9話 僕の隣に座らないでください #見るセックス
まだ壊れていない時間の中、
罪を作ってしまった無垢な少年。
ゆーきの地獄は――この瞬間に始まった。
どうか、読んでみてください。
「図書館の指先」第1話、スカートに触れる3分前の全記録。
梨花……君は、僕の隣に座らないでくれ。
君がそこにいるだけで、僕はどうしようもなく狂ってしまう。
君の横顔。猫毛の一房が、ほほの先でふわりと揺れる。
ただ、それだけのことで、肌が泡立ち、理性が空気のように揺らいで消えていく——
これは、僕が“触れてしまう”までの、わずか3分間の物語。
─────
図書館の空気は、いつもと変わらなかった。
エアコンの音すら、背景の静けさに溶け込んでいる。
けれど、君の猫毛の一房だけが、そこにだけ“風”を作っていた。
陽射しのなかで、光をすくい、細い糸のようにゆっくり流れる。
梨花がこちらを向いて、笑った。
──
その笑顔は、「おはよう」って言ってくれた朝の、あの顔と同じだった。
他の誰に向けるときよりも、少しだけやわらかくて。
音の粒が丸く、声の角が、僕にだけ優しかった気がする。
それだけで、僕の一日は、全部うまくいくような気がしていた。
(どうして、こんなに惹かれてしまうんだろう)
なぜ、そんなに無防備に笑うんだい?
なぜ、その笑顔だけに、心が軋むんだろう。
視線が、もう逸らせなくなっていた。
──
そう、君の視線は、いつも僕を捕まえる。
普段の僕なら、誰かとすれ違うとき、そっと目線を伏せる。
でも、今日は違った。
君がそこに立っていたとき、見てしまったんだ。
目が合いそうになって、思わずそらしそうになったけど、そらしたくなかった。
君はちらっと僕を見て、目を戻して……それから、もう一度だけこちらを見た。
そして、ニコって笑った。
それだけで、僕は幸せだった。
──
ずっと前から、分かっていた。君が好き……なんだと思う。
何度も、思い浮かべて過ごした夜があった。
でも、今日のこの感情は、もっと静かで、もっと深い。
どうしてだろう。
君がノートをめくる、その指先。
ページがふわりと浮き上がる瞬間に、僕の心臓が跳ねた。
ただの動作だ。何百回も見たはずなのに、今日は違って見えた。
髪の一房が頬に触れそうになって、君がそれを避けるように首を傾ける。
そのとき、首筋に浮かんだ汗が、光を弾いて僕の世界を撃ち抜いた。
僕は、“見ている”。いや、“見てしまっている”。
目を逸らそうとしても、もう遅かった。
目も、心も、君に吸い込まれていく。
遠くから眺めていただけだったのに、
今は、君の隣に座って、髪の香りの輪郭が想像できる距離にいて、
僕のなかで、何かが静かに、確実に、軋み始める。
もっと知りたい。もっと近づきたい。
でも、ダメなんだ。僕なんかが、近づいては。
もう──呑まれ始めていた。
■ 梨花、君は美しい
梨花は目線をノートに戻して真剣な表情で書いている。
僕は見ていないふりをしながらも、視線はわずかにずれる。
ページの白から、梨花のスカートの紺に、そしてその下にある輪郭に。
梨花の笑顔を見たせいで、どうしょうもない気持ちが湧いてくる。
君に、近づきたい……
どうして、そんなふうに瞳で惹きつけるんだ。
君が瞬きを1つするだけで、僕はもう、じっとしてられない。
君がわずかに揺れ動くだけで、僕の空虚な妄想が脳裏に走る……
「……ッ」
変な声が漏れた。
指先が熱い。机の上のペンが汗ばんで滑る。
まだ、まだ何もしていない。
けれど、脳がもう、彼女の皮膚の温度を記憶し始めていた。
君の匂い……
いや、少し離れたところに座る君の匂いは届かない。
だからこそ、少しでいい。近づきたい。
僕の意識は、どんどんと梨花に沈みこんで行く――
いや、ダメだ。
僕の目線が動くだけで、君は気がついてしまうだろう。
けれど、君がほんの少し身じろぎするたび、胸のすき間がわずかに揺れる……
……あぁ、止められない。
止まらなければいけないのに、覗けと言う声がどんどんと大きくなる――
……少し冷静になろう
