第三章 ~『黒幕とハーゲン』~
雨が降りしきる王都の石畳を、ハーゲンは泥にまみれた靴でとぼとぼと歩いていた。
「なぜ……儂が……こんな目に……」
誰にともなく呟いた声は、雨音にかき消される。
かつては由緒ある領地を運営する貴族の一人として、あらゆる者たちに敬意を払われてきた。
しかし今では誰も彼に見向きすらしない。濡れ鼠のような風体の彼が元伯爵だと気づく者は一人としていなかった。
「クラウス……エリス……おのれぇ……っ」
濁った瞳に怒りの火が宿るも、すぐに消える。
自領を守るため、クラウスたちを失墜させるべく動いた。
だが、すべて失敗した。
特にエリスの力を見誤った代償はあまりに大きく、彼は資産も爵位も剥奪され、領地を追われてしまった。
貴族社会からも追放された今、ハーゲンには何も残っていない。雨脚がさらに強くなる中、彼はある屋敷へとたどり着いていた。
「頼れるのは第二王子……アストレア殿下だけ……」
濡れた髪を振り乱しながら、ハーゲンは門へと向かう。だが門番は槍を交差させ、彼の行く手を阻む。
「ここは王族の私邸だ。部外者は立ち去れ」
「わ、儂は……アストレア殿下の忠臣、ハーゲン伯爵である! どうか、殿下に取り次いでもらいたい!」
門番が顔をしかめる。風体が貴族のそれではないため、疑念が瞳に浮かんでいる。
「人を騙すなら、もっと信憑性のある嘘を吐くのだな」
「嘘ではない。儂は本当に伯爵で……」
「なら配下の者はどうした? 一人でふらふらと現れる貴族など聞いたことがない」
「そ、それは……」
「はぁ、我らも忙しいのだ。しつこいようなら、憲兵に連行させるぞ。それでもいいのか?」
交渉の余地はない。だがここで引くわけにもいかない。雨に濡れた手を震わせながら、ハーゲンは心中で呟く。
(アストレア殿下の私兵に対して無礼になるかもしれんが……)
「儂は本当に殿下の知り合いなのだ。それを証明してやる」
「証明?」
「これをよく見ておけ」
ハーゲンが懐に手を入れると、ゴクリと息を飲む。もし眼の前の見窄らしい男が本当に伯爵だとしたら、そんな懸念が、彼らを一瞬、困惑させたのだ。
その隙を突いて、ハーゲンは暗示魔術を発動する。指先から赤い光が放たれ、門番の目が虚ろになっていく。
「取り次いでもらおう。今すぐ、殿下にハーゲンが来たと伝えろ」
「……は。かしこまりました」
門番の一人が無言で奥へと消えていく。残されたもう一人も、ぼんやりとした様子のまま槍を下げた。
(やれやれ……屋敷に入るのに、こんな手段を使うことになろうとは……)
ほどなくして、中から門番が執事を呼んでくる。彼はハーゲンの顔を知っていたのか小さく頷く。
「殿下がお通ししろとのことです。どうぞ、こちらへ」
どこか冷淡な案内に、ハーゲンは歯を食いしばりながら応じる。
豪奢な屋敷の中。かつては足を踏み入れるたび、使用人たちが礼を尽くしてくれたが、今日の彼に向けられるのは、まるで汚物でも見るかのような視線だ。
「こちらでお待ち下さい」
通された応接室には、椅子とテーブルがあるだけ。その内の一つに腰掛けようとすると、執事が目を細める。
「ハーゲン様、その服装で椅子に腰掛けるのはお止めください」
「わ、儂は客人だぞ!」
「だからこそです。椅子を汚されては、殿下の怒りを買う恐れがあります。そうなるのは互いにとって不幸なはずですから」
「むっ……」
汚物のように扱ってくる執事に怒りを覚えながらも、その話には妙な説得力があった。ハーゲンは仕方がないと屹立したまま、アストレアが現れるのを待つ。
やがて、扉が音もなく開く。
現れたのは銀髪の男だ。緋色の外套を纏い、精悍な顔立ちをしている。ただしハーゲンを見る目は冷酷で、どこか飽き飽きとした色が浮かんでいる。
「……なんの用だ?」
「た、助けていただきたいのです……殿下!」
ハーゲンは駆け寄ろうとして、足がもつれて膝をつく。泥水に濡れたままの外套が、赤い絨毯にしみを広げていく。
