【15】
ギイッと軋んだ音を立てて古い木の扉が開く。年月を経ているが頑丈な扉はとても重い。両手に精一杯の力を込めて、ブランシュは中へと入った。
エバンズ家の屋敷の近くにある礼拝堂。
少女だったブランシュの心を慰め、支えになってくれていた場所。
管理者が不在になってずいぶん経つ建物はとても狭く古びているが、ブランシュにとってここは呼吸の仕方を思い出せる場所だった。
今でも静かに考え事をしたい時はここに来て、感謝を込めて掃除をしている。
ひんやりとした石壁。天使の像。祭壇。10人も座れば満席になってしまう木のベンチ。
それらを一つ一つ丁寧に拭いていく。
「……ふふ。なんだかこの天使様の像、殿下に似ているかも」
いつもなら汚れを一つ拭う度に心も晴れやかになる気がするのに。
脳裏に浮かぶのはクロヴィスのことばかりだ。
こんなに心を制御できない自分が、本当にクロヴィスの隣に並ぶ資格はあるのだろうか。
結局、思考はそこに戻ってきてしまう。
「お掃除、終わっちゃった。……仕方ない。天使様にお祈りして、家でお姉様に話を聞いてもらおうかしら。お姉様はいろんな恋の話を知っているから、私が一人で考えているよりも建設的な答えをくれるはずだわ」
そう考え直し、天使の像に祈りを捧げブランシュは扉に手を掛ける。
「んっ……! この扉、来る度に動きづらくなっている気がする。もしかして錆び付いているのかしら。次来る時には錆を落とす薬も持ってこないと」
しかし。何度力を込めて扉を押しても。
重く頑丈な扉は訪れた時のように開くことはなかった。
「――え。もしかして、私、出られなくなってる……?」
ひやりと。冷たい汗が背中を流れた。
◆
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
ブランシュも最初こそドアを叩いてみたり、大きな声で人が近くにいないか呼びかけたりしてみたが、なんの手応えもなくやがて諦めた。
力なくベンチに座り天使の像を見上げる。
この礼拝堂には高い場所に採光の窓があるだけで、あそこから出るのも難しそうだ。持ってきた掃除道具も布とバケツだから、それでドアを破ることも難しいだろう。
「今、何時くらいかしら……」
ブランシュがこの場所に来たのは午後のティータイムの前だった。窓に切りとられた空は、茜色に変わり始めているように見える。
「お父様もお母様も。みんなもしかしたら、私がいないことにすら気づいていないかも……」
もしこのまま、誰も自分を探しに来てくれなかったら。夜をこの場所で過ごす?
その可能性に、ブランシュは震える自分の身体を抱き締めた。
怖い。このまま、一人で闇の中を過ごすことになってしまったら。とても、怖い。
「ふふ。礼拝堂には一人になるために来ていたのに、今さら怖がるなんて変な話ね」
自ら一人を選ぶのではなく、一人でしかいられないのは、なんて恐ろしく寂しいのだろう。
「殿下……。殿下が屋敷にいらっしゃった時に私がいなかったら、失望されてしまうかしら……」
今日の朝までは彼の熱い腕の中にいたのに。
今は一人、孤独に怯えているなんて。
『これからは俺が。どんなことがあっても、君がどこにいても。これからは俺が君を見つけて、名前を呼んでみせるよブランシュ』
馬車の中でそう抱き締めてくれたクロヴィスの声も。体温も。香りも。
全てが恋しくて涙が溢れてくる。
『俺は君を愛しているブランシュ』
『もう君が俺のそばにいない人生なんて考えられない』
『ブランシュ』
初めて出会った時の怒りを滲ませた声。
ころころと表情を変え語ってくれた神話。
悪戯っ子の少年のような微笑み。
今の姿は忘れてくれと言った時の真っ赤な頬と耳。
舞台を真剣に見ている時の横顔。
愛してると囁きながらブランシュを映したサファイアの瞳。
気づけば、ブランシュの中はこんなにもクロヴィスのことでいっぱいになっていた。
「殿下、殿下……っ。クロヴィス様……!」
会いたい。彼に、会いたい。
「クロヴィス様、ブランシュはここにいます。ちゃんと、今度こそ私の気持ちを伝えますから、どうか屋敷にいらっしゃって」
空はすっかり茜色に染まり、夜の気配すら連れて来ている。
王太子からの求婚を受けた女がその答えを言う場に現れない。
それは拒否の意味だと捉えられてもおかしくない。
「違います、違います。私は……!」
帰らなくては。エバンズ家の屋敷に。
帰らなくては。クロヴィスの元へ。
「どなたか、どなたかいらっしゃいませんか……! 助けてください、閉じ込められているのです! どなたか……!」
声を上げながら扉を叩き、助けを求める。
かまわない。例えこの声が枯れても、手に血が滲んでも。彼の元へ帰れるのなら、かまわない。
(それでも私は、クロヴィス様に会いたいの……!)
もっと、もっと大きな声で。
見つけて。誰か、ここにいると、気がついて。見つけて。
「どなたか……っ!」
硬い扉を叩く拳が痺れ、感覚がなくなってきたその時。
「……! ブランシュ! ブランシュかっ?!」
奇跡が、起きたのだと思った。