静かな空調。漂う冷たい風。そして時計の針が刻む音。
──今なら、誰も見ていない。
そう囁いたのは、他でもない僕自身だった。
──
梨花は、シャーペンの持ち方が少し独特だった。
中指に力が入りすぎていて、爪の先が白く染まっている。
その指先は、触れることのできない神聖な光のように思えた。
その手で、文字を刻み、紙をめくる。
ただそれだけの動作すべてが、美しかった。
触れることのできない柔らかさが、宿っていた。
ノートの左ページには、びっしりとメモが書かれていて、
右側には少しだけ余白があった。
そこには、“考える痕跡”が残っていた。
途中で途切れた単語、書き直された式、
そして、ときおり見つかる小さな落書き。
その落書きの中に、僕の横顔が描かれていればいいのに。
そんな、不確かさにすがりたくなるノートだった。
──
君がその小さな指で髪をかき上げる前に、僕は一瞬でそれを察知して、見る準備をしてしまう。
僕の心の水面が揺れ始め、少しヒヤリとするだろう指先の温度に、僕の体温は少しづつ上がっていく。
血の流れる勢い、身体に走るその熱が、どうしょうもなく僕を掻き立てる。
その小さな熱い手の平が、僕の耳に触れたらと思うと、君への思いが溢れて止まらない……
その手の平の皺さえもが、かわいらしく思える。
思い出す。プリントを渡すとき、ちょっと手が重なったあのときの痺れ。
ほんの少し、君の指が遅れて僕を離してくれた気がした。
紙越しの熱が少し、僕の指先に移った気がした。
(どうして……梨花の指はこんなに美しいんだろう……)
──
君の腕がわずかに上がったその瞬間、
僕の視線は、君の脇の下に、
半袖シャツから覗くその隙間に、
引き寄せられようとする……
いや、ダメだ。見てはいけない。
僕は急いで目を閉じる。
でも、少しで良い……君を感じたい。
僕は目を閉じながら目線を調整して瞬きをする……
(あぁ、綺麗だ……)
脇だ。
なぜ、脇なんだ。
そんな場所に、神が宿っているとでもいうのか。
君が腕を動かすたびに、僕は試練を課されている。
僕は何度、自分に打ち克てばいいんだ……
……もう、どうしても視線をそらすことができない。
その柔らかな窪みの中に、何かがいる。
許されざるもの。触れてはいけない真理。
そこから、目を反らさずにはいられない、あの温度。
──
なにを考えているんだ。脇じゃないだろ。
脇を見ていると思われたら終わりだ。
でも、腕を下ろしたときに、脇の付け根に袖の食い込んだ。
小さな窪みに視線が落ちる。
届かないはずの匂いが……湿度とともに僕の頬をなでる。
(どうして……どうして、そんなところを見てしまうんだ……)
そして、脇の後ろ、二の腕と背中が合わさって、
少しだけ山になったかのような曲線、
その柔らかな肌のうねりが僕の視線を離さない……
どれだけ柔らかいのだろう。
あの山に顔を埋めたい……
心臓の鼓動が強くなり、僕はじっとりとした汗をかきはじめた
──
梨花の肩をみて思い出す。
梨花が笑った時に一度だけ、僕の肩を叩いたことを。
クラスで誰かがふざけて笑いが起きたとき、
梨花が「うけるね、それ」と言って、
ぽん、と僕の肩を叩いた。
ただそれだけのことなのに、
まるで「君と笑いたい」というメッセージに思えて、
僕の肩の感触だけが、いつまでも熱を帯びていた。
──
そのとき――
隣で勉強する梨花と肘と肘の先がちょっと触れた。
(あっ……)
でも、すぐには腕を引かなかった。
梨花も気が付いていないのか、気にしていないようだった。
触れ合う肌が、温かかった……
──
2人で並んで歩くとき、梨花はいつも僕の左側を歩いた。
君はカバンを左手で持つ。僕は右手で持つ。
それが、たまたまじゃなくて、自然な形のように思えた。
それが、嬉しかった。
間違いじゃないよね。
君が僕の位置を考えているってことが。
もしかしたら、ほんの少しでも、
近づきたいって、思ってくれているのかな。
そんなふうに思えるだけで、僕の心は、
もうどうしようもなく揺れてしまうんだ。