「すべては殿下のご命令通りに動いたのです……クラウスを失脚させ、エリスの評判を地に落とすべく……儂なりに……儂なりに尽くしたのです……」
震える声で必死に縋るその姿に、アストレアはただ鼻先で笑う。
「その割に、結果が伴っていないようだが?」
「そ、それは……」
「それどころか、クラウスはさらに領地を豊かにし、エリスとやらは民から慕われていると聞くぞ」
「ですが、忠義を尽くしたのです。儂は……殿下のために……」
「笑わせるな。貴様が私の命令に従ったのは、クラウス排除に対しての利害が一致しただけに過ぎん。それが崩れた今、私に縋るなど……醜悪にも程がある」
「そ、そんな……!」
ある意味でアストレアの言い分は正しい。
麦のシェアを奪われていた彼は、その苦境を脱するためにアストレアと手を組み、計画に乗った。その理由は私欲が大半を占めていたが、それ故にこそ、忠実に命令を遂行してきたつもりだった。
「殿下、どうか、もう一度だけ……儂にチャンスを……」
「無能に二度も機会を与えてやるほど、優しくはない」
アストレアは短く吐き捨てると、片手を上げて指を鳴らす。すると、扉の向こうから、全身を黒鋼の甲冑で包んだ近衛兵が現れる。
「地下牢に連れて行け。ただしこいつは暗示の魔術を使う。油断せぬようにな」
「お待ちをっ! 殿下あああああっ!」
近衛兵がハーゲンの腕を取り、無理やり立たせる。
「いやだ……こんなはずでは……っ、殿下、見捨てないでくださいっ!」
引きずられるように応接室を出ていくハーゲンの叫びは、アストレアに届かない。扉が音もなく閉じられ、赤い絨毯の上には、薄く泥の跡だけが残される。
静寂が戻った室内で、アストレアは背を向け、窓際の地図へと歩を進める。それはシュトラール辺境領を中心とした周辺図だ。
「クラウス……本当に邪魔な男だ……」
低く吐き捨てるような声が室内に響く。
「民に慕われ、兵には尊敬され、しかも領地はここ数年で最も発展している……あの男が王位継承において、脇役に収まるとは到底思えん」
アストレアは壁に掛けられた軍部人事の系譜図に目をやる。そこには、彼の名よりも上位に、筆頭将軍クラウスの名が明記されていた。
「クラウスさえいなければ、私が軍のトップに立てる。この国の軍事力を掌握できれば、兄を超え、次期国王になるのも夢ではない……」
産まれるのが遅かったからと風下に立たされるのは到底我慢できることではない。ギリリと歯を食いしばる。
「それにもう一つ懸念がある。クラウスは先代国王が愛人に産ませた子だ。醜いからと捨て置かれていたが、これ以上に功績を積めば、王位継承戦に担ぎ出す者が現れてもおかしくない……クソッ、辺境で大人しくしていればいいものを……」
怒気混じりの呟きが広がっていく。その声を打ち破るように、扉がノックされた。
「入れ!」
「では、失礼して」
入ってきたのは、漆黒の軍服を纏った長身の男だ。切れ長の目と、無表情の顔には冷酷さが滲んでいる。王室近衛隊の執務官であり、彼の右腕ともいえる男、ヴェルスタンである。
王子は無言で顎をしゃくり、地図へと視線を誘導する。
「貴様に与える任務はただ一つ。クラウスを失脚させろ」
その一言に、ヴェルスタンの眉がわずかに動く。
「優秀な男だと聞いていますが、よろしいのですか?」
「敵が優秀でも、私にとっては害しかないからな。領地を監査する執務官としてシュトラール辺境領に赴任させる。表向きは王家の使者だ。立場を上手く使い、手腕を発揮してみせろ」
情報操作、内乱誘導、偽造工作、魔術戦。そのすべてに長けた男だと、アストレアは、ヴェルスタンのことを評価していた。
信頼された彼は跪いて、頭を下げる。
「殿下のために全力を尽くします」
「では、任せたぞ。貴様の功が大きければ、その暁には、再編後の軍部にポストを用意してやろう」
「光栄に存じます、殿下」
その瞬間、空気が変わる。新たな悪党たちが私利私欲を満たすため、動き始めたのだった。




