魔法の箒に跨がった魔女
フランツは最初から全力で飛ばした。調子づかせる前に心理的優位を取り戻しておきたい。
しかし、スベトラーナを先頭にした少女たちはピタリと貼りついて来る。
5周目にロシア語のサインボードが出されたのが、フランツにも見えた。同時に背後からのプレッシャーが、明らかに変化した。GPライダーの走りを学ぶという建前は、もう完全無視のバトルモードに切り替わったのを感じる。
「こっちも最初からそのつもりだぜ。どっからでも来やがれ」
フランツは、ラップタイムより、抜かせない走りに徹した。それに対し、スベトラーナが積極的にアウトから被せて行く。
(早速来たか。だがおまえが囮だってのはわかっているぜ。そんなバレバレの動きじゃミニバイクレースでも通用しないつーの)
アウトから被せるスベトラーナを牽制しながらも、イン側を警戒する。太陽を背中にするコーナーでは、真下の路面に注意を向ける。此処がどこだか知らないが、低い太陽が後続の影を長く伸ばしている。
そしてちょうど真後ろから日を受けるコーナー手前で、インに割り込もうとする車影を捉えた。
やはり甘い。こういった作戦は、相手の意表を突くから効果がある。最初のアタックで失敗して、相手に警戒されればもう使えない。こんな太陽を背にしたコーナーで仕掛けて来るのは、経験の乏しさを物語っている。
フランツはすぐ様インをブロックする行動をとった。
エレーナが、マシンを一気に寝かせてインに切れ込む。同じタイミングでフランツもインに寄せたのに驚いたが、動きのスピードは自分の方が速いとみて、迷わずクリップをめざしてフランツとゼブラの僅かな隙間にねじ込んで行く。
当時の小排気量クラスのコーナーリングは、一旦減速すると加速に手間取るので、出来る限り速度を落とさない様なめらかに曲げていくというのが常識だった。しかし、此処にそんな常識はない。此処の常識は、勝つための合理的な選択だけだ。
エレーナは、大排気量大パワークラスのライダーようにブレーキングから一気に寝かし込み、クイックに向きを変えると同時にスロットルを開けた。一時的に車速は落ちるが、クリッピングポイントを通過した直後には既に加速体勢に入っていた。
フランツは、インを塞ごうとしたのに一瞬にして並ばれて慌てた。とんでもない速さの斬り込みだ。来るのがわかっていてもブロック出来なかった。しかも、彼がまだフロントに過重を架け、旋回Gに耐えているのに、エレーナの乗るバイクは、ウェイトの軽い乗り手にストレスを感じる事もなく、回転を上げていく。その間にも、外側からスベトラーナにまで並ばれた。
せめてアウト側だけでも抑えたかったが、大きな曲率を通って最小限の減速しかしていない上に軽い体重を生かした加速力に、後塵を拝すしかなかった。
フランツは、一つのコーナーで二人にパスされる屈辱を噛み締めながら、ここまま引き下がれない。不慣れなコースと相手では、追われるより追う方がやり易いと気を取り直す。
(その加速は反則だろ?だが今度はこちらの番だぜ。いつまでも色気のない尻を眺めてる趣味はないんでね)
しかし、フランツの反撃は、後続のイリーナとナターシャからもアタックを仕掛けられ、思うようにならない。先ほどと同じパターンで、外と内側から攻められていた。前二人のペアほどの鋭さはないので、なんとか抑えられているが、かなり鬱陶しくちょっかいを出され、追撃に集中出来ない。そうしている間にエレーナとスベトラーナはみるみる差を拡げて行く。
一旦後ろの二人をやり過ごし、トップ二人に追いついた所でもう一度仕切り直しに持ち込もうかとも考えたが、そのままトップの二人に逃げ切られる可能性が高い。仮に追いついたとしても、二人でも手を焼く相手が、四人揃って先行させるとなると、もはや手に負えなくなりそうだった。最初のグループのように集団で飛ばされたら、着いて行くのが精一杯になるだろう。後ろの二人を絶対に前に行かせたくなかった。
フランツが後続を抑えるのに必死になっている間に、エレーナとスベトラーナのコンビは大きく引き離していた。完全にトップ二台と三位争いをするセカンドグループとに分かれた状態でストレートに差し掛かった時、イリーナがフランツに並んだ。更にナターシャがイリーナの前に出る。そのナターシャがラインを変えると再びイリーナが前へ。シフトアップの度に前後を入れ替わり、その度にフランツとの速度差を見せつける二人に、ストレートエンドまでには完全に抜き去られていた。
