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あの日の夕日

「なあ、覚えてる? あのときも、こんな空だったよな」

 彼はそう言って、夕焼けに照らされた湖の向こうを見つめた。

 九月の終わり。風はすでに秋だったが、夕日にはまだ夏の名残があった。

 私は頷く代わりに、缶コーヒーをひと口すすった。少しぬるくなっていて、でも、それが妙に心地よかった。


 彼、村瀬 拓真とは、十年ぶりに会った。

 高校の同級生だった。高校卒業と同時に連絡が途切れ、会うこともなくなった。でも、不思議とどこかで再会する気がしていた。

 実家の用事で帰省していた私が、ふと思い立って湖畔のベンチに座ったとき、まるで誰かに呼ばれたように、彼が隣に座っていた。

「ここ、まだあるんだな。ベンチも、木も、空も全部一緒だ」

「変わらないものも、あるんだね」

 そう言った私に、彼は少しだけ笑った。


 高校最後の文化祭のあと、私はこの湖のそばで、拓真に告白された。

 でも私は、何も言えなかった。

 将来のことが不安だった。東京の大学に進学することが決まっていて、地元に残る彼との距離を考えると、気持ちだけじゃどうにもならないと思っていた。

 だから、「ありがとう」とだけ言って、そのまま離れた。

 あの日も、こんな夕暮れだった。沈みかけの陽が水面に落ちて、辺りは金色に染まっていた。

 たぶん、私の人生で、もっとも夕暮れが美しくなかった日だ。


「今、こっちに住んでるの?」

 私が尋ねると、拓真は少し間を置いて答えた。

「いや、もうすぐ引っ越す。東京。転職した」

「へえ……偶然だね。私も、今は東京」

「そっか。じゃあ、またどこかで会うかもな」

 そう言って彼は缶コーヒーを飲み干した。

「……あのときさ」

 唐突に、拓真が口を開いた。

「たぶん、お前は正しかったんだと思うよ。俺、あれから何年も引きずってたけど、ようやく、置いてこれた」

 私は何も言えなかった。

 言葉はたくさん頭に浮かんだけれど、どれも今さらだった。

「でも、今なら思う。返事、聞きたかったなって」

 彼は笑いながら言ったが、その声はほんの少しだけ、寂しそうだった。


 日が沈みかけていた。

 空がじわりとオレンジから群青に変わるそのグラデーションの中で、私は小さく息を吸った。

「もし、あのときに戻れたら……」

 そう口にしたとき、拓真は私の顔を見ずに言った。

「戻らなくていいよ。今こうして会えてるんだから」

「……そうだね」

 たぶん、これが正しい距離なのだと思う。

 十年前の夕暮れでは交われなかった二人が、十年後の夕暮れでようやく隣に座ることができた。

 それだけで十分だ。

 それだけで、今日の夕暮れはきっと、美しい。


 風が強くなり、湖面がさざ波を立てた。

 私たちは何も言わずに立ち上がり、それぞれの方向へ歩き出した。

 陽は、もうほとんど沈んでいた。

 けれど、その残光は、まだ心の奥にあたたかく残っていた。

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