ベルタ村 4
こんなところに人がいるはずなどない。十五年もの間、これほど濃い瘴気の中で人が生きていられるはずがないからだ。
私だけでなく、フェリクスとイザベラも戸惑いを隠せずにいるようだった。
「……私達はこの国の聖女で、この地の呪いを解くためにやってきました」
少しの後、緊張しながらもそう答えると、布の向こうで誰かが息を呑んだのが分かる。
「ああ、ようやく……なのですね。どうかこちらへ来ていただけませんか」
涙で震えるような声が聞こえてきて、フェリクスへ視線を向けると、彼は静かに頷く。
こうして言葉を交わしていても、魔物の可能性だってある。油断はできない。
やがてフェリクスが薄布を上げると、その向こうには小さな部屋があった。
(本当に、人間だわ……)
そしてその中心には、椅子に腰掛ける一人の若い女性の姿がある。
年は二十代前半だろうか、真っ白な服を身に纏った彼女の美しく長い黒髪は床まで流れ、まるで人形のように見えた。
「ずっと、ずっとお待ちしておりました」
柔らかく微笑む彼女の目尻には、涙が浮かんでいる。
その姿や様子を見ても魔物なんかではなく、ただの人間にしか見えない。けれど、彼女の身体からは魔物と同様の強い瘴気の気配がした。
それでも感じられる魔力は聖女のものに近く、澄んでいる。
──人ではないけれど、魔物でもない。
そんな表現が正しい気がした。
村を覆う結界は完璧なものだったし、人も魔物も何も出入りはできなかったはず。
そうなるとやはり、彼女はずっとこの場所にいたことになる。大聖女時代の私でも、この場所で生きながらえるのは数週間が限界だったはずなのに。
「先程、結界が解かれたのを感じたのですが、あなた方によるものだったのですね」
「あなたは……?」
「私はベルタ村の村長の娘で、アウロラと申します」
美しい声で、ゆっくりと丁寧に言葉を紡ぐ。長い睫毛に覆われた目の瞬きさえも、緩やかな動きだった。
「リーヴィス帝国の皇帝、フェリクス・フォン・リーヴィスと申します。彼女は皇妃であり聖女のティアナ、こちらはデラルト王国の王女で聖女のイザベラ様です」
フェリクスの言葉に、アウロラと名乗った彼女は僅かに目を見開く。
「皇帝陛下と皇妃様、王女様だなんて……ご無礼をお許しください。身体を自由に動かせないものですから、この体勢のままでいることもご容赦いただければ」
確かに先程から彼女の首から下の身体は、指先ひとつ動いていない。
唇や瞼の動きが緩やかなのも、身体の状態に関係しているのかもしれない。
気にしないよう告げると、フェリクスは続けた。
「あなたは何故ここに? 人間がこの地で十五年も無事でいられるとは到底考えられません」
「私はまだ、人間に見えるのですね」
彼女は眉尻を下げ、微笑む。
そして話せば長くなること、誰かと話すのも久しぶりで上手く言葉を紡げないかもしれないことを前置きした上で、アウロラ様は語り始めた。
「……十五年前、いつものようにこの霊廟で祈りを捧げていたところ、見知らぬ女性がやってきました。そして彼女が小さな箱を取り出した瞬間、強い呪いが溢れ出したのです」
その女性が、シルヴィアだったのかもしれない。
小箱というのも、赤の洞窟にあった呪具と同じものだろうと予想がついた。
「私は聖魔法属性を持っていたので、すぐに結界で自身を守り、即座に命を落とすことはありませんでした。ですが強力な呪いを前に、長くは持たないと悟りました」
アウロラ様が聖魔法属性を発現したのは、十六歳の頃だったという。
生まれ育ったこの村を愛しており、村を離れて神殿にて聖女という立場になってしまえば、結婚を誓った恋人と結ばれることも難しくなる。
そう考えた彼女は、自身の力を隠すと決めたという。
「そんな自分勝手な理由で、私は貴重な力を隠していたのです。……本来、聖女として国のために尽くさなければならない身でありながら」
