不思議な井戸
昔あるところに、年老いた木こりがひとりで暮らしていました。
木こりは毎朝、まだ夜明けの薄い光が空を染めるころ、斧を肩にかけて山へと入っていきました。
山の中は静まりかえり、ただ鳥のさえずりと、風が木々を揺らす音だけが響いていました。木々は高くそびえ、枝葉は重なり合って空を覆い隠し、森の奥は昼でもひんやりと薄暗く、別世界のようでした。
朝の冷たい空気は肺の奥深くにまで染みわたり、木こりの背筋をすっと伸ばしました。
木こりは長い年月、斧で木を切り出し、薪を村に運び続けてきました。村人たちは皆、その薪で暖をとり、煮炊きをし、暮らしをつないでいました。
けれど時は残酷です。木こりの体は次第に衰え、斧を振るう力も弱くなり、歩みも鈍くなっていました。
それでも木こりは山へ通い続けました。山は木こりにとって生きる力の源であり、友であり、家族そのものだったからです。
ある晩、日がすっかり沈み、闇が山を包んだころのことでした。
木こりは帰り道を歩きながら、ふと見覚えのない細い道に気づきました。苔むした石の階段が、森の奥へ奥へと続いています。
夜の闇にぼんやり浮かび上がるその階段は、まるで別の世界へ導いているかのように不思議な光を帯びていました。
翌朝。木こりは胸の奥に残った興味に突き動かされ、その石段をゆっくりと下りていきました。
階段を下りきった先には、古びた大きな井戸がありました。石を積み上げて造られたその井戸は、長い年月を耐えてきたようで、苔や蔦に覆われていました。
井戸の口からは冷気が漂い、夏の朝であるにもかかわらず、木こりの腕には鳥肌が立ちました。
木こりは桶を下ろし、慎重に水をくみ上げました。
汲み上げた水は驚くほど澄んでいて、光を受けるときらきらと輝きました。恐る恐る口をつけると、その水はただ冷たいだけではなく、ほんのりとした甘みを帯び、渇いた喉をやさしく潤しました。
「……これは、ただの水ではない」
木こりは直感しました。
その日から、木こりは毎朝井戸へ通い、その水を汲み、村へ持ち帰るようになりました。
やがて村人たちがその水を飲むと、不思議なことが起こりました。
長く寝込んでいた病人は起き上がり、疲れに悩んでいた者は力を取り戻し、子どもたちは風邪を引かなくなりました。
村人たちは皆、口々に「これは奇跡の水だ」と喜び、木こりを敬いました。
そんなある夜。木こりは不思議な夢を見ました。
夢の中に現れたのは、白い髪を長く垂らした女性でした。その姿は人のようでありながら、どこか神秘的で、目を合わせると深い森の影に吸い込まれるような感覚を覚えました。
女性は柔らかな声で語りかけました。
「この水は山の神のもの。使う者は、決して感謝の心を忘れてはならぬ」
目覚めた木こりは、夢の言葉を胸に刻みました。
翌朝から井戸のそばに小さな祭壇を作り、祈りを捧げるようになりました。
木こりが祈りを重ねるうちに、不思議なことが起こりました。
井戸の水は以前にも増して澄み渡り、冷たさがいっそう際立ちました。
周りの草木は青々と葉を茂らせ、花々はひときわ鮮やかな色で咲き誇りました。鳥の声は美しい調べとなり、森全体が生き生きと息づいているように感じられました。
村人たちも祭壇に手を合わせるようになり、井戸の水を「命の水」と呼び、感謝の気持ちを込めていただきました。
木こりは、自分の役目が薪を運ぶ者から、森と村をつなぐ者へと変わったことを、静かに受け入れました。
やがて歳月が流れ、木こりもさらに老い、斧を握る手は震え、足取りも覚束なくなりました。
それでも、毎日井戸へ足を運び、祭壇の前で祈りを欠かしませんでした。
そしてある朝、木こりは祭壇の前に座ったまま、静かに息を引き取りました。顔は穏やかで、まるで森そのものに溶け込むようでした。
木こりがいなくなった後も、村人たちは井戸を大切に守り続けました。
水は清らかに湧き続け、感謝を忘れない者には命を与え、欲にまみれた者にはただの冷たい水にしかならない。
そう語り継がれるようになりました。
今もなお、森の奥深くにはその井戸がひっそりと残っています。
鳥の声が響き、木々がざわめくその場所で、木こりの祈りと山の神の力は、静かに息づき続けているのです。




