かげ
人間のすぐそばに、影はそっと寄り添っていた。
影は、誰にも気づかれないまま、ただひっそりと人についてまわるだけの存在だった。
誰かに感謝されることも、名前を呼ばれることもない。
それが影の役目であり、生き方だった。
影は、いつも見ていた。
泣いている子ども、怒っている母親、疲れた顔で歩くサラリーマン。
みんなの足元に寄り添いながら、黙って彼らの一日を最後まで見届けていた。
けれど、ある日、影は思った。
「ぼくも、何かできることがあるだろうか」
影は考えた。
手もないし、声もないし、物を動かす力もない。
けれど、見守ることはできる。
誰かの、たったひとりの味方になることなら、きっとできる。
影はひとりの少年を選んだ。
少年は、学校でいつもひとりだった。
教室の隅で、静かに絵を描いていた。 誰も話しかけてくれなかったし、先生も少年にあまり関心を示さなかった。
でも影は、ずっとそばにいた。
少年が泣いている夜も、夢を見て笑っている朝も、ただそこにいた。
ある日、少年が描いた絵が、先生の目に留まった。
その絵は、クラスでちょっとした話題になった。
それから、少しずつ少年のまわりが変わっていった。
声をかけてくれる子が現れた。
一緒にお弁当を食べてくれる子も出てきた。
影は何もしていない。ただ、そばにいただけだった。
でもそれだけで、少年の世界は少し明るくなった気がした。
それからも影は、誰かのそばに寄り添い続けた。
名前も呼ばれないまま、手柄も褒められないまま。
それでも、影は満足だった。
人の背中にある、見えないところから小さな幸せを見守れることが、自分に与えられた役目だと感じていたから。
ある日の夕暮れ、影はふと立ち止まった。
空を見上げると、赤く染まった雲が静かに流れていた。
その空の下で、小さな女の子が笑っていた。
両手に風船を持って、くるくる回っていた。
影はその笑顔を見て、温かい気持ちになった。
そうして、影はそっと目を閉じた。
誰にも気づかれないまま、風のように姿を消した。
きっと、次に生まれるときは人の心にそっと触れられる“光”になれるようにと、そう願いながら。




