
透き通るような青空の下、楠の枝がゆっくり揺れている。
枝の先で光る実が、今にも落ちそうにきらめいていた。
あの日と同じように。
でも、今日の風は違う。
「なあ、菜々」
「なに」
「来年も、ここ来よう」
「うん」
「その次の年も」
「うん」
「ずっと」
菜々は手のひらを広げ、転がってきたどんぐりをひとつ受け止めた。
その小さな実が太陽の光を受けて、金色に光った。
ころり。
ころり。
未来へ転がる音がした。
ふたりの笑い声は風に乗って、空へと昇っていった。
どんぐりは、落ちるために強くなる。
落ちたその場所から、次の春が始まる。
陽斗は、その真実を初めて心の底から信じられた気がした。