彼女たちは、フランツを抜きあぐねていたのではなかった。抜こうと思えばいつでも抜けたのに、前の二人を逃がす為の時間稼ぎをしていただけだと、フランツはようやく気づいた。正確には、そういう作戦パターンの練習をしていたのだろう。自分はいつもと違う練習相手として扱われているに過ぎないと悟った。
それでもなんとか追い縋ろうとするが、後ろには別の集団が迫っていた。
結局フランツは全員に抜かれた。走行時間終了間際に辛うじて二人を抜き返す事が出来たが、GPライダーとしての彼のプライドはズタズタに引き裂かれていた。
失望と蔑みを覚悟して整備区画に戻ったフランツを、アレクセイは意外にも感謝と敬意を以て迎えた。
「本気で走ったのに完敗ですよ。がっかりしたでしょう」
敗北を素直に認めた。
「いや、最後まで手を抜かず走ってくれた事に感謝している。最後に抜き返されたのは、さすがGPライダーだと驚かされたよ。もう少し走行時間があれば、どこまで巻き返すか見てみたかった」
アレクセイは真面目な顔で応えた。嫌味を言っているのか、本気なのか読めない。ただ、良くも悪くもストレートにものを言うタイプの人間だと感じていた。
「ご冗談を。ストレートに戻ったら、すぐ抜き返されてたでしょうね」
どう見えたかは知らないが、彼に出来たのは最下位を争うのが限界だったと自分自身が一番よくわかっていたので、フランツは本音で応えた。今さら負け惜しみを吠えても惨めなだけだ。そして自分のプライドをズタボロにした少女たちを眺めた。彼女たちも走行前の敵対心が消え、最後まで全力で戦ったフランツを称える表情を向けていた。少し居心地が悪いが、あそこまで完璧にやられると逆にあっさりする。
『国家が造り上げたサイボーグ』というイメージを抱いていたソ連のスポーツ選手だったが、『真に強い者ほど、敗者に対する礼を忘れない』と言うのは世界共通のようだ。彼女たちが自分を対戦相手として認めてくれた事に、奇妙な満足感を得た。
「まるで魔法でも使われたように相手にならなかった。あの子たち……、いやあのライダーたちは、本当は魔女なんでしょ?」
フランツは一旦「あの子たち」と言いかけて「ライダーたち」と言い直し、冗談っぽく彼女たちの速さを誉めた。
「魔女か?なかなか面白い表現をする。だとすると彼女たちの跨がる箒は、君たちの協力なしでは造れなかった。全員それは知っている。魔女裁判になれば、君も火炙りだな」
フランツは複雑な気持ちで笑った。やはり自分はとんでもない事に協力してしまったようだ。彼女たちが西側のレースに登場したら、ロードレース界がひっくり返るだろう。当然、自分の活躍するチャンスもなくなるのを覚悟しなくてはならない。
「あんたたちにも、随分失礼な態度をして悪かったな。それからそこの彼女、名前なんだっけ?」
フランツは勝者に走る前の非礼を詫びた。そしてエレーナに向かって尋ねた。
「エレーナ・チェグノワだ」
「その名前、覚えておくよ。随分生意気な奴だと思ったが、エレーナなら本当に世界チャンピオンになれる。俺が保証してやるよ。まあ、俺なんかに保証されても嬉しかないだろうがね」
「そんな事はない。自分たちの知らない走りを見せてくれた。最下位に堕ちても勝負を棄てない姿勢も立派だった。味方がいなかった事とウェイトのハンディを差し引けば、貴方が技術的にそれほど劣っていたとは思っていない」
「それって褒ているのか?」
フランツの突っ込みに、少年のような少女は不思議そうに顔を傾けた。悪意はないらしい。
その後、三日間ミッターマイヤー兄弟はツェツィーリアに留まり、彼らなりのアドバイスをしていった。ライディングテクニックについては何も言えなかったが、セッティングやメカニカルに関して、彼らの豊富な経験は貴重だ。それから向こうのサーキットを走るなら、アップダウンのあるコースと先の見えないブラインドコーナーの練習もした方がいいというアドバイスは、後に大いに参考になった。




