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最速の女王  作者: YASSI
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世界のレベルと井の中の蛙

 三月の終わり頃、滑走路の周辺に雪は残っていなかったが、周囲を取り囲む山々はまだ真っ白な雪を被っていた。それでも日照時間は日に日に長くなっており、風のない日にはこの地にも春の到来を感じさせる暖かな空気が盆地を包み込んでくれていた。


「あれが本当に世界三位なのか?」

 エレーナがぽつりと呟いた。以前は滑走路だったコースを走る一台のマシンを、候補生全員が見つめていた。


 自分たちの腕試しに、現役GPライダーに来てもらったと知らされたのは、今朝、最初のサーキット走行前のミーティング時だった。前年のランキングは三位だと紹介されたその男は、明らかに落胆した態度を隠さなかった。


 その男は若い女性にレーシングテクニックを教えてやって欲しいと言われ、別の期待をしていたらしい。しかし、紹介された女性たちは、みな彼の守備範囲に届かない子供のような少女たちだった。中には年齢的には大人と呼べる者もいるらしいが、全員小柄で女性として発達する部分も未成熟で、彼の基準からは女性としての魅力に欠けていた。その中にかつて体操界で『ロシアの至宝』と呼ばれたヒロインが含まれている事も、彼には知る由もなかった。


 エレーナたちは、午前中はいつも通りの練習をこなし、午後から初めて外国人と走る事になっていた。

 昼食を終えて、午後の走行に備えて身体を休めていた時、外から排気音エキゾーストが聴こえてきた。早めに昼食を摂ったドイツ人がウォームアップを始めたらしい。少女たちは、世界トップクラスの走りを少しでも早く観たくて、午後の練習開始時間よりずっと前にコース脇に集まっていた。


 走りを観た感想は、ほぼ全員がエレーナと同じものだった。彼女たちは自分たちの走りしか知らない。映像では観ていたが、本物のGPライダーを生で観るのは初めてである。

 確かに自分たちの知らないテクニックもみられた。それでも、世界三位だと言うその男の運動能力がそれほど高いとは思えなかった。


 およそすべてのスポーツに共通する基本は、身体の軸だ。運動ベクトルに沿って身体の軸を置かなければ、効率的に力は伝わらない。体操やバレエなどでは、初心者の内から徹底して意識させられる基本中の基本である。ある程度は鍛えられるが、先天的に持っている『センス』の差も大きい。その世界では決定的とも言える。


 体操やバレエ以外でも、大概あるレベルに達すればその重要性に気づくものである。それに気づいた者は、自分のやってる競技以外を観る時も、身体軸を意識して見るようになる。たとえ自分の知らない競技を観ても、ある程度選手の実力はわかるようになる。

 ウォームアップであっても『センスの違い』は表れてしまう。


 ここに集められた少女たちは、誰もが当たり前のように高い次元のセンスを持っていた。当然、GPライダーの『センス』にも興味があった。

 モーターサイクルとは、身体軸の動きがそのままマシンの動きに直結している乗り物だと、乗り初めてすぐに体で感じとっていたのだから、世界のトップのセンスをめざしてきた。


 しかし、今目の前を走っている男は、とてもトップレベルの動きじゃない。体操に例えるなら、平均台の上でふらふらと振らつきながら両手を広げて、必死でバランスを取って演技しているみたいだ。落下しないのが不思議なくらいだった。


「ビールしか飲んだ事なかったから、昨夜のウォッカが残っているんじゃない?」

 朝の自己紹介で、露骨に軽視された一番若いイリーナがたっぷりの皮肉を込めて言った。

「いいえ、あれで転ばないで走れるのは大したものよ。私たちを馬鹿にして、わざと下手に見せているのかしら?『道化師が危なっかしいパフォーマンスを出来るのは、一番技術が高いからだ』って言うじゃない」

 ナターシャがフォローしたが、本心でないのは誰もがわかっていた。


 道化師の演技は、一見崩れた体勢に見えても、体軸の中心は絶えず保っている。見る者が見れば一目でわかる。あの男の走りからは、それを感じない。身体の軸が安定してない。それを修正しようと更に重心が振れる。力の方向はでたらめになり、最後は無理やりハンドルをコジってつじつまを合わせていた。おそらく、ずっとあんな乗り方をしていたんだろう、身体に染み着いている。


