雪の名前
あれは、名前のない雪だった。
小野寺雅人は、古びた小学校の校門の前で立ち止まった。
雪が、しんしんと降っていた。風はない。ただ、音もなく降り積もる白い粒子だけが、景色を静かに覆っていた。
二月の末。卒業シーズンにはまだ早い。
だが小野寺がこの学校を訪れたのには、理由があった。
郵便受けの中に、何年ぶりかで見る名前の筆跡があった。
差出人は「渡瀬幸一」。中学までを共に過ごした、あの頃の友人だった。
もう二十年も前に、連絡が途絶えていた。
手紙は短かった。
久しぶりです。
あなたは変わらず元気で過ごしているでしょうか。
近いうちに、小学校の校庭で雪を見ませんか。
あのときみたいに。
渡瀬幸一
懐かしい名前に、小野寺は戸惑った。
連絡先も知らず、SNSもやっていない彼から、なぜ突然手紙が届いたのか。
だが、思い当たる節もあった。
小野寺が「古い小学校の記憶」を話す番組に出演したのは、去年の年末だった。
地方局の小さな企画で、自分の原点を語るインタビューの中で、彼は小学校時代のある一日を語っていた。
六年生の冬、友人と二人、雪の校庭に自分たちだけの「雪の名前」をつけたこと。
雪の名前、というのは、子どもながらに思いついた遊びだった。
細かい粉雪を「すずね」、丸く舞う雪を「ほた」、地面にとけずに積もる重い雪を「ゆつき」。
それぞれに音や色をつけて、言葉にした。
あれは、渡瀬とだけやっていた、秘密の遊びだった。
小野寺は少し迷った末に、指定された日。午前十時。
雪の降るなか、小学校を訪れたのだった。
校舎は取り壊しが決まり、すでに立ち入り禁止の札が立てられていた。
誰もいない校庭を、ただ、雪が覆っていた。
小野寺は、校門の外で、しばらくじっとしていた。
誰かが来る気配は、なかった。
「……遅れてるのかな」
小野寺は呟きながら、上着のポケットに手を入れた。
指先に触れたのは、手紙の紙の感触。すでに何度も読み返し、折れ目がややふくらんでいた。
それでも誰も来ないまま、時間だけが過ぎていった。
そのとき、小さな足音がした。
後ろを振り返ると、ランドセルを背負った女の子が、校門の前で立ち止まっていた。
見覚えはない。小野寺がこの町を離れてもう十年以上経つ。
知らない子どもでも、当然だった。
けれど女の子は、小野寺の方をまっすぐ見上げてこう言った。
「小野寺さん、ですか?」
「……え?」
「渡瀬の娘です。父から、預かってきました」
そう言って、女の子は手袋をはずし、小さな茶封筒を差し出した。
「お父さんは?」
「父は、亡くなりました」
茶封筒の中の手紙に書かれていたのは、そういう内容だった。
半年前から入退院を繰り返し、年末にはもう外出が難しい状態だったという。
それでも、小野寺の出た番組を偶然目にして、どうしても伝えたいことがあると言っていた、と娘は話した。
「父が、最後まで持ってたノートがあるんです」
娘がそっと差し出したのは、大学ノートだった。
中には、短い言葉が雪の結晶のように書き連ねられていた。
ゆきかえし……夕方に一度だけ止む雪。再び降る前の静けさ。
しのはら……笹の葉に積もる雪。風が吹くと静かに鳴る音。
うたげ……屋根の雪が、溶ける音だけが響く、昼の時間。
……それは、「雪の名前」の続きだった。
小野寺が忘れていた名前。あの日つけられなかった言葉。
離れていた二十年のあいだに、渡瀬がひとりで、積み上げていたものだった。
「父は、あなたが見てくれると思って……」
「ありがとう。……ありがとう」
言葉に詰まりながら、小野寺は何度も頭を下げた。
ノートの文字は、どれも丁寧だった。かすれた文字も、書き直された跡もあった。
小野寺はそっと、ひとつの言葉を指でなぞった。
ゆびふる……約束を、言葉じゃなくて、雪で交わすこと。
その瞬間、空から舞い降りてきた雪が、小野寺の手の甲に落ちた。
雪はすぐに溶けた。
けれど、そこには確かに、名前が残っていた。
——あれは、ゆびふる。
そんな名前の、雪だった。




