かさ
ある駅の、小さな傘立てのいちばん隅に、古びた傘が一本あった。
黒くて、持ち手が少し欠けていて、どこにでもありそうで、けれど、もう誰も使わないような傘だった。
いつからそこにあるのか、誰にもわからなかった。
駅員も気づいていたけれど、捨てるでもなく、そのままにしてあった。
誰かが忘れていったものは、いつか誰かがまた迎えに来るかもしれない。
そう思っていたから。
傘はじっとそこにいた。
何年も、雨の日も、風の日も、晴れた日も。
誰かに見られることも、触れられることもなく、ただそこに立っていた。
時々、他の傘が隣に並んだ。
色とりどりの傘たちは、すぐにまたどこかへ行ってしまった。
ある日、赤いドット柄の傘が言った。
「ねえ、あんた、いつからここにいるの?」
傘は考えた。でも、思い出せなかった。
最初に雨をはじいたときのことも、誰かの肩の上で開かれたときのことも、もうずいぶん昔のように感じていた。
「ずいぶん古いわねえ。誰にも選ばれないなんて、かわいそう」
赤い傘はそう言って、雨が止むとすぐにどこかへ行った。
そのあともたくさんの傘が来て、そしてすぐにいなくなった。
誰も、傘のことは見ていなかった。
傘は、自分が何のためにここにいるのかわからなくなってきた。
雨をしのぐための傘なのに、誰の雨も防げない。
風をさえぎるための傘なのに、誰のそばにも立てない。
それでも、傘は傘だった。
いつか、誰かが思い出してくれるかもしれないと思って、毎日をじっと待っていた。
ある日、冷たい雨が降った。
風も強く、傘のない人たちは濡れて走っていった。
そのとき、小さな男の子が、駅の階段の下で立ち尽くしていた。
制服の袖は雨で濡れ、ランドセルもぐっしょり濡れていた。
その子は、傘を忘れてきてしまったのだった。
しばらくして、母親らしき女性が駅に駆けつけてきた。
二人は傘立ての前で足を止めた。
男の子が、古びた傘を指さした。
「あれ、使っていい?」
母親は少し困ったように黙った。
けれど、やがてゆっくりとうなずいた。
男の子が傘を引き抜いた。
傘は、体がふるえるような気がした。
ひさしぶりに、開かれた。
内側の骨が、ぎしりと音を立てて動いた。
ぱっと布が広がった。
雨粒がその表面を打った。
傘は、雨をはじいた。
水の音が、心地よく聞こえた。
何年も何年も待ち続けて、ようやく、自分の意味を思い出した。
男の子は、小さな声で「ありがとう」と言った。
傘は、何も言えなかったけれど、とてもとてもうれしかった。
その日から、傘は男の子の傘になった。
雨の日にはいつも連れて行ってもらえた。
ランドセルの上に差され、公園にも、おばあちゃんの家にも、習い事の帰り道にも、一緒に行った。
傘は、濡れるたびに幸せを感じた。
男の子が笑うたびに、心があたたかくなった。
ある日、男の子がぽつりと言った。
「これ、ぼくのお守りみたいだ」
傘は、そう言われたことがうれしくて、ふるえた。
壊れかけていた骨も、なんだか少しだけまっすぐになった気がした。
けれど、時は流れる。
男の子は少しずつ大きくなっていった。
傘は少しずつ、古くなっていった。
ある日、男の子の母親が言った。
「そろそろ、新しい傘、買わないとね」
男の子は少し黙っていたけれど、やがてうなずいた。
それから傘は、また使われなくなった。
部屋の隅に置かれたまま、静かに、じっとしていた。
誰もいないときに、傘はそっと布を揺らした。
何も言わずに、ただ、揺れた。
そしてある日、傘は箱に入れられた。
そのまま、リサイクルセンターへ運ばれた。
誰もそれを捨てたとは思っていなかった。ただ、仕方のないことだった。
傘はまた、じっと待つ日々に戻った。
けれど、ある朝のこと。
一人の女の子が、リサイクルの傘の中から、その黒い傘を選んだ。
布は少し色あせていたけれど、骨はまだちゃんと開いた。
「これ、かっこいい」
その言葉を聞いて、傘は少しだけ涙が出そうになった。
涙なんて、傘にはないけれど。
そんな気持ちになった。
そしてまた、傘は人の上に差されて、歩き始めた。
知らない町の、知らない道を、誰かと一緒に。
雨の日も、風の日も。
傘は、また傘になれた。




