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月をすくう

 十月のはじめ、山のふもとの町は、朝晩の風がひんやりしてきた。

 夕方になると、駅前のパン屋のガラス越しに、すすきが風に揺れるのが見える。

 店主の山名は、焼き上がったばかりのあんパンをトレーに並べながら、ちらりと時計を見る。午後六時。あと三十分もすれば閉店だ。

 今日は町の公民館で「お月見の会」がある。商店街の有志が集まって、だんごを配ったり、子どもたちが歌を歌ったりする。

 山名も差し入れに、月の形をしたパンを十個焼いた。丸い生地の中央に白あんをのせ、金箔を散らして焼き上げたものだ。

 ドアがカランと鳴った。

「こんばんはー」

 入ってきたのは、よく見る顔——向かいの花屋の娘、瑞希だった。高校二年生で、いつも学校帰りに寄ってはパンの端っこをもらっていく。

 今日は制服ではなく、薄いカーディガンにスカート姿。髪を後ろでまとめていて、どこか大人びて見える。

「おじさん、これ、さっきお母さんが作ったの。公民館の飾りに使うからって」

 手提げ袋の中には、すすきと彼岸花を束ねた花飾りが入っていた。

「きれいだな。月に似合う」

「でしょ? でも花、ちょっと時期外れでさ。山の方まで取りに行ったんだよ」

 彼女はそう言って笑った。その頬に、夕方の光が淡く射した。

 山名はふと、十年前の同じ夜を思い出した。

 あのときも、お月見の準備をしていた。妻が健在で、息子もまだ小学生だった。妻は白玉を丸めながら、「今年は雲が出そうね」と笑っていた。

 だが、その冬、病が彼女を連れていった。

 それ以来、山名はお月見の夜が苦手になった。月を見ると、どうしても彼女を思い出す。

「おじさん?」

 瑞希がのぞき込む。

「ごめん、ちょっとぼんやりしてた。……月見、行くのか?」

「うん。でも、友達が来れなくて。だから、一人で」

「そうか。なら、これ持っていけ」

 山名は、焼きたての月パンを一つ袋に入れ、手渡した。

「おじさんの奥さん、毎年お月見団子作ってたって、うちのお母さんが言ってた。……でも、パンでもいいでしょ?」

 言われて、山名は目を細めた。

「ありがとう。君、よく気がつくな」

「おじさん、あんまり月、見てないでしょ」

 瑞希の声には、ほんの少し寂しさが混じっていた。

「見た方がいいよ。なんかね、誰かの顔に見える夜もあるから」

 彼女は花飾りを抱えて出ていった。ドアの鈴がもう一度鳴る。

 パン屋の中は、静かになった。山名はふと、オーブンの灯を消し、裏口から夜の空気を吸い込んだ。

 東の空に、薄く雲を透かした大きな月が出ていた。


 公民館の庭は、思ったよりにぎわっていた。子どもたちは紙ランタンを持ち、年配の人たちは折りたたみ椅子を並べている。

 山名はパンの箱を持って到着したが、すぐに人の輪に飲み込まれた。

「山名さん! これ毎年楽しみにしてるんですよ!」

 笑顔で手を伸ばす人たち。けれどその中に、妻の顔はない。

 ふと遠くを見ると、花壇の隅で瑞希が花を飾っていた。月明かりを浴びて、白いすすきが風にゆれる。その隣に座っているのは、町の老人——瑞希の祖父だ。

 二人の背を見て、山名は胸の奥が少し温かくなった。

 配り終えたパンが残り一つになったとき、瑞希が近づいてきた。

「ねえ、おじさん。最後の一個、食べようよ」

「いいのかい? 自分の分、もう食べたろ」

「二個食べてもバチ当たらないよ。今日、満月だし」

 彼女は芝生に腰を下ろし、箱を開けた。金箔が月の光を反射して、小さな皿の上で光っていた。

 半分に割ったパンを渡され、山名も隣に座る。

 夜風が冷たい。すすきの穂が月に向かって揺れる。

「……ねえ、おじさん」

「うん?」

「わたし、小さいころ、夜の月って怖かったんだ。高すぎて、落ちてきそうで」

 山名は笑った。

「そんなこと思ってたのか」

「でも、今はちょっと好き。見てると、誰かの声がする気がするの」

「誰かって?」

「わかんない。お母さんかも。……それか、もう会えない誰か」

 言葉が風に流れる。

 山名は、あの冬の日の妻の笑顔を思い出していた。

「君、いいこと言うな」

「へへ。だって月って、遠いけど、ちゃんと見えるでしょ。死んだ人も、もしかしたら、あの向こうで見てるのかも」

 静かに、月が雲間から顔を出した。

 白い光が、二人の肩をやわらかく照らす。

 パンを口に運ぶと、白あんの甘さが広がる。懐かしい味だ。妻がよく作っていた味に似ている。

「これ、うまいな」

「でしょ。おじさん、来年も作ってね」

 瑞希は笑った。

 山名は、うなずいた。

「そうだな。来年も、月をすくいに来よう」

「え?」

「いや、なんでもないよ」

 彼は月を見上げた。光はまるで水のように、空からこぼれ落ちてくる。

 手のひらをかざすと、そこに白い光が溜まっていくような気がした。


 夜が更け、帰り道。

 商店街の灯が次々と消えていく。

 山名はパン屋の前で足を止め、鍵を取り出した。店の窓には、月がちょうど映っている。

 その隣に、ふと、妻の笑顔が浮かんだような気がした。

 彼は思わず、ガラス越しに微笑んだ。

「おやすみ」

 そうつぶやくと、月は雲に隠れ、静かな夜が戻った。

素敵な十五夜をお過ごしください。

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