 エレーナたちが観ている事に気づいて、意識したように間近を通過していった。

 次のコーナーに向けて、マシンを傾け始める。深く、深く。膝が路面に擦り、ブーツの爪先から火花が散る。それでも更にイン側に体を入れ、遂には肘が路面に触れるまで落としていた。


「いったいどういう競技の選手なんだ?」

 自分の知らない種目があるのだろうかとエレーナは本気で思った。例えば『どこまで深くバンクさせられるか種目』とか。日本のバイク雑誌のおふざけ企画にそれに似た写真投稿選手権があったが、エレーナは当然知る筈もない。


「私たちが教えられたロードレースは、早くフィニッシュラインを通過した者が勝者という種目だけでしたよね」

 同じ事を考えていたスベトラーナが、隣にいたナターシャに尋ねた。

「その筈です。私たちの知らない種目もあるのでしょうか」

 仮にあったとしても、自分たちには関係ない。自分たちは、言われた競技でベストを尽くすだけだ。ただ、気になる点は、いくら無意味なパフォーマンスとは言え、あそこまで深くバンクさせられるのは相当にバイクの扱いに熟練しているように思えた。

 どの世界にも、滅多にはいないが極稀に、センスの差を努力で埋めて、トップに迫る者がいる。彼がそのタイプだとしたら、ウォームアップだけで判断するのは早計すぎるかもと、ナターシャはもう一度慎重に観察した。


 フランツは、ウォームアップを終えて整備エリアにマシンを入れた。既にアレクセイと候補生たちが集まっていた。

 マシンを兄のクラウスに預け、ヘルメットを脱いだ。


「随分熱心に走り込んでいたようだったが、このコースは気に入ってもらえたかな?」

 アレクセイが先に声をかけた。

「一応コースは覚えましたよ。これだけ広いコースをいつでも走れるなんて、羨ましい限りですね。私が十代の頃は、兄貴とレーサーを峠に持ち込んで練習してましたよ。勿論違法ですがね」

 東ドイツ出身の技術者が、彼のドイツ語を通訳すると、少女たちが皮肉な微笑みを浮かべた。先に彼女たちの走りを見ていたフランツが、言い訳をしているようにしか聞こえない。

 フランツはそれに気づいて、少しムッとした。

「まぁ、これだけの至れり尽くせりの環境で練習していれば、ロバでも格好だけは一人前になるでしょう。本場のレースで通じるかはわかりませんがね」

 通訳はそのまま訳していいのか迷ったが、フランツが構わないと仕草で示したので、事務的な口調でアレクセイに伝えた。

 真っ先に反論したのは、銀髪を短く刈り込んだ少年のような少女だった。

「あなたがランク三位になれるなら、自分たちはチャンピオンになれると言ってます」

 東ドイツから来た技術者は、もう私は一切関係ないという顔で、エレーナの言葉をそのままドイツ語に訳した。

「どうやら口も一人前になったようだな。東洋にこんな諺があるのを知っているか?『井の中の蛙、大海を知らず』とか言ってな、田舎の水溜まりにいるカエルは、海の大きさも厳しさも知らない、って意味らしいぜ」

 エレーナの瞳が、彼を睨み付けた。凍りつきそうな冷酷な視線に思わず固まる。エレーナが口を開く前にアレクセイが止めた。

「本場のレースを教えてやって欲しいから、キミに来てもらった。口で言っても理解出来ない年頃だ。一緒に走って教えてやってくれると助かる」

「オーケー、小娘相手に剥きになるのも気が惹けたが、頼まれた以上は仕方ない。お尻叩いて

 教えてやるよ」


 実のところ、フランツは午前中の彼女たちの走行を観て、その実力がかなり高いのに驚かされた。おそらく最初から運動神経の良い者を集め、この環境でみっちり走り込んできたのだろうとは想像出来た。


 単に走る技術だけなら国際レースでも上位に入れるレベルだろう。特にあの銀髪ショートヘアの少女は、でかい口叩くだけの走りはしていた。体格的にも、おそらく俺より5〜7?は軽いようだ。80ccのパワーでこの差は厳しい。ポテンシャルは認めてやるが、実戦では自分の理想通りには走れないもんだ。抜きつ抜かれつの競り合いでは、完璧なテクニックより駆け引きと強引さが必要なんだよ。彼女たちのためにも、本当のレースの厳しさを教えてやる。


 フランツは、生意気な小娘たちの鼻を本気でへし折ろうと意思を固めた。

 本気で掛からなければ、こちらのプライドが潰されるとも感じていた。


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