冬の小さなパン屋
初雪が降った日の朝、駅の近くに新しいパン屋ができていた。
ガラス越しに見える店名は〈しろつめ舎〉。
小さな木の扉の上には、白いクローバーのマークが描かれている。
仕事帰りの真奈美は、ふと足を止めた。
冷たい風に頬を撫でられながら、甘い香りが鼻先をくすぐる。
焼きたてのパンの香り。それだけで心が少しやわらぐ気がした。
扉を押すと、鈴がやさしく鳴った。
中には、小柄な男性が一人。
白いエプロンの胸元には、小麦の刺繍が施されている。
「こんばんは。雪の中、いらっしゃいませ」
「こんな時間まで開いてるんですね」
「ええ、うちは“夜のパン屋”なんです」
真奈美は少し笑った。
「夜のパン屋?」
「はい。昼間は眠っている人の心に、夜は食べ損ねた想いにパンを焼くんです」
冗談のように聞こえるその言葉に、不思議と心があたたかくなった。
棚には見たことのない名前のパンが並んでいた。
記憶のブリオッシュ
約束のクロワッサン
ためいきマフィン
その中で、ひときわ目を引いたのが「星影のスコーン」だった。
ほんのり銀色の粉がかかっていて、まるで夜空をちぎって焼いたようだ。
「それをください」
真奈美が言うと、店主は静かに包みながら尋ねた。
「このスコーンは、“誰かを想って眠れない夜”に食べると、少し心が軽くなるんです……そんな夜が、ありましたか?」
真奈美は息をのんだ。
仕事が忙しくて、恋人とすれ違ったまま別れてしまったのは、ほんの数ヶ月前のことだった。
まだ、名前を呼ばれるたびに心が揺れる。
「あります……忘れられない夜が」
「じゃあ、星をひとつ混ぜておきましょう」
店主はそう言って、手のひらの上で銀色の粉をひとつまみ、パンの上に落とした。
粉は空気の中で光り、やがてスコーンに吸い込まれていった。
「それは?」
「“願い粉”です。誰かの小さな祈りが、風に乗って届いたものですよ」
包みを受け取ると、温もりが手のひらに伝わる。
香ばしい甘さと一緒に、胸の奥まで温まっていくようだった。
「また来てもいいですか?」
真奈美が尋ねると、店主は微笑んだ。
「もちろん。でもこの店は、雪の降る夜しか開きません。だから次に来るときも、きっと少し寒い夜ですね」
真奈美はうなずいて店を出た。
外にはまだ、静かに雪が降っている。
歩くたびに靴の底で、雪が小さく鳴った。
帰宅して、包みを開くと、スコーンがほんのり光っていた。 湯気の中で、星の粉がまだ消えきっていない。
ひとくち食べると、やさしい甘みのあとに、遠い声がしたような気がした。
「おやすみ、まなみ」
懐かしい声。
涙がこぼれた。けれど、悲しくはなかった。
その夜、真奈美は久しぶりに夢も見ずにぐっすりと眠った。
数週間後、雪がまた降った。
真奈美は仕事帰りに、同じ路地を通ってみた。
だが、〈しろつめ舎〉のあった場所には、ただ古いレンガの壁が残っているだけ。
看板も、扉も、何もなかった。
代わりに、雪の上に小さなクローバーの花が咲いていた。
冬に咲くはずのない白いクローバー。
しゃがんで触れると、花びらのひとつが静かに舞い上がった。
その花びらが、雪の中で光を放ち、やがて消えていく。
また、会える気がした。
きっと次の雪の夜に。




