コスモス
駅から少し外れた丘の道をのぼると、風の匂いが変わった。
夏の残り火を引きずったような空気から、ふっと軽い香りへ。
淡い色の風が、肌のうえを撫でていく。
その風を割るように、ひらひらと揺れる花があった。
丘一面に咲くコスモス。
白、桃、薄紅。気ままに揺れ、そよぎ、また揺れる。
「わあ……やっぱり、この季節がいちばん好きだな」
花のあいだで立ち止まっていた沙綾が、小さく息をこぼした。
後ろから歩いてきた悠真は、その声に迷いなく返す。
「知ってるよ。去年も言ってた」
「覚えてたんだ」
「忘れないよ。こんなに嬉しそうに言われたら」
沙綾は照れたように髪を耳にかけ、足元の花を踏まないように一歩進んだ。
コスモス畑の中に伸びる細い道は、風の度に形を変えながら続いている。
「ねえ、悠真。コスモスってさ、弱そうに見えて、けっこう強いんだよ」
「風に揺れまくってるけど?」
「そう。あんなに細い茎なのに、折れないの。揺れるから折れないんだって」
沙綾は指で自分の胸の前あたりを示しながら、風が来る方に体を傾けた。
風に逆らわず、ただ身を預けるような仕草。
「わたしもさ、揺れてれば折れないかなって、たまに思うの」
「……なにが、あったの」
問いかける声に、沙綾はすぐには答えなかった。
代わりに、ひとつの花をそっと見つめた。
薄紅の花弁がふるふる震えて、光をすくっている。
「この前さ。塾の帰りに先生に言われたの。“もっと強くならないといけないよ”って」
「強く、ね」
「そう。できる子は強い子だって。努力して、我慢して、ぐっとこらえて。それが当たり前だって」
沙綾は笑った。けれどその笑みは、花よりずっと弱々しかった。
「でも、わたし、そんな強くないよ。すぐ泣きたくなるし、折れそうになるし……風が吹くたびに揺れちゃう」
「揺れちゃだめなの?」
「だめって言われた」
「それ、ほんとに?」
悠真は、花にそっと触れた。
揺れ続ける薄い茎は、細いのにしなやかだった。
「沙綾、見てみろよ。この花」
「うん」
「揺れなかったら、たぶんすぐ折れてる。風を受けて、逃がして、また戻るから生きてるんだよ」
沙綾の肩がふるりと揺れたのは、風のせいなのか、言葉のせいなのか。
「強いってさ」
悠真は言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「折れないことじゃないだろ。ちゃんと揺れることなんじゃないのかな」
沙綾は、下を向いたまま短く息を吸った。
「わたし……揺れててもいいの?」
「いいよ。むしろ、揺れてくれるほうが安心する」
「なんで」
「だって、折れちゃうよりずっといい」
ほんの一瞬、沈黙が落ちた。
コスモス畑には風が通り抜け、花がざわりと波をつくる。
「ねえ……」
沙綾が顔を上げた。目元が少し赤い。
「じゃあ、今は揺れてもいい?」
「うん。俺が隣にいるから」
言った途端、沙綾の瞳がぱっと揺れて、少し笑った。
その笑顔は、さっきまでの風よりもずっとやわらかかった。
ふたりは並んで歩き出す。
細い道を、コスモスの揺れが囲む。
花々の影が寄せては離れ、ふたりの足元を追いかけてくる。
「来年もこの時期、一緒に来よ」
「うん。約束」
「忘れんなよ」
「忘れたら、風に言っとく。揺らして思い出させてって」
悠真は吹き出し、沙綾もつられて笑う。
風がまた吹き、花たちが一斉に揺れた。
弱くて強い花の群れ。
揺れることで生き、揺れることで保たれる形。
その真ん中を、ふたりの影がゆっくりと進んでいく。
コスモスは今日も、風に揺れながら、誰かの足取りをそっと見守っていた。




