監視
「政治将校だか、政治委員だか知らないが、チームのミーティングにまで、どうして部外者がいるんだ」
パドックに設営されたチームのテントの中、エレーナは苛ついた声で隣のスベトラーナに溢した。視線は、テントの一番隅で両腕を抱えるようにして立っている二十代後半ぐらいの赤毛の女性に向けられていた。
「エレーナさん、気持ちはわかるけど、おねがいだから口を慎んで」
体操時代に何度も国際大会で外国遠征した経験のあるナターシャには、エレーナの態度が気が気でなかった。
エレーナの視線の先にいるソフィア・ポトシコワは、政府から派遣された政治委員だった。確かにチームスタッフとして登録されていたが、チームの誰もがエレーナと同じ感情を持っていた。
元々このプロジェクトには、ライダーも技術者も、最適な人材を提供するよう各分野に、最優先事項として通達されてスタートした。
しかし、どの競技種目も業界も、最高の人材を得体の知れぬ計画に盗られたくはない。実際には何かと理由をつけて、将来性のない選手や、手に余るような人材、要するに邪魔になった人間を押し付けた。党幹部とのコネは、最優先事項より上の項目である。ほとんどの者が、それぞれの分野で邪魔者として売られた身の上であり、それでも誇りと自信を失わず、見返す事を夢みて無謀な計画に共に挑んできた本当の同志たちだ。権力の手先であり、その権威を振りかざす政府の犬を嫌うのは、当然の事だった。
政治委員の仕事は、外部との交渉と本国との連絡役、並びに外国に不慣れなライダーとメカニックたちの通訳と、長期間のGP転戦生活に於ける悩み事の相談相手になり、拝金主義にまみれた退廃的欲望から守ってくれるらしい。要するに監視役である。
彼女の前で、祖国への不満を洩らせば、忽ちスターリン主義者の元に伝わり、危険分子として扱われる事になる。
体操時代から、そう言った噂を何度も聞かされてきたナターシャは、以前から後輩たちに注意するように言ってきた。祖国に対して、不信感を膨らませていたエレーナも、ナターシャには従ってきた。しかし、絶えず見張っているソフィアの存在に、かなりストレスが溜まっているようだった。
「アレクセイ監督が、上層部に交渉して、私たちのプライベート空間にまでは立ち入らないように承諾させてくれたのよ。ミーティングの時ぐらいは我慢して」
ナターシャは、小声でエレーナをたしなめた。
「……すみませんでした。あの女を追い出しても、盗聴器でも仕掛ければ、いっしょですからね」
「しっ!声が大きいです。でもその通りよ。だから、どこにいても、滅多な事を絶対に口にしないでね」
エレーナは頷いたが、ナターシャの不安は消えなかった。世界GPを転戦するようになって、祖国で教えられてきた事が、すべて偽りだとその目で見てきた。
西側には物が溢れ、パンを手に入れるために、寒さの中、何時間も並ぶ人もいない。
誰だって抱く国への不信。これまでされてきた仕打ちと、父親の死を思えば、エレーナが怒るのも理解出来た。
「あなたの気持ちはわかるわ、でも、ここで怒りをぶちまけたらそれで終わりよ。あなたは、もっと高い所へ登って、下っ端の政治委員なんかが手出し出来ない存在になるしかないの。そうなったら、国を少しでも変えられるかも知れないわ」
エレーナが冷静になるように言い聞かせた。アレクセイの要求が認められたのも、勝ち続けているからだ。もっと勝ち続け、もっと力を手に入れなくてはならなかった。
エレーナを挟んで向こう側にいたスベトラーナも、同調してくれた。
「そのためだったら、私もどんなことでも協力するから」
彼女も小さくても力強い声でエレーナを落ちつかせてくれた。ナターシャは、エレーナの手を握りながらそれに頷く。エレーナはようやく自分の未熟さを反省した。
「ナターシャさんの気持ちも知らずに、すみませんでした。でも私が上に行くんじゃない。ナターシャさんも一緒に行く」
ナターシャの手を強く握り返しながら、エレーナが答えると、もう一方の手をスベトラーナが、より強く握ってきた。
「スベトラーナ、ちょっと痛い、握力強すぎだ」
「それだけ絆が強いって事よ。私も一緒に行くから!私の方がナターシャさんより先に約束したんだから、忘れないでよね。絶対に離さないからね」
「わかってる。わかってるから、ちょっと力弛めてくれないか」
エレーナは、苦笑いしながら頼んだが、スベトラーナはエレーナの手を握る力を弛めなかった。




