紅葉の記憶
山道を歩くたびに、足の裏から伝わる土の柔らかさが少しずつ変わっていった。
夏には粘り気のある湿りを、冬には凍える硬さを。けれど、今この季節は違う。踏みしめるたびに、かさり、と乾いた葉の音がした。まるで小さな呼吸のように。
健斗はリュックの肩紐を握り直し、前を歩く桜の背中を見つめた。
桜は振り返らず、一定のリズムで足を運び続けている。揺れる髪に陽の光が刺さり、赤と金の間で輝いた。
「もうすぐ着くよ」
振り返らずに、桜は言った。
それがわずかな息の乱れから生まれた言葉だと、健斗は気づいた。
「無理すんなよ」
「してない。ここまで来たら、ちゃんと見たいから」
ふたりの間に、風が吹いた。
枝が揺れ、頭上から紅い葉がはらりと落ちる。光を受けてきらめきながら、ひとひら、またひとひら。
健斗は手を伸ばし、落ちてきた葉を受け止めた。指先に触れた薄い感触は、すぐに消えそうなくらい軽かった。
この山に来るのは、二年ぶりだった。
最後に来たのは、ちょうど紅葉が見頃だった高二の秋。ふたりと、もう一人ーー桜の兄、浩人も一緒だった。
健斗はポケットの中で手を握りしめる。
その指先には、浩人から預かったままの小さなキーホルダーが触れた。あの日の帰り道、浩人は笑って健斗の肩を叩いていた。
「じゃあ、来年もこの時期に。三人でまた来ような」
その言葉を、もう本人に返すことはできない。
桜が立ち止まった。
視界の先が開け、鮮やかな色が一面に広がった。
山の斜面いっぱいに、燃えるような赤と橙と黄色。
風が吹くと、色の波が揺れ動き、生きているみたいだった。
陽光が差し込むたびに、葉脈の一本一本まで透けて、世界が光の粒で満たされた。
「すご……」
健斗の口から、言葉がこぼれた。
桜はゆっくりと息を吐き、景色を見つめたまま言った。
「ここ、浩人がいちばん好きだった場所」
「ああ」
「最後に見た紅葉がこれだったらいいなって、ずっと思ってた」
風が桜の頬を撫で、光の方へと髪を流していく。
目元が少し赤く見えたのは、冷たい空気のせいか、それとも。
「桜」
呼びかける声は、自分でも思っていたより弱かった。
「約束、守りに来たよな」
「……うん」
桜は一歩だけ前に出て、両手でマフラーを握った。
「去年は来れなかった。歩ける気がしなかった」
小さく震える声。
「紅葉って、きれいで、でも、悲しい色だなって思ってた。全部、落ちていく色だから」
健斗はポケットからキーホルダーを取り出した。
赤い小さなドングリの形をしたそれは、少し色が剥げていた。
「浩人、言ってたよ」
「え?」
「紅葉ってさ、散るために染まるんじゃなくて、最後までちゃんと生きるために色を濃くするんだって」
「……そんなの、聞いてない」
「言ってたんだよ、馬鹿みたいに得意げに」
桜は唇を噛み、肩を震わせた。
健斗はゆっくり近づき、桜の隣に立った。
「落ちて終わりじゃないんだよ。ちゃんと散って、土になって、次の春の力になる。ってさ」
桜の瞳から一粒、涙がこぼれた。
光を受けてきらめきながら落ちていく様子は、紅葉とよく似ていた。
「ねえ、健斗」
「ん」
「来年も、来ようよ」
「ああ」
「再来年も」
「ああ」
「その先も、ずっと」
健斗は、静かにうなずいた。
風が吹き、紅い葉がふたりの周りを舞い踊る。
まるで空から降る光の粒のように。
「負けそうになったら言えよ」
健斗は言った。
「ひとりで抱えるな」
「その言葉、そのまま返す」
桜は涙をぬぐい、笑った。
その笑顔は、紅葉よりも強く、温かかった。
ふたりの足元で、葉がかさりと鳴った。
その音は、終わりの音ではなく、始まりの合図のようだった。
健斗は思った。
紅葉は、悲しみの色なんかじゃない。
痛みを抱えたまま、前へ踏み出すための色だ。
空に向かって、無数の葉が舞い上がる。
赤も、橙も、黄色も、すべてが光に溶けて揺れていた。
この景色を、もう一度ここで見るために。
ふたりは歩き始めた。
足音は軽く、未来に向かって続いていく。
紅葉が散る音が、背中をそっと押していた。




