その従者、正体は
「――全く。いつも無茶ばかりして……」
意識を手放したクラリスを腕に抱くゼスト。
苦痛に眉を寄せたまま眠る彼女にその柔らかな紫の視線が優しく見下ろし、彼女の額にかの従者の唇が近づく。
クラリスの額にゼストの唇が触れた途端、暖かな光がクラリスの中へと流れ込む。
しばらくするとクラリスの表情が柔らかなものへと変わり、安らかな呼吸が聞こえるようになった。
ゼストはその様子を見守ると、静かにクラリスを床に横たえる。穏やかに眠る彼女を見てクスリと笑い、
「このまま穏やかに眠っていてください。――すぐに終わらせますから」
後ろを振り返る頃には紫の瞳に殺気を宿して、目前の敵を睨みつける。
クラリスの命を狙い、弾かれた漆黒の長剣はまだそこに存在しており、宙に浮かんでいた。
『――その声と気配……まさかお前……ゼストか。そうか、では先程の気配は追放聖女か?』
「その問いに応える義理はない」
くぐもった無機質な声音の問いに、ゼストは意に介さない。その明らかな拒絶に呪いの術者は実に楽しそうな声を上げた。
『お前がそこまで入れ込むとはな……。さては命を救われて恩義でも感じているのか? それとも使えないお前を捨てた教会を恨みでもしたか? いずれにせよ仕事ができないお前を拾うとは、彼女もなんとも物好きなものだ』
「――黙れ」
ゼストの怒気を孕んだ声。しかし漆黒の長剣から漏れる声は実に楽しげに話を続ける。
『お前が今ここでなにかしたところで、なんの痛手もない。出来損ないのお前にはなにもできんよ。獲物を仕留めることもできず、教会から捨てられたお前に、何ができるというのだ?』
「……」
『ほら、黙ったな? 自ら認めているのだろう? ならばさっさと失せることだ。せっかくあの時命拾いしたのにまた死に急ぐつもりか?』
嘲りを隠しもしないその声に、ゼストは依然として黙ったまま口を開かない。
しかしその身体は小刻みに震え、拳は血の気が失せるほど強く握られていた。決して恐怖で震えているのではない。ゼストは必死に耐えていたのだ。
――安らかに眠る『愛し子』を起こす訳にはいかない。この男を始末するのは簡単だが、何よりも大切な彼女の眠りを妨げることはあってはならない。
自らがどう呼ばれようとどうでもいい。あの日、彼女と出会ってからゼストはゼストであって、そうではなくなった。
新しい名前と存在意義を与えてくれた彼女のためにゼストは存在し、そのためにゼストは彼女を守るのだ。
そんなゼストの決意など知らず、声の主は従者を嘲る。
『ゼストグロウ。出来損ないのお前は、地に這いつくばっているのがお似合いだ。――死ね』
漆黒の長剣が再び浮き上がると、ゼストに向かって一直線に飛んでいく。
命を奪おうとするそれを、ゼストは気だるげに紫の瞳を細めて――。
「相変わらずだな。お前は。精霊を侮り、使役して、隷属させ、楽しいか?」
『なっ……!?』
飛んできた長剣を事も無げに片手で掴んだゼストに、声の主は驚愕をあらわにする。
それすらも聞きたくないというようにゼストは首を振り、刃を掴むと、グッと力を込めた。
長剣の形を取っていた『障り』がみるみる砂のように崩れ始める。
『何故だ……お前にこんな力はなかったはずだ! それなのに何故……!!』
驚きを隠せない声の主に、ゼストは不敵に笑い、告げた。
「精霊を舐めるなよ小童。お前はたかだか数十年生きた人の身。いかに女神の加護を受けていようと、力を取り戻した歳経た精霊に敵うと思うな。それに私はもうゼストグロウではない。名の縛りはもう効かぬ。我はゼーレスト。下賎な人ごときが、我が気高き名を口にしようなどと、烏滸がましい」
部屋中に風が舞い上がり、朱金の髪を煌めかせ、ゼスト――精霊王ゼーレストはその真体を現す。
背に一対の朱金の翼。紫の双眸が黄金に光り、短かった髪は足に届くまでの長さへと。
『そんな、まさか……! 私が敗れるだと……!?』
「消えゆけ。お前は後できちんと始末してやる。大司教エルノア」
精霊王の名に相応しい苛烈な美貌をあらわにして、ゼーレストは長剣を通してこちらを見据える敵を射抜く。
その視線に当てられた『障り』は跡形もなく溶けてゆき、声も途絶えた。やがてそれに呼応するように王女の身体を蝕んでいた全ての『障り』が消えた。
――王女を呪っていた術は解けた。『障り』も全て浄化できた。これでクラリスが無茶をすることは無いだろう。
聖女とて万能ではない。いくら浄化ができるからといってまさか自分の身に『障り』を引き受けようとするとは。
いつだって人のために行動する彼女は、自らの身を顧みない。
それはゼストにとって、何よりも心配なことだった。
やるべきことを終え真体のゼーレストから普通の従者へと戻ったゼストは、こんこんと眠り続けるクラリスを愛おしげに見つめる。
精霊は人に加護は与えても恋慕の情は抱かない。それは精霊が人間とは異なる感情を持つからだ。
しかし、ゼストのクラリスに向けるそれは、人が愛するものを見つめるときの眼差しと同じだった。
それを自覚しているのかいないのか。
散々待たされて業を煮やしたシスターリゼリアが部屋に飛び込んで来るまで、ゼストはひたすらクラリスを優しく見下ろしていた。