長い睫毛を伏せた彼女からは、深い後悔や罪悪感が感じられた。
──アウロラ様の言う通り聖属性魔法を持って生まれた場合、すぐに国へ報告し神殿にて仕える義務がある。
それほどに聖女の存在は貴重で、国にとって必要なものだった。
エルセとして十二歳の頃に聖女の力を発現した私も、両親と引き離されて神殿へ入った。
もちろんまだ幼く、大好きな両親と離れるのは寂しくて辛くて仕方なかった。
それでも仕方のないことだと教えられていたし、私はこの特別な力を多くの人を救うために使うべきだと思っていた、けれど。
誰もがそう思えるとは限らないし、彼女のように力を隠している聖女もいただろう。
たまたま聖女として生まれ落ちただけで、自身の生き方を決められ自由を奪われることに抵抗を感じるのは当然だし、彼女を責めようとは思わなかった。
「聖魔法を使いながらも強い呪いが少しずつ身体を蝕む中、外側からの結界によって私はこの霊廟に閉じ込められたことを知りました」
聖魔法属性を持っていても、力を隠していた彼女は正しい使い方を知らない。だからこそ、結界を解いて逃げることなど不可能だとすぐに悟ったという。
そして呪いが霊廟の外──ベルタ村を襲い、ほとんどの人が命を落としたであろうことも。
「そうして私はこのまま命を落とすのだと思っていたその時、霊廟の外から声がしたのです」
聞こえてきたのは、彼女の恋人の声だった。
彼は元々国に仕えていた魔法使いで、仕事を辞めて旅をしていたそうだ。
そんな中、呪いを受ける二年前にベルタ村を訪れてアウロラ様と恋に落ち、村に滞在し続けていたという。
「彼もまた優れた魔法使いであったこと、そして私が数年をかけて聖魔法を込めたブレスレットによって瘴気から半端に守られ、かろうじて命を落とさずにいたようでした」
すぐに命を落とした方が、ずっと楽だっただろう。
けれど恋人を守ろうと渡した揃いの魔道具により、苦しい思いをさせてしまったとアウロラ様は声を震わせた。
「彼はとても心の綺麗な強い人でした。自身の症状からこの呪いは未知の疫病として広がる可能性があること、そしてこの呪いを村の外に出ないようにしなければいけないと、私に告げたのです。自身の命が長くは保たないと知りながら」
そして、ルフィノが言っていたこの地で結界を張り続けた魔法使いというのが、アウロラ様の恋人だったのだと悟った。
「…………っ」
自身の命が尽きかけている中、無関係の他者のために動くことができる人間が、どれほどいるだろうか。
前世の私だって、大切に想うフェリクスだからこそ、最後に彼の呪いを受け入れたのだ。同じ状況に立たされた時、同じことができる自信はなかった。
「彼も霊廟の中にいる私が無事ではないと、分かっていたのでしょう。こんな頼みをするのは酷だと分かっているけれど、結界を張るための魔力を分けてくれないかと尋ねられました。私はもちろん承諾し、彼に魔力を送ったんです」
霊廟を覆う結界に閉じ込められたままの彼女は、恋人の魔法によって揃いのブレスレットを媒介にして魔力を送ったという。
(……あのブレスレットがそうだったのね)
村へ入る直前、祠の像に掛けられたブレスレットがあったことを思い出す。
この村を覆う結界が十五年間も完璧な状態で維持されてきたのは、ずっとこの場所からアウロラ様が魔力を供給していたからなのだと、ようやく理解した。
「そんな彼に心を動かされた私は、魔力の供給以外にも呪いが広がるのを食い止める手助けをしたいと思いました。けれど愚かで無知な私は、呪いを抑えるような強い結界を張る方法など知りません。──そして苦慮の末、原因であろう小箱を自身に取り込むことにしたのです」
「…………え」
「聖女の血は特別だということだけは、私も知っていましたから」
アウロラ様の言葉に、私だけでなくフェリクスやイザベラにも動揺が走ったのが分かった。