■ ダメな僕
僕は真剣に考える君を見守るふりをして、
視線を脇からそらす。
そうして──君の横顔を、あらためて見つめてしまった。
君が、僕の隣にいる。
それだけで、空気が熱を帯びる。
目の奥がじわりと疼いて、喉が渇く。
でも、水を飲んでも癒えない。
これは──恋だ。
ずっと見ないふりをしてきた。
でも今、ようやく認める。
(君のことが、こんなに好きだったんだ)
胸の奥で、鈍く甘い鼓動が跳ねる。
それは、身を焼く痛みを伴う畏れでもあった。
それまではただの憧れだった。
視線。匂い。肌の色。笑顔。
全てが崇高なような、触れてはならない美しさだった。
でも、今はちがう。
意識してしまったその瞬間に、
君の焼けた腕の肌が、さっきとは変わった。
甘くぶつかっただけの腕が、今度は僕を、狂わせに来た。
触れたい、いや、触れなくてもいい。
温度を感じることができれば。
そう思うと、また肘が当たればいいのにと、少し肘を張り出してしまう。
喉仏がひとつ、震える。
胸の内に走るピリピリした焦熱が、
意識という境界を浸食し始めていた。
(あとちょっと……あっ……)
梨花がこちらをチラッと見た気がした。
それだけのことで、僕は腕を元に戻してしまった。
ダメだ。冷静になれ。暴走している。
……見るだけ。ほんの少し。見るだけなら、大丈夫。
でも──見始めてしまったら、もう止まらなかった。
視界が、君の顔に吸い寄せられていく。
目頭の窪みに涙がすこし滲んでいる。
そこから睫毛一本一本を数えるように、
少し不揃いなまつげ、まつ毛の隙間に見える瞼。
マスカラで整えられたその影が瞬くたび、空気が波打つ。
まつげが、風のように僕を撫でる。
――ふふ。この前、梨花は教室でまつげに鉛筆がのるか試していたよね…
あのときは、離れた席から眺めていたのに──
その目尻がわずかに動いた。
ただそれだけで、世界が音をなくす。
──あの目で、他の誰でもない、僕を見てくれた日があった。
たった1秒。他の誰より長く、君が僕を見てくれた気がした。
それが、僕の世界のはじまりだったのかもしれない──
目じりから頬へ、肌が見える。
メイクのない、生の質感。
熱で湿った額からこめかみへ、白から薄紅、
血管の青がうっすら浮かぶ。
産毛が、光を集めて柔らかく波打つ。
処理されていないその毛に、梨花の命を感じる。
(あぁ、焼きつけたい。この全てを)
皮膚という聖域を、視線で舐めて、脳裏に刻みつけたい。
かきあげた髪の奥、耳の輪郭が姿をあらわにする。
耳殻が淡く光に透けて、耳たぶはわずかに紅潮していた。
(触りたい。きっと、柔かくて、少しヒヤっとするんだろう)
耳の裏を見てみたい。君が見ることができない、僕が知っている梨花。
後ろから抱きしめて、耳の裏側に唇を寄せたら──想像が、脳の一部を焼いた。
たったそれだけで、僕は息を止めていた。
まばたきも、できない。
君の耳は、なぜこんなにも美しいんだろう。
耳輪の黄金比。その陰影。
耳切痕が、囁く。僕を誘うように。
(おいで……見ていいよって、言ってる……)
――学校で、君が誰かと話す時、なぜかいつも
少し、僕の方へ首を傾けている気がする。
他の人と笑っている君は自由で、楽しそうで。
でも、その横顔が、誰にも気づかれない角度で
ほんの少し、僕の方へ向いている。
気のせいだ。でも、気のせいじゃないかもしれない――
梨花のくしゃみで、僕は現実に戻された。
そして、また惹きこまれる。
君の唇──赤すぎず、薄すぎない、潤んだ桃色。
滑らかな君の肌のなかで、唯一崩れた、その皺が、
僕を魅了して縫いとめる。
どうして現実の君はこんなに触れがたいんだ。
目を閉じれば、妄想の中では、君は笑っている。
「どうしたの?」と、唇の端を少しだけあげて。
でも現実の君は、
教科書に目を落としたまま、何も言わない。
……皺だけが、そこにある。
――思い出す。
話しかけてくれる直前の、あの口元の動き。
ほんのちょっとだけ──片方の端が持ち上がって。
(あれ……今、笑顔を隠した……?)
