表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/54

バニラアイス

 午後三時、古い商店街のはずれにある「ミルクホイップ堂」は、今日もひっそりと開いていた。

「いらっしゃい」

 小さなベルが鳴ると、カウンター奥から店主の沢口が顔を出した。白髪まじりの髪を後ろでまとめ、無駄に広い作業台の前に立つ姿は、どこか町の時計職人のようでもある。


「バニラアイス、ひとつ」

 制服姿の少女・灯子は、学校帰りの鞄を椅子に置きながら言った。

「今日もそれでいいのかい。他にも新作があるぞ。黒糖ラムレーズンとか」

「いいの。バニラがいちばん落ち着くから」

 沢口はふっと笑い、静かにアイスディッシャーを構えた。銀色の器具がバットの表面を滑る音が、店内の時計よりも確かなリズムで響く。灯子がここへ来るようになったのは、八月の初めだった。猛暑日が続き、学校の図書室ですら、むわりとした熱をためこんでいた頃だ。

「はい、お待ちどう」

 差し出されたのは、いつもの白。けれど、灯子は受け取るたびに胸の奥が少しだけ温かくなる。不思議なことに、冷たいものなのに温かい。

「ねえ、沢口さん。バニラって、なんでこんなに優しい味がするんだろう」

「さあな。だが、おまえさんには理由があるんじゃないか」

 灯子はスプーンで表面をなでるようにすくいながら、少しだけ言いづらそうに視線を落とした。

「……母さん、アイス作る仕事してたの。お店とかじゃなくて、研究みたいなやつだけど。毎日香りを比べて、味を試して、疲れたときは自分でもバニラ作って食べて……」

「ほう。それは初耳だ」

「去年、亡くなっちゃったんだけどね。でも、家にはバニラの香りだけは残ってる気がして」

 沢口は手を止めなかった。差し替えるための冷凍庫のトレイをゆっくりと出しながら、ただ「そうか」と呟いた。

「バニラってさ、真っ白に見えるけど、本当は白じゃないよね」

「そうだな。少し黄がかった、温度を持った白だ」

「母さんの声も、そんな感じだった気がする」

 ぽつりと告げる灯子の言葉は、アイスの表面に落ちてそっと溶けていくようだった。店の窓から差し込む光が、カップの縁を淡く照らす。遠くで夏の終わりを告げる蝉の声が途切れ途切れに聞こえた。


 沢口は、作業台に置いてあった細長い瓶を手に取った。薄い琥珀色の液体が揺れ、かすかに甘い香りが漂う。

「これは、うちでも特別なバニラだ。タヒチ産の豆で作ったエッセンス。甘さよりも、花の香りが前に出る」

「初めて見る」

「今日だけ少しだけ、混ぜてみるか?」

 灯子は目を丸くし、迷うようにスプーンを止めた。

「いいの?」

「おまえさんの話を聞いたら、どうにも試してみたくなってな。特別サービスだ」

 沢口はほんの数滴、白い表面に落とした。香りはすぐに広がったわけではない。ただ、すくった瞬間、灯子の表情がわずかに揺れた。

「……あ、違う。いつものと違う。でも、変じゃない」

「合わなかったら、残しな」

「ううん。なんか……胸の奥がやわらかくなる」

 大げさな表現ではなかった。灯子の頬は少し赤く、目元はどこか遠くを見つめているようだった。

 彼女が再びスプーンを運ぶと、静かな時間が店に満ちる。時計の針が進む音が、まるで物語の章をめくるように響いた。


「……母さんね、最後の日にもバニラ食べたいって言ったの」

 灯子は、できるだけ平坦に言おうとしたが、声はかすかに震えた。

「でも、病院のじゃ全然だめで。薄くて。私、何もしてあげられなかった」

 沢口はしばらく黙っていた。やがて、深い皺の刻まれた指でカウンターを軽く叩く。

「それでも、おまえさんが覚えてる。それで十分だよ」

「……でも」

「味を覚えてるのは、生きてる証拠だ。誰かが作ったものを、誰かが確かに受け取った痕跡だ。忘れちまったら、それがなくなる」

 灯子は、手の中のカップをぎゅっと握った。

「忘れたくない」

「なら、ここで食べればいい。バニラなんざ、毎日でも作ってやる」

「……ほんとに?」

「ほんとに。店がつぶれなきゃな」

 小さく、けれど確かな笑いが灯子の口元に生まれた。

 沢口もまた、肩をすくめて笑った。笑い声は店の木の棚に跳ね返り、やわらかく溶けていく。


 灯子が最後の一口を食べ終えると、店の外では夕焼けが始まっていた。

「また来るね」

「いつでも来な」

 扉が鳴り、少女の背中が通りに溶けていった。

 沢口は空になったカップを片付けながら、ぽつりと呟いた。

「……あの子の白は、まだ溶けないでいてほしいもんだな」


 夜がゆっくりと近づく。店の奥では、新しいバニラの仕込みが始まっていた。

 甘く、静かで、誰かの記憶をそっと照らす白い香りが、今日もやわらかく満ちていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