第2話 同情を誘って
エムリーが再び噂を流すことを、私は懸念していた。
故にその噂を払拭できるように、対人関係には気を遣ったつもりだ。私という人間の本質を理解してもらうためにも、積極的に自分を見せてきた。
しかし一向に、私を貶めるような噂は流れてこない。それ所か、以前よりも増して噂が沈静化しているくらいである。
「イルリア嬢――今日は早いですね」
「マグナード様、おはようございます。少し早起きしてしまったので」
色々と気になることがあるためか、私はいつもより早く教室に来ていた。
そんな私が挨拶を交わしているのは、マグナード・ビルドリム公爵令息だ。いつも穏和な笑みを浮かべる彼は、教室の黒板の掃除をしている。
「マグナード様も、早いですね?」
「ええ、今日は日直ですからね。せっかくですから、少し早く来て務めを果たそうと思いまして」
「ご立派ですね」
クラスメイトではあるが、彼とはそんなに話したことがある訳ではない。
貴族であっても、私と彼では地位にかなり差がある。故に関わり合うことがそれ程なかったのだ。
正直、今でも緊張している。彼に対して滅多なことでも言ってしまったら、一家断絶さえもあり得るからだ。
「私に何かできることがあるならお手伝いしますが……」
「いいえ、これは僕の役目ですからね。ですが、お気遣いいただきありがとうございます」
私からの提案を、マグナード様は笑顔で断ってきた。
それ自体は、彼の優しさであるだろう。彼は本当に、私に煩わせたくないのだ。
しかし状況的に、手伝わない方が私にとってはまずい。例え彼が不快に思わなかったとしても、他者に見られたら問題になる可能性がある。
「……ですが、そうですね。せっかくですから手伝ってもらいましょうか」
そこでマグナード様は、思い返したようにそう言ってくれた。
恐らく、彼も状況を理解してくれたのだろう。少し申し訳なさそうな顔をしながら、私の方を見ている。
「……なんとも歪なものですね」
「……え?」
「ああいえ、お気になさらずに。今のは独り言です」
マグナード様は、一瞬だけその表情を強張らせていた。
すぐに笑顔に戻ったが、気になってしまう。一体彼は、何を思案していたのだろうか。
ただ、それを聞ける訳でもない。マグナード様が独り言であると言っているのだから、それ以上私が踏み出してしまったら失礼にあたる。
「教室を掃いてもらえますか? 黒板が綺麗になったら、僕もそちらを手伝いますから」
「あ、はい」
私は、マグナード様の言葉に力強く頷いた。
それからは掃除に集中して、余計なことを考えることはなかった。
◇◇◇
「お陰様で、早く終わりました。本当にありがとうございました、イルリア嬢」
「いえ、お役に立てたなら何よりです」
掃除が終わってから、私はマグナード様と話していた。
教室には、私と彼の二人きりである。故に必然的に、そうなってしまったのだ。
本来であれば話す関係性ではないのだが、状況的に仕方ない。そんなことを思いながら、私は自分の言動に気をつけながら話をしていた。
「……そういえば、イルリア嬢は最近大変なようですね?」
「え?」
「正確に言えば、あなたの妹君が、というべきでしょうか? 婚約破棄されたとか」
「ああ……」
そこでマグナード様は、エムリーのことに触れてきた。
学園という閉鎖的な空間は、噂が広まるのも早い。既にエムリーが婚約破棄された事実は、周知のものだと言ってもいいだろう。
ただ、それを指摘されるとは思っていなかった。デリケートな問題であるからだ。
「すみませんね。失礼なことはわかっています。しかしながら、あなたの耳に入れておきたいことがあるものですから」
「……マグナード様?」
意外と失礼な人、私はマグナード様のことを一瞬だけそう思った。
ただ、本人も失礼であることは自覚していたようだ。それはつまり、それでも言った理由があるということになる。
故に私は、身構えることになった。もしかしたら、また私に関する悪い噂などが流れており、マグナード様はそれを知らせてくれようとしているのかもしれない。
「婚約破棄されたこと自体は、同情されるべき事柄であると、僕は認識しています。エムリー嬢に問題があったかどうかによって、その判定は覆るものではありますが、現状エムリー嬢が可哀想だと言われることはおかしくないでしょう」
「ええ、それはそうだと思います」
「ただそれを加味しても、今の状況は歪です。空気がおかしい。エムリー嬢は、同情されすぎているような気がするのです」
マグナード様は、とても真剣な顔をしていた。
その表情から、私は考える。今、何が起こっているのかを。
「……エムリーが自ら同情されるように演出をしているかもしれないということでしょうか?」
「さて、それは僕にはわかりません。ただ今の状況は、あなたやエムリー嬢にとっていいものなのかと疑問を抱いていただけですから」
私の質問に対して、マグナード様は曖昧な言葉を返してきた。
考えてみれば、それは当然だ。彼はエムリーの本性を知っている訳ではない。裏で彼女が糸を引いているかどうかなんて、わかるはずはない。
要するにマグナード様は、今の状況が歪であることを言いたかっただけだ。それによって私達姉妹が何かしらの不利益を被るのではないかを懸念してくれているのだろう。
「ありがとうございます。その情報をいただけたのはありがたいです。私はエムリーの姉ですから、そういう風潮を知るのがいつも少し遅れてしまって」
「まあ、当事者の姉に何もかも言える人は少ないでしょうからね。僕のように無神経でなければ、できないことです」