たったそれだけで、今日の全てが救われたような気がした。
でも、それが気のせいだったら、どうしよう──
梨花の顔が少しだけこっちを向いた。
その角度で──ほんの少しだけ鼻の穴が覗く。
(あの奥は、どんな世界だろう……)
バカだ。わかってる。でも、見てみたい。その鼻の奥を。
無防備な肉体の孔すら、愛しいと思ってしまう自分がいる。
……もし、僕の気持ちがバレたら、どうなるんだろう。
こんな僕が隣にいると知ったら、君は気持ち悪いと思うだろう。
逃げて、離れていくんだろう……バレたらお終いだ。
そう思いながら、僕は横目で鼻の穴を見ていた。
ふと、唇の端を噛んだような表情になって、
君の白い歯がのぞく。
歯茎の根元。淡いピンク。
そのすぐ付け根に、くすんだ赤。
それはまるで、触れてはいけない秘部だった。
キスをしたら、どんな味がするのか。
甘い?いや、苦くあってほしいかもしれない。
花の香り?いや、カレーの匂いだっていい。
だって、そのほうが──
“君が、ちゃんと人間だ”って思えるから。
――君の口。たまに僕の言葉をオウム返しするよね。
「それ面白いね」って言ってくれたあと、
同じ言葉を、少し遅れて口にして。
一度覚えた言葉を、何日も繰り返す。
(僕の言葉が君に移った……好き……なの?)
そのときの僕は、世界で一番、幸福で、痛かった──
教科書をめくる手が止まる。
梨花はいつもの癖で、唇を少しすぼめて考え出した。
その瞬間、世界の端が──光った気がした。
息を、呑む。
音にならない吐息を、口の中で殺す。
(……君に、気づかれるかもしれない)
その考えだけで、僕の中で熱が跳ね上がる。
キスをしたあと──
君は、どんな瞳で僕を映すのだろう?
うつむいて、頬を染めて、
照れたように笑ってくれるだろうか。
それとも、もう一度だけ顔を近づけて、
僕の鼻先を舐めて、
「ちょっとしょっぱい」って、無邪気に笑うだろうか。
……そんな妄想の奥に、ふと現実がよぎる。
付き合った僕らは──いったい何を話すんだろう。
たとえば帰り道。
沈黙が訪れたとき、僕はどうしたらいい?
ただ隣にいるだけで、君は退屈してしまわないだろうか?
僕は、君と会う前には、
いつも今日話すトピックをいくつもリストアップしていた。
“面白い人”って、思ってもらいたかった。
たった数分の会話でも、全部、準備していた。
……でも、毎日隣にいたら?
毎日、僕は君を笑わせ続けられるのかな。
(……無理だ。僕は、君を幸せにできない)
だから──
鼻先に浮かぶ君の笑顔が、
まるで夢の中のもののように感じられて、
僕はそれを見つめながら、泣きたいような気持ちになる。
■夢
昨日の夢が、まだ脳裏に残っている。
梨花──
君は夢の中で、いつものように隣に座っていた。
でも、その君が、不意に僕の膝に身体を預けてきたんだ。
しなだれるように寄りかかり、君の髪が肩から滑り落ち、僕の頬に触れた。
微かな甘さ。夏の午後、図書館の紙の匂いにまぎれた、
梨花の、肌から滲む花のような匂い──
汗と香水の合間に生まれた“生の香り”。
それは明確な色情ではなく、
僕に「この子が生きている」という現実を、全身で突きつけてきた。
僕は「ダメだ」と、夢の中で抵抗した。
でも君は妖艶な笑みを浮かべて、僕の膝の上にのってきた。
梨花の体重は、夢のくせに、あまりにも具体的だった。
柔らかさ。温度。重さ。
その全てが、僕の太腿を押し潰してくる。
僕は反射的に身体をのけぞらせた。いけない……
けれど、息がかかるほどの距離、頬と頬の温度が交差する。
柔らかいものが、僕の胸元に、広がる感触。
それがただの脂肪の感触ではなく、
彼女の時間、彼女の存在そのものだったように思えた。
僕の両手が君にぎゅっと握られたとき、
僕の体温が一気に上昇し、僕はもう狂っていた…
「……ふふ……」
梨花がそう、真っ赤な唇から、声を漏らした気がした。
僕を見上げるその目は、いつも通りの瞳だったけど、
でもその奥に、何か柔らかくて、許されてはいけない何かが灯っていた。
君の顔が近づいてくる。唇が……寄ってくる。
自分の気持ちに抗うことはできなかった。
僕は、君のくちびるに、自分の唇を重ねた。
2人の距離が、ゼロになったその瞬間──目が覚めた。
目が覚めたとき、胸の奥は灼けるように熱くて、心臓は雷のように脈打っていた。
息を吸い込んでも、呼吸が荒くて、肺がうまく動かない気がした。
僕は……梨花にキスをしたんだ。夢の中で。
でも──その感触が、あまりにも本物すぎて、
僕の唇が、まだ彼女の味を覚えているようだった。
……あれは夢。だけど、本当に夢だったのか?
