馬鹿げている
彼の名前は梶浦敬一。四十七歳。
ある日、彼は突然「空気清掃課」に異動を命じられた。
「異動? どこに?」
「空気清掃課です」
「……それは、どこの部署ですか?」
「地下三階。知ってるでしょ」
「……知りません」
総務部の女は、あくびをかみ殺しながら「明日からよろしく」とだけ言って、異動通知を渡してきた。
地下三階へ降りていくと、壁に「空気清掃課」と書かれた小さなプレートがあった。
ドアを開けると、白衣を着た老人が二人、真顔で天井を見つめていた。
「おう、新入りか。梶浦くんだったか」
「はい……空気清掃課とは、一体……?」
「お前さん、今日から『空気の汚れ』を取ってもらう。肉眼じゃ見えんが、心を清めると見えるようになる。これは国の極秘任務なんだ」
そう言われ、彼は渡された白衣を着せられ、「空気のゴミ取り棒」なるものを持たされた。
先端には透明なフィルムのようなものがついていて、振るとヒラヒラするだけの、どう見ても子ども騙しの道具だった。
仕事は、毎日オフィスビルを巡回し、「空気の澱み」や「会話の濁り」「気配の埃」などを清掃することだった。
たとえば、会議室に残った「誰もが何も言いたくない空気」、社内の誰もが黙殺している「怒鳴り声の残り香」など、目には見えないが「確かにある何か」を拭い取る。
最初は笑った。あまりに馬鹿げている、と。
でも、三週間も経つと、彼はその「空気の淀み」がなんとなくわかるようになってきた。
昼休み明けの執務室、上司が近くを通った瞬間の気配、誰かが泣いたトイレの鏡……確かに、何かが残っている気がする。
そしてそれを「ゴミ取り棒」で優しく払うと、ふっと体が軽くなるような錯覚がした。
ある日、彼は会議室で奇妙なものを見た。床の上に、真っ黒な渦のようなものが蠢いていた。
明らかに普通の空気の汚れとは違った。
彼が近づくと、それは低く唸るような音を発した。
「言えなかったこと」
「黙っていた気持ち」
「押し殺した怒り」
そういったものが溜まりに溜まってできた空気の塊だった。
彼はそれを清掃しようとしたが、棒が跳ね返された。
何度やっても、触れることすらできない。
仕方なく上司に報告した。
すると、上司はこう言った。
「ああ、それはもう無理だな。そういうのは、放っておくしかないんだよ。どうせ誰も気づかんし、言ったところで、馬鹿にされるだけだからな」
その夜、梶浦はベランダに出て、街を見下ろした。
光るビル、走る車、疲れた顔で歩く人々。
あの地下三階の空気より、この街の空気の方がよほど澱んでいる、と彼は思った。
じゃあ、自分は一体何をやっているのだろう?
馬鹿げた棒を振って、見えない空気を払って、それで一体何が変わる?
でも、ふと思い出した。
自分が空気清掃課入った頃、ある若手社員が泣いていた会議室を。
そこを清掃した翌日、彼女はなぜか少しだけ笑顔を取り戻していた。
それは偶然かもしれない。
でも、その偶然を作るために、自分がいたとしたら……
「馬鹿げてるよな、本当に」
彼は笑った。
「でもまあ、全部が意味あると思う方が、もっと馬鹿かもしれない」
翌朝、彼はいつもより早く出社し、制服の胸を正した。
今日もどこかに溜まった空気を、ひとつ、払うために。