「いいえ、マグナード様は誰よりも気遣いができる人だと思います」
「それは買い被りですよ……何はともあれ、何も起こらなければいいのですがね」
それだけ言ってマグナード様は、視線を教室の外に向けた。
何名かの生徒が、教室に入ろうとしている。つまりこれ以上彼とこの話をすることは、できないようだ。
◇◇◇
マグナード様から話を聞いた私は、何かしらの対策を立てる必要があると思っていた。
エムリーが何かしらの陰謀を企てていることは明らかだ。私はどうにか、それを止めなければならない。
「ロダルト様、話とは一体なんですか?」
そんな私は、放課後に婚約者であるロダルト様に呼び出されていた。
婚約者であるため、そういうことは今までもあった。ただ今日は、いつものような穏やかな話し合いという訳ではなさそうである。
その根拠となるのは、ロダルト様の表情だ。その真剣な表情が物語っている。
「イルリア、実は君に伝えたいことがあるんだ」
「伝えたいこと……はい、なんですか?」
「君の妹のことだ」
ロダルト様の言葉に、私は少し驚いた。
私は朝にも同じような言葉を聞いていたからだ。
もしかして、彼もマグナード様と同じように状況に気付いてくれたということだろうか。それは私としてはありがたいことではある。
「婚約破棄されたらしいね。それも彼女に落ち度はなかったというのに」
「え、ええ……」
私はロダルト様に対してぎこちなく頷くことしかできなかった。
実際の所、エムリーに非は恐らくなかったはずだ。その面だけ考えると、アルバルト様はひどい人だ。
しかし逆に言えば、それでも彼は婚約破棄を選択したのである。非難されるリスクよりも、エムリーを妻と迎えることが不利益であると思った。思えばそれは、すごいことである。
「正直に言おう。僕はエムリー嬢のことが可哀想だと思っている」
「可哀想……まあ、そう思うのも当然だとは思います」
ロダルト様は、純粋な人だ。
エムリーのことを聞いて、本当に同情しているのだろう。マグナード様のように疑念を覚えた訳ではないのかもしれない。
まあ、それならそれでもいいだろう。善人にであることに文句をつけたりはしない。
「ただでさえ彼女は、ルヴィード子爵家でも立場が弱いというのに……」
「うん?」
ロダルト様が言っていることは、少しおかしい。
エムリーのことが可哀想だと思うのはいいのだが、その後の言葉は私にとって意味がわからないものである。
「ロダルト様、何を言っているのですか?」
「そんなエムリー嬢のためにも、僕はできることをしたいと思っている」
「ロダルト様?」
私は思わず、眉をひそめてしまった。
ロダルト様の向かっている方向が、なんだかおかしい。
「僕はエムリー嬢と婚約しようと思っている」
「な、なんですって?」
ロダルト様の言葉に、私は固まることになった。
彼は何を言っているのだろうか。正気であるとは思えない。まさかあのエムリーが、何かを仕掛けたということだろうか。
「ロダルト様、あなたは自分が何を言っているのかわかっているのですか?」
「僕はエムリー嬢を救いたいんだ」
私の言葉に対して、ロダルト様は少し語気を強めて返答をしてきた。
その言葉から察するに、彼の決意は固いということだろう。
「故に君との婚約に関しては、破棄させてもらうことになる。ただ、エムリーはルヴィード子爵家の人間だ。故に両家の間に交わされた婚約がそこまで変化するという訳ではない。相手が変わるだけだからね」
「相手が変わるだけ、なんて……そんな簡単に言わないでください。それが大事であるということを、あなたは理解していません」
ロダルト様の言葉に、私はゆっくりと首を横に振る。
婚約破棄されたエムリーを救いたい。流れとして、そこまでは理解できる。
しかしそれでどうして、エムリーと婚約するということになるのだろうか。それは色々な前提を覆し過ぎている。
「お姉様、往生際が悪いですよ」
「……え?」
そんな私に、声をかけてくる人がいた。
その声は、何度も聞いている。私にとって、もっとも聞きたくない声だ。
「エムリー……」
「ふふっ……」
私の妹、エムリーはゆっくりと私の前に現れた。
その表情は、歪んでいる。なんとも楽しそうな、私を見下した笑みを浮かべている。
やはり今回の件も、この妹が裏で手を引いていたということだろうか。私はまたしても、この妹にしてやられてしまったのかもしれない。
「ロダルト様は、私のことを選んでくれたのです。お姉様ではなく、この私を!」
エムリーが嬉々として、私を煽ってきた。
それを私は、黙って受け入れることしかできない。最早ロダルト様の考えを変えることはできないだろう。この場において、優位に立っているのはこの妹だ。
しかし、この妹が出張ってきたということは、ロダルト様が乱心しているという訳ではないということだろう。
彼は恐らく、エムリーと何かしらの取引を交わしたのだ。そうでなければ、こんな風に考えを変えるなんてあり得ない。
「なるほど……同情を煽っていたのは、この時の布石ということなのね」
「ふふ、まあ間違ってはいませんが、正確ではありませんね」
「なんですって?」
「今回の件は、ロダルト様から言ってくれたことです。正直な所、私にとっても予想外のことだったのですよ」
私の考えは、一瞬でエムリーに否定されてしまった。
彼女が本当のことを言っているかは定かではないが、もしも本当だとすると、ロダルト様が乱心したということになる。
私はひどく混乱することになった。一体私の婚約者は、どうしてしまったのだろうか。




