呪い
むかしむかし、ある町にひとりの画家が住んでいた。
名もなきその画家の名はやがて広まり、彼の作品は人々の心をとらえて離さなくなった。
天才と称され、個展を開けば多くの人が列をなし、作品は高額で取引された。
しかしその画家は、栄光を浴びながらも決して笑顔を見せなかった。
ある日、ひとりの女性がその画家のもとを訪ねた。
彼女は美術愛好家でもあり、またどこか画家の作品に導かれるようにして画家の館を訪れたのだった。
画家のアトリエには、完成した絵画が無造作に立てかけられていた。
どの絵も、言葉にできぬほど美しかった。
だがその美しさの奥底に、得体の知れない違和感があった。
静寂を破るように、女性はぽつりとつぶやいた。
「あなたの作品には……どこか、不思議な魅力がありますね。見ていると引き込まれるというか、気づけば時間を忘れてしまって……」
画家は手にした筆を止め、少し遠くを見るような目で、こう答えた。
「……ああ。それはきっと、私の作品が“呪われて”いるからでしょう」
女性は冗談かと思い、はにかむように笑った。
しかし画家の表情は変わらない。目に浮かぶのは、冗談では済まされない深い苦悩だった。
「呪われている? ……なぜ、あなたの作品が?」
「それは……私自身が呪われているからです」
その一言に、女性は息を呑んだ。目の前の画家に、呪いの気配など感じられなかった。むしろ孤高で静かな佇まいに、どこか聖なるものさえ漂っているように思えた。
「私が絵を描き始めたのは、幼い頃のことです。両親を事故で亡くし、ひとりで生きていかねばならなかった。誰にも頼れず、誰にも愛されず……私にできたのは、ただ紙と向き合い、絵を描くことだけでした」
画家は淡々と語る。その声は静かだったが、胸の内には今もなお癒えぬ深い傷が見え隠れしていた。
「ある時、ふと気づいたのです。自分の描く絵には、ただの風景や人々の姿だけでなく、“何か”が宿っていると……それは人間の欲望でした。私は、美しいものを描きたいと願うと同時に、誰かに見てほしい、誰かに認められたいという欲望を強く抱いていた。それがやがて、誰かを支配したい、心を操りたいという暗い願望へと変わっていったのです」
女性は戸惑った。そのようなことが本当に起こるのだろうか。
けれど、画家の声には確信があった。誇張も虚飾もなく、ただ事実を語っているようだった。
「その欲望は、キャンバスを通じて形になり、絵の中に染みついてしまった。そして、私の作品は“呪い”へと変わってしまったのです」
女性は思い返す。確かに、彼の絵には説明できない“力”があった。
見る者の心をわしづかみにし、深く、深く引きずり込む力が。見ているだけで胸が締めつけられ、ふとした瞬間、涙が出そうになることさえある。
「……でも、それが呪いだなんて」
ようやく女性が口を開くと、画家は首を振った。
「私にも、それが本当に“呪い”なのかはわかりません。ただ、私の絵を見た者が不幸になる。それだけは事実です。長年の友人も、かつての恋人も、私の作品に魅せられてしまい、そして皆……何かを失いました。仕事を、家族を、心を……そして命を」
その言葉に、女性は背筋が凍るのを感じた。
「では……どうすればその呪いは解けるのですか?」
画家は少しの間、沈黙した。その瞳には、深い疲れと諦めが宿っていた。
「……それは、私にもわからない。ただ、ひとつだけ言えることがあります」
彼はゆっくりと女性を見つめた。
「……私の作品を、見ないこと。それだけです。見なければ、きっと……呪いはあなたに届かない」
あまりに単純な答えだった。
だが、それが真実なのかもしれない。
女性は何か言いかけたが、言葉は出なかった。
そして画家は、それ以上何も語ることなく、静かに女性を送り出した。
あれから、数年の時が流れた。
女性はある日、交通事故で命を落とした。突然の出来事だった。
彼女の家を訪れた者が目にしたのは、白布をかけられた数点の絵画だった。その布の下にあるのは、間違いなくあの画家の作品だった。
彼女はきっと、見てはいけないと知りながら、それでも絵を手放せなかったのだろう。
見ずにはいられなかったのだ。
呪いだと知ってなお、その絵に惹きつけられてしまったのだ。
そして、今。
その画家は、今日も静かに筆を走らせている。
見られることで呪いは広がる。けれど、描かずにはいられない。
描くことが、彼にとって生きることそのものだったからだ。
それに、もう画家自身が、すでに呪いそのものなのだから。




