表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/55

夢借屋

 夏の夕暮れ、蝉の鳴き声がようやく静まりはじめた頃。駅前の細い路地で、僕は一本の電柱に貼られた小さな紙を見つけた。


 夢、お貸しします。 一夜 五百円

 悪夢お断り、怖いのは苦手です〈夢借屋〉

 

 おかしな話だと思った。

 でもそれ以上に、なぜか懐かしい気配がした。

 紙には小さな地図が描かれていた。駅の裏手、廃れたアーケード商店街のさらに奥。

 好奇心に負けて、その晩、僕は地図を辿ってみることにした。

 その店は、静かにそこにあった。

 夢借屋と金文字で書かれた木の看板。

 周囲の店が閉店している中、そこだけが灯りをつけていた。

 引き戸を開けると、チリンと小さな鈴の音。

 中は畳敷きの小さな空間で、木の棚に『夢』が瓶詰めされて並んでいる。

 それぞれの瓶には、手書きのラベルが貼られていた。

『夕焼けの中で走る夢』

『亡くなった祖母に再会する夢』

『海の底に落ちていく夢(ちょっと怖め)』

『名前のない誰かと手を繋ぐ夢』

『空を飛ぶ夢(風強め)』

 そして、カウンターの向こうには店主らしき人物が座っていた。

 細い影のような体つきで、顔は和紙のようにしわしわだった。

 でも目だけは妙に若く、透きとおっている。

「夢を、お探しですか?」

 その声も、風のようにやわらかかった。

「……はい。どんな仕組みなんですか?」

 店主はにこりと笑った。

「枕元に瓶を置いて眠っていただくだけで。夢のなかで、あなたの意識がそこに入ります」

「悪夢はありませんか?」

「ありません。私は怖い夢が苦手でして」

 僕はふと、『名前のない誰かと手を繋ぐ夢』の瓶を手に取った。

 そのラベルがなぜか、心を引いたのだ。

「これをお願いします」

「ありがとうございます。五百円でございます」

 瓶は指先ほどの小さなサイズ。

 水のような液体が満ちていて、光に透けるとわずかに虹色に揺れた。


 その夜。ベッドの枕元に瓶を置いて眠った。

 気がつくと、僕は知らない公園にいた。

 誰もいない。風もなく、時間が止まったような静けさ。

 そこに、誰かがいた。

 背中を向けたまま、ブランコに揺られている。

 男か女かもわからない、けれど知っている気がする。

 僕は自然とその隣に座った。相手はゆっくりと手を差し出してきた。

 それを、握る。

 手のひらはぬくもりがあり、指が細かった。

 でも、顔はどうしても思い出せない。

 言葉は交わさなかった。

 ただ、しばらく手をつないだまま、風の音を聞いていた。

 目が覚めると、朝になっていた。

 瓶の中の液体は空っぽになっていた。


 あの夢は、とても静かで、あたたかかった。

 でも、なぜか少しだけ胸が苦しくなった。

 僕は翌日、もう一度夢借屋を訪ねた。

 昨日と同じように鈴の音が鳴り、同じように店主がいた。

「また来てくださったのですね」

「……昨日の夢、覚えてます。とても、よかったです」

「ありがとうございます。あの夢は、人気があるんですよ。誰かに会いたいけれど、思い出せない人が、よく選ばれます」

 僕は驚いた。

「……それって、誰なんですか?」

 店主は少しだけ微笑んで、答えなかった。

 かわりに、別の瓶を差し出してきた。

『昔の自分に会う夢』

「よかったら、今度はこれを」

 その夜。瓶を置いて眠った僕は、小さな自分と出会った。

 六歳のころの僕は、川のそばで石を投げていた。

 そして、こちらに気づいて、ぽつりと言った。

「大人のぼく、まだ泣くの?」

 何も言えなかった。でも、小さな僕は優しく笑って、手を握ってくれた。

「大丈夫。夢の中なら、なにを忘れても戻ってくるよ」

 目覚めると、涙が頬に残っていた。


 その後も、時々「夢借屋」を訪ねた。

 けれどある日を境に、店は忽然と姿を消していた。

 張り紙も、看板も、あの小さな鈴の音もなかった。

 ただ、夢借屋のあった場所には小さな木札が落ちていた。

「夢は返さなくてかまいません。それは、あなたの記憶になるものですから。 夢借屋 店主」

 

 僕はいまも、その瓶をひとつだけ大事に持っている。

 中は空のまま。

 けれどときどき、寝る前にその瓶を手にすると、遠くで小さな鈴の音が聞こえた気がする。

 

 今夜もまた、誰かが誰かの夢を借りているかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