灯虫堂
梅雨が明けたばかりの夜だった。
街の熱気がやっと静まり、川沿いを吹き抜ける風に、かすかな涼しさが混じる。
悠人は残業帰り、駅から少し離れた道を歩いていた。
昼間の忙しさがまだ身体に残っている。
明日も同じ仕事、同じ時間、同じ日々。
ふと、空を見上げると、湿った雲の間から一つだけ星が覗いていた。
そのときだった。
道の脇に、淡い光がひとつ、ふわりと浮かんでいるのが見えた。
ホタルだ。
この街で見るなんて思ってもいなかった。
その光を追うように歩いていくと、小さな橋の手前に、ぽつんと古い木の建物があった。
灯りが、やさしく窓を照らしている。
看板には、くるりとした文字で「灯虫堂ーほたるどうー」と書かれていた。
扉を押すと、鈴の音が鳴った。
中は想像よりも広く、壁一面に小瓶が並んでいた。
それぞれの瓶の中には、小さな光の粒が漂っている。
まるで空気ごと、夜を閉じ込めたみたいだった。
カウンターの奥から、白いワンピースを着た女性が現れた。
長い黒髪を後ろでまとめ、首には小さな蛍の形をしたペンダントが光っている。
「いらっしゃいませ。灯虫堂へようこそ」
「……あの、ここは?」
「この店は、“忘れたくない想い”を灯に変える場所なんです」
彼女はにこりと笑い、ひとつの瓶を取り出した。
中には淡い橙色の光がゆらゆらと揺れている。
「これは“初恋の灯”です。渡せなかった手紙の言葉が、光になっているんですよ」
悠人は、瓶の中の光に見入った。
ゆらめくたびに、胸の奥の何かがざわめいた。
それは、ずっと心の奥に押し込んできた記憶。
中学の頃、転校していった少女に言えなかった「好き」という言葉。
「もしかして……その灯をもらうことはできますか?」
「ええ。でもね、この灯は“過去”を照らすもの。あなたが本当に欲しいのは、まだ消えていない“今”の光じゃないですか?」
彼女はそう言って、奥の棚から別の瓶を取り出した。
瓶の中では、淡い青い光が、かすかに脈打っていた。
「これは“いまを灯す蛍”です。誰かを想う気持ちを、もう一度光らせたいときに使うんです」
「でも……僕には、もう届ける相手がいない」
「本当に?」
彼女の声は、静かに、でもまっすぐ胸の奥に届いた。
「人はね、言葉にできなかった気持ちを抱えたままでも、生きていける。けれど、その想いはどこかで光り続けてるんです。灯虫堂の蛍たちは、その光を見つけてここへ運んでくるんですよ」
悠人は言葉を失った。
カウンターの後ろには、無数の瓶が並び、どれも淡い光を灯している。
それぞれの光が、人の心のかけらのように見えた。
「……もしよかったら、一つ灯してみますか?」
「どうやって?」
「心の中で、いま一番伝えたい言葉を思い浮かべてください」
悠人は目を閉じた。
頭に浮かんだのは、遠い記憶の少女。笑顔を残して去っていったあの日。
もう届かないとわかっているのに、心のどこかでずっと伝えたかった言葉がある。
『ありがとう』
その瞬間、瓶の中の青い光がふっと強く輝いた。
小さな蛍が瓶の中をくるりと回り、そしてふわりと外に出ていった。
光は店の天井を越え、夜の外へと舞い上がっていく。
店内の灯りが一瞬やわらぎ、空気がやさしく揺れた。
「届きましたね」
彼女が静かに言った。
「……届いた、んでしょうか」
「きっと。夜のどこかで、その人も同じ光を見上げてるはずです」
店を出ると、川の上にたくさんの蛍が舞っていた。
川面に映る光はまるで星空のようで、風が吹くたび、光がすこしずつ遠ざかっていく。
その中に、ひときわ青い光があった。
悠人は立ち止まり、手のひらを伸ばす。
蛍は少しのあいだ、そこにとどまって、それから夜空へと消えた。
その小さな光が消えたあと、胸の奥に、不思議な温もりだけが残っていた。
数日後、悠人は仕事の帰り道で、偶然ひとりの女性に出会った。
信号待ちの横顔に、どこか見覚えがあった。
中学のとき、転校していった少女ーー紗奈だった。
「久しぶり」
驚いたように振り向いた彼女の瞳が、街灯の光を受けて少しだけ輝いた。
互いに笑って、言葉を交わす。
ほんの短い会話の中で、悠人は気づいた。
あの夜の蛍の光は、きっとここへ導いてくれたのだと。
別れ際、紗奈がふと空を見上げて言った。
「ねえ、あれ……蛍かな?」
夜空の下で、小さな青い光がひとつ、ゆっくりと流れていった。




