国立言葉美術館
ごく普通の小説です。
[あらすじ]
言葉を芸術にまで高めた巨匠ウエオ・アイの個展にやって来た主人公。はたして言葉を芸術にとはいったい……
ガヤガヤ。ガヤガヤ。
国立美術館、メイン展示会場の扉の前に長い行列が出来ている。列に並ぶ客達の興奮でフロアは熱気に満ちていた。皆、そわそわしながらその扉が開くのを今か今かと待っている。
それもそのはず。
世界をまたに掛ける気鋭のアーティスト、ウエオ・アイの個展、
「アソコとViva!」の初日なのだ。
ウエオ・アイ。
彼は〝言葉〟を芸術にまで高めたことでその名声を揺るぎないものとした……天才。
彼が用いた〝言葉〟。
それは詩とは違う。書道とも違う。ウエオ・アイは言葉そのものを芸術にしてしまった。希代の天才だからこそ成し得た偉業である。
――まだか……まだか……
俺はチケットを握り、胸を高鳴らせて入場を待っている。〝言葉〟を芸術に、とはいったいどういう事なのだろう。早く見てみたい。待ちきれない……
あっ。
ついに。
ついに会場の扉が開いた。
客達の歓声があがる。万歳を叫ぶ者、口笛を鳴らす者。行列が動き始める。
俺も自然と鼻息が荒くなった。前の人を押さないように気をつけながら足を進める。
受付にチケットを切ってもらい、いよいよ入場だ。足が速まるのを抑えきれない。
扉をくぐると、場内は薄暗かった。いやがおうにも鼓動の高鳴りが増す。
暗闇の中、スポットライトが当てられた大きな額縁が見えた。
きっとあれがそうだ。
世界初公開。
巨匠ウエオ・アイが製作に半年を費やしたという待望の新作。ウエオ・アイ自身が最高傑作と宣言したほど。
一歩一歩近づいて、徐々にその姿が明らかになる。そして、
光に照らされたその大きな額縁の前で俺は足を止めた。いや、止められた。
これが……最高傑作。これが……〝言葉〟の芸術。
焼き付けよう。この目に……
『
うんこ
』
――すごい。
俺は瞬きを忘れた。吸い込まれるように、目が離せなくなった。
絵が描かれているわけではない。字が独特なタッチで書かれているわけでもない。ただ、木製の額に縁どられた白い紙に、ただの活字で、たった3つの文字が打ってあるだけである。
『
うんこ
』
なのになぜこれほど。いやだからこそか、この激しい感動。きっと言葉の持つ本来の力を最大に引き出しているんだ。
「うんこ!」
一人のマダムが、メガネの縁を押し上げながら叫んだ。マダムの甲高い声が展示場内に響いた。美術館で大きな声を出すなんてマナー違反だと思うだろうか。
「うんこ!」
とがめる者など誰もいない。ウエオ・アイの個展では問題ないのだ。むしろ、
「うんこ!」「うんこ!」「うんこ!」
声に出してこそ言葉なのだ。言葉とは、字・意・音、その全てを同時に感じて初めて芸術となる。音を感じるため……いや、これは理屈じゃない。皆それを叫ぶのを抑えきれないだけなのだ。
だから俺も、
「うんこ!」
ああ、この高揚感。素晴らしいぞ。俺はそっと目を閉じて、人類が言葉を話すようになってから、文字を発明し、そしてアレをこの言葉で呼んだ歴史に思いを馳せるのだ。
ありがとう。
俺は目頭に溜まった涙をぬぐう。そしてまた、ゆっくりと目を開く。ライトが当てられた輝くような白地に浮かぶ、黒で印字された、その〝言葉〟。
『
うんこ
』
ずっと見ていられる。片時も目を離さず、おそらく15分毎に角度を変えながらずっと見ていただろう。
二時間ほど堪能した頃だろうか、美術館の警備員に声をかけられた。後の客のためにそろそろ退場してほしいという事だった。確かに自分だけがずっとこの傑作を見ているわけにはいかないもの。
俺は警備員に1万円札を2枚つかませて、最後に正面の最前へと誘導してもらった。
ああ。これでお別れだ。
『
うんこ
』
ありがとう。溢れ出る感動のままに、
「うんこ!」
俺はこの日一番大きな声で、そして人生で一番清々しい声で叫んだ。
警備員が肩を叩く。俺は彼にうなずき、そして後ろ髪を引かれながらも、警備員に誘導されて会場を後にしたのだった。
その日以来、俺は言葉、文字を見る目が変わった。芸術として見るようになったのだ。目を凝らせば身近にも芸術が散らばっていることが分かってきた。ただ、さすがにあの日見た傑作に及ぶものは無かった。
それでも、中には思わず目を奪われる言葉もあった。その出会いに奇跡を感じずにはいられない。
そんな時はやはり、そう。
叫ばずにはいられない。お腹の底から、
「キンタマ!」
ありがとう。今日も〝言葉〟に感謝しよう。
(了)




