月の見えるベンチで
秋の夜風が少し冷たく感じ始めた十月の終わり。
駅から少し離れた公園のベンチに、灯りを落とした街の明かりと月の光が重なっていた。
桐谷優斗は、缶コーヒーを手にしてそのベンチに腰を下ろした。
少し前まで、隣にはいつも彼女ーー望月紗菜がいた。
けれど、今はもうここに来ることはない。
転勤が決まったのだ。遠く、北の町へ。
思い出すのは、去年の冬の夜。
雪の降るこの場所で、二人は何も言わず、ただ空を見上げていた。
そのとき、紗菜が言った。
「ねえ、月が綺麗ですね」
優斗は、どう答えたらいいかわからなかった。
ただ、照れ隠しのように笑って、「ああ、たしかに」とだけ返した。
その一言が、ずっと胸に残っている。
あれから季節が三つ巡って、今夜も同じように月が浮かんでいる。
けれど隣には、もう彼女はいない。
そんなことを思っていたとき、後ろから声がした。
「……久しぶりだね」
振り向くと、そこに紗菜が立っていた。
トレンチコートの裾を風が揺らしている。
「転勤、明日なんでしょ?」
優斗は驚いたように立ち上がる。
「どうして知ってるの?」
「職場の後輩が、教えてくれたの。偶然だけどね」
そう言って、紗菜は微笑んだ。
二人は並んでベンチに座った。
沈黙が流れたが、それはどこか穏やかで、懐かしい静けさだった。
「ねえ、あのときのこと覚えてる?」
紗菜がふと問いかけた。
「……月が綺麗ですね、って言った夜のこと?」
「うん」
「もちろん覚えてる」
優斗は少しだけ笑った。
紗菜は夜空を見上げながら、ゆっくり言葉を続けた。
「私ね、あのとき、本当に言いたかったのは、別のことだったの」
優斗は横目で彼女を見つめる。
「わかってた……けど、聞けなかった」
「どうして?」
「怖かったんだよ。もし違ってたらって思って」
ふたりの間に、風が通り抜けた。
銀色の光が、木々の間からこぼれて彼女の髪を照らしていた。
「もう少し早く気づいていればなぁ」
優斗がつぶやくと、紗菜は首を横に振った。
「遅くなんてないよ」
「え?」
「だって、今こうして同じ月を見てる。それで十分」
言葉が、月の光みたいに静かに胸に落ちた。
「ねえ、紗菜」
優斗はゆっくりと息を吸った。
「月が、綺麗だね」
紗菜は目を細めて、笑った。
「うん。すごく、綺麗」
その一言で、二人の時間が止まったように感じた。
どちらも、それ以上何も言わなかった。
でも、それでよかった。
夜は深まっていく。
遠くで電車の音が聞こえた。
その音に紗菜が立ち上がる。
「もう行かなくちゃ」
「……そっか」
「でもね、また来る。たぶん、春になったら」
優斗はうなずいた。
「待ってるよ。月の見えるこのベンチで」
紗菜は少し照れたように笑って、
「じゃあ、そのときもちゃんと言ってね」
「何を?」
「“月が綺麗ですね”って」
そう言って歩き出す紗菜の背中に、街灯の光が重なった。
彼女の影が雪のように淡く伸びていく。
優斗はその姿を見送りながら、静かに夜空を仰いだ。
そこには変わらず、澄んだ月が浮かんでいた。
もう何も言わなくても、気持ちは届いているような気がした。
風が頬をなで、木の葉がさらさらと鳴る。
その音の向こうに、彼女の笑い声が聞こえた気がした。
月が、ほんとうに綺麗だった。




