傘がひとつ
私は、人と距離を置くのが癖になっている。
誰かと仲良くなると、どこかで必ず疲れてしまう。期待されたり、頼られたり、勝手に「こういう子だ」って決められて、そして、がっかりされたり。
だったら最初から、期待もされないほうが楽だった。
今日は雨。
ずっと降ってる。朝から。
傘の透明なビニール越しに、にじんだ街が見える。
人の足音、車の音、濡れたアスファルトの匂い。どれも静かなはずなのに、全部うるさく感じる。
早く帰りたいな。
そう思って、いつもより速足で歩いた。
駅前の本屋の前で、人影があった。
傘を持っていない男子がひとり、屋根の下で雨宿りをしている。
「……バカだな」
思わず口に出た。
制服、びしょびしょだった。冬のブレザーが重たそうに濡れてる。まるで、誰かに水ぶっかけられたかみたいな有様だった。
顔は見たことある。
同じ学年、同じ学食エリアでたまに見かける。クラスは違うけど。
関わる必要、ないはずだった。
でも、足が止まった。
なぜか、立ち止まってしまった。
「……傘、入る?」
私の声は、雨音にかき消されるくらい小さかった。でも、彼はすぐに顔を上げた。
「え、あ……いいの?」
「別に。私の家、近いし。そこまででいいなら」
差し出した傘に、彼は少し戸惑ってから、静かに入ってきた。ちょっとだけ距離が近い。傘ってこんなに狭かったっけ。
変な空気。けど、嫌じゃない。
「ありがとう……助かった。マジで寒くて死ぬかと思った」
「……忘れたの?」
「うん、というか、天気予報見てなくて」
「バカなんだ」
「否定はしない」
彼は笑った。私は笑ってないけど、少しだけ、肩の力が抜けた。
「名前、なんて言うの?」
唐突だった。
私は、人に名前を聞かれるのが苦手だ。なんか、急に裸にされたような気分になるから。
「……一ノ瀬」
「そっか。俺は桐原」
「ふーん」と返そうとしたけど、口には出さなかった。
「前から思ってたけど、一ノ瀬さんって静かだよね。なんか、教室でも人と話してるとこあんまり見ない」
「観察しすぎじゃない?」
「ごめん、悪気はないんだ。ただ……俺もちょっと似てるからさ」
似てる?
「俺もさ、あんまり人と話すの得意じゃないんだよ。っていうか、人が多いと何話していいかわかんなくなる」
それを聞いて、初めて彼の顔をまじまじと見た。優しそうな目だった。ちょっと不器用そうな笑い方。
「意外」
「よく言われる。明るそうに見えるって」
「見えないよ」
「即答かよ」
また彼は笑った。
気づけば、うちの近くまで来ていた。
別れ道で立ち止まる。傘の中に、ぽたぽたと雨が入り込んでくる。
「ありがとう、一ノ瀬さん」
「別に。家、近いからちょっとならいいかって」
「でも、ちょっと嬉しかった」
嬉しかった。その一言が、胸のどこかに落ちた気がした。
「また、話せる?」
彼がそう言ったとき、一瞬、言葉が出なかった。
「……別に。話したきゃ勝手にすれば」
「じゃあ、また勝手に話すわ」
そう言って彼は走り出した。びしょびしょの靴音が遠ざかっていく。
私はまだ、傘を閉じられないでいた。
次の日も雨だった。
私は大きめの傘を持っていた。




