うた
少女は、ひとりで歌うのが好きだった。
声は小さくて、誰にも聞こえないほどだったけれど、少女は毎日歌っていた。
朝、家を出るとき。
通学路の小さな坂道を歩くとき。
雨の日も、風の日も、雪の日も。
誰にも聞かれないように、小さな声で。
誰かに聞かれるのが恥ずかしかった。
笑われたくなかった。
でも、歌いたかった。
だから、ひとりで歌っていた。
少女の歌には、メロディしかなかった。
言葉はなかった。
けれど、たしかに歌だった。
悲しい日には悲しい歌が。
楽しい日には楽しい歌が。
何もない日は、風みたいな歌が。
少女は、ただ口を閉じたまま、心の中で歌っていた。
誰にも気づかれずに、何年も。
ある日、学校で発表会があった。
みんなで合唱をした。
少女は歌ったけれど、小さな声だった。
隣の子の声にかき消されて、自分の声が聞こえなかった。
でも、それでよかった。
だれかに気づかれるより、そっと歌っていたかった。
先生は言った。
「もっと大きな声で歌いましょう」
少女はうなずいたけれど、声は変わらなかった。
それでも、歌うのは好きだった。
家に帰る途中、人気のない小道で、少女はまた歌った。
さっきの合唱よりも、ずっとのびのびと、自由に。
言葉のない、少女だけのメロディが、空に溶けていった。
ある日、公園のベンチに、年老いた男の人が座っていた。
少女がいつものように歌っていると、男の人がふと目を開けて言った。
「きれいな歌だね」
少女はびっくりして、黙った。
こんなに静かな声でも、聞こえていたのだろうかと、心臓が早くなった。
けれど、男の人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、空を見ていた。
次の日も、少女は同じ場所で歌った。
また、その次の日も。
男の人はベンチに座って、静かに空を見ていた。
ある日、少女はおそるおそる聞いてみた。
「どうして、私の歌が聞こえるの?」
男の人は、笑って言った。
「わたしも昔、ひとりで歌ってたからさ」
少女は何も言わなかった。
でも、心がふわりと軽くなった気がした。
それから時々、少女は男の人の前だけで、少しだけ声を大きくして歌った。
言葉のない、少女だけの歌。
でもその歌は、確かに、誰かに届いていた。
やがて男の人は来なくなった。
ベンチは空っぽだった。
少女は少しだけさみしかったけれど、それでも歌い続けた。
今度は、男の人に届くように。
空に向かって、小さく、小さく、でもたしかに届くように。
少女の歌は、誰にも気づかれずに、世界の片隅で響いていた。
今日もまた、ひとりで歌いながら、少女は歩いていた。




