十三夜の約束
その年の秋は、いつもより風が早く冷たくなった。
稲刈りを終えた田んぼの向こうで、虫の声が重なりあう。
空には、まるくなりきらない月が、少しだけ霞んで浮かんでいた。
私は、ひとりでその月を見ていた。
家の裏手にある小さな丘。
子どものころからずっと、そこが好きだった。
夜になると、風が少し甘くて、すすきが揺れて、まるで世界が静かに呼吸しているみたいに感じる。
その夜は、十三夜だった。
十五夜ほど有名じゃないけれど、「日本の秋には、もうひとつのお月見がある」と祖母がよく言っていた。
「十三夜は“あと少しの月”や。満ちる前の、美しい途中なんやで」
そう言いながら祖母は、丸いお団子を十五個ではなく十三個、丁寧に並べていた。
窓の外では、うっすらと金色の月が上がっていた。
私はお団子をひとつもらって、縁側に座った。
風にのって、遠くから鈴の音のようなものが聞こえてきた。
最初は耳の錯覚かと思った。
けれど、何度か風が通るたびに、その音は確かに近づいてきた。
チリン、チリン。
私は縁側を降り、草履をはいて外に出た。
音のする方、畑を越えた丘の上に、小さな灯が見えた。
蛍のようでいて、もっと白く澄んだ光。
その光の中に、誰かが立っていた。
白い着物の女の子だった。
肩までの髪が風に揺れ、手に小さな鈴を持っている。
「こんばんは」
思わず声をかけると、女の子はゆっくりこちらを向いた。
「こんばんは。あなたも、月を見にきたの?」
その声はとても柔らかくて、どこか遠くの響きが混じっていた。
私はうなずいた。
「おばあちゃんが言ってたの。今日は十三夜だって」
「そう。だから、降りてきたの」
「……降りてきた?」
女の子は小さく微笑んだ。
「私、月の子なの。十三夜の夜にだけ、人の世界に来ることができるの」
冗談だと思ったけれど、どこか本当のようにも思えた。
月の光が彼女を包み、影ができない。
白い着物がふわりと揺れるたびに、夜の空気がきらめいた。
ふたりは並んで、丘の上に座った。
足元にはすすきが揺れ、遠くの川の音がかすかに聞こえる。
「ねえ、月の子は、何をしに地上へ降りてくるの?」
「うーん……たぶん、思い出を探しに」
「思い出?」
「昔、人の世界にいたことがある気がするの。でも、月に戻ったあと、少しずつ忘れてしまったの」
彼女は膝を抱えて、少し寂しそうに笑った。
「だから、毎年この夜だけ降りてきて、探すの。何を忘れたのかを」
風が吹いて、雲が流れた。
十三夜の月が、ふたりをやさしく照らした。
その光の中で、私は小さな声で言った。
「じゃあ、私といっしょに探そっか」
「……いいの?」
「うん。どうせ、寝るのもったいない夜だし」
彼女はくすっと笑った。
そして、二人で村の道を歩いた。
川の橋を渡り、神社の前を通り、枯れ葉を踏みしめながら。
「この道、なんだか懐かしい……」
と月の子がつぶやいた。
「もしかして、ここに住んでたの?」
「わからない。でも、あの鈴の音……」
彼女は手に持った小さな鈴を振った。
チリン。
その音が夜に溶けていく。
「この音、ずっと前にもここで聞いた気がするの。誰かと一緒に」
そのとき、私は思い出した。
幼いころ、夜中に熱を出したとき、祖母が語ってくれた話。
『むかし、この村に“月の子”がいた。十三夜の夜に、鈴を鳴らして人を呼ぶ。でもね、その鈴の音を聞けるのは、“もうすぐ会えなくなる人”だけなんや』
心臓が、静かに跳ねた。
「それって……」
言いかけたとき、空に薄い雲が流れ、月が隠れた。
風が止まり、世界が静まった。
月の子の姿が、少しずつ淡くなっていく。
「……もう、時間みたい」
「待って! まだ……」
「ありがとう。あなたのおかげで、思い出したの」
「なにを?」
「あなたに会ったこと。ずっと昔にね」
月の子の目が、月の光を映していた。
「小さいころ、あなたが丘の上で泣いてた夜、私がこの鈴を鳴らして、空を見ようって言ったの。あのときの“ありがとう”が、ずっと消えなかったの」
月の子の手から、鈴が転がり落ちた。
チリン、と澄んだ音がひとつ。
そのまま彼女の姿は、風のように消えていった。
十三夜の月が、再び顔を出した。
私はひとり、丘の上に立っていた。
草の上には、冷たい小さな鈴が残っていた。
それから、毎年の十三夜。
私は鈴を持って、月を見上げる。
風が吹くたびに、チリンと鳴る音が、どこかで返ってくる気がする。
まるくない月。
満ちきらない夜。
けれど、その光は欠けたままでも、確かにそこにある。
だから私は、十三夜がいちばん好きだ。
満ちきらないものの中に、ちゃんと約束がある気がするから。
素敵な十三夜をお過ごしください。




