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九月のピンク


 電車を降りて、坂道をのぼると、町の空気がすっかり秋に変わっていた。

 九月の光はやわらかく、肌を撫でる風にはほんの少しだけ、金木犀の匂いが混ざっている。何年経っても、この季節になると、あの人を思い出してしまう。

 私はいま、小さな美術展に向かっている。

 市民ギャラリーの一室。地域の作家たちの作品を展示している、目立たないけれど、ずっと好きな空間。

 今日その会場に、「あの絵」が来ていると知って、どうしても足を運ばずにはいられなかった。


 その絵の名前は、《ピンクの窓》。

 作者は、亡き祖母の弟。つまり、私の大叔父にあたる人だった。

 もう十年も前に亡くなったその人が描いた、一番最後の作品。

 それは、名の通りピンク色の窓を描いた油彩画だった。

 ただの四角い窓。けれど、その窓の向こうには何もなく、空すら描かれていなかった。周囲も壁の質感だけで、家具も、人物も、まったく存在しない。

 なのに、不思議とその絵はあたたかくて、懐かしくて、なぜか寂しかった。

 私はその絵の前に立つと、しばらく言葉を失った。

 ……あの日のままだ。


 初めてその絵を見たのは、十三歳の夏だった。

 大叔父のアトリエの奥の部屋。

 蝉の声が窓越しに遠く響き、古びたレコードが流れていた。

「この色、どうしてピンクにしたの?」

 私がそう尋ねると、大叔父は絵筆を止めて、少し考えてから答えた。

「ピンクはね、“届かない気持ち”の色なんだよ」

「届かない……?」

「好きとか、懐かしいとか、もう会えないとか、そういう“言えなかった気持ち”が混ざると、心の中にピンクが生まれるんだ」

 そのときは、正直よくわからなかった。

 でも、大人になった今なら、なんとなく理解できる。


 展示室の中には誰もいなかった。

 私は《ピンクの窓》の前で、かすかな色の重なりを追いながら、ふいに祖母のことを思い出していた。

 祖母はよく、窓辺に腰かけて、日が沈むのを眺めていた。

 九月になると、窓から入る夕焼けがほんのりピンクになる。

「秋の夕焼けは、夏の名残を引きずってるのよ」

 と笑いながら、祖母は縫い物の手を止めずにそう言っていた。

 あの時間が、私は好きだった。

 でも、ちゃんと「好き」とは言えなかった。

 最後に会った日でさえ、何も言えずに、病室をあとにしてしまった。

 きっと、あれもピンクだった。

 窓から差し込んだ光も、祖母の手のぬくもりも、すべてが。


 会場を出る前に、私はもう一度だけ《ピンクの窓》を見た。

 ただの四角い窓。でもそこには、いくつもの「言えなかったもの」が折り重なっている。

 言葉にできなかった想い、間に合わなかった手紙、交わせなかった会話。

 そのどれもが、優しく光っていた。

 「……ありがとう」

 私は小さく呟いて、展示室をあとにした。


 帰り道、夕焼けが空を染めていた。

 見上げた空の端っこに、うっすらとピンクが滲んでいる。

 この色の意味を、私はようやく少しだけわかった気がした。

 きっとピンクは、悲しい色じゃない。

 言えなかった気持ちに、ちゃんと“形”を与えるために生まれてくるんだ。


 九月の空に、そっと心の中で窓をひとつ開けた。

 その窓の色は、やっぱりピンクだった。

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