あまりにも、生々しかった。体温も、目に差す蛍光灯も、ねばつくような空気もリアルだった。
全身の熱が、まだ夢の続きを欲していた。
僕の心が、彼女をあれほど求めていたから見た夢なのか。
それとも……梨花も、同じ夢を見ていたのだろうか?
彼女が、僕の夢の中に来ていたのか。僕が彼女の夢に忍び込んだのか。
そんなはずない。
でも、もし──
もしそれが現実ならばと願わずにはいられない。
身体の中の熱は、一晩経っても消えなかった。
“未遂の口づけ”が、ずっとそこに残っていた。
■衝動
梨花が間違えた文字を消す動作。
消しゴムの屑が舞う軌跡が、ゆーきの視界に残像として焼き付いた。
「……触れたい」
僕の中の声が、そう呟いた瞬間、指先が熱を帯びた。
梨花の肌が、すぐそこにある。
距離にすれば数十センチ。けれど感覚としては、もう僕の皮膚に何かが“伝わってきて”いた。
こんなことを願ってしまった僕は、最低だ。
梨花の優しさに付け込んで、夢の中でさえ彼女を汚した。
彼女に触れたその場所すべてが、
僕の体の中で「黒く、温かく、疼いている」。
これが欲だったのか、愛だったのか。
どちらにしても、僕はきっと──彼女を幸せにはできない。
そんな僕が、夢の中でさえ彼女を求めてしまったことが、
自分で自分を殺したくなるほど、恥ずかしかった。
「これは恋じゃない」
「これは性欲だ」
彼女を汚してはいけない……
でも、唇の先に、まだ風が吹いている気がした。
果たされなかった“未遂の口づけ”が、まだそこに残っている。
あれは夢だったのか?
君も、同じ気持ちだったんじゃないか?
いや、違う。そんなはずない。
でも、もし。もしも、もしもそれが──
梨花……
夢の中で交わりかけた呼吸の記憶が、喉奥を焼いた。
──
君が教科書を覗き込むその隙に、
僕は君のうなじに視線を投げかける。
産毛が、光を微かに反射していた。
産毛と肌のコントラスト。
産毛の陰できらめく、ひと粒の汗が、僕の視線に光を返してくる。
君はそれを知らない。
どうして君のうなじは、こんなにも無防備なんだ。
君がどれだけ、完璧に“自然”として美しいかを──君はきっと、知らない。
僕は、ただ、覚えていたい。
肌の上の陰影、毛細血管の走るリズム、そのすべてが、君だった。
触れてはいけない。
でも、視線だけは、君に触れていた。
──
喉仏のない、すっきりした首筋が目に飛び込んできた。
ふと彼女が、小さく咳払いをした。
言葉を発する前の、喉の“準備運動”。
息を吸い、声帯が震えるその一瞬、
少女の喉がこんなにも繊細に動くのかと、僕は息を呑んだ。
──
梨花が少し前のめりにノートを覗き込んだとき、
彼女の呼吸の気配が、僕のほうに流れてきた。
風ではなかった。空調の音でもなかった。
肌にふれるほどかすかな吐息。
一拍おいて、それが“梨花のもの”だと気づいた瞬間、
僕の喉奥が急に乾き出した。
呼吸が空気を伝って、僕の皮膚をかすめた──
それだけで、世界の密度が変わった。
図書館の空気と、梨花の吐いた息と混ざり合う。
神聖なような、不浄なような、その湿った生の感触を、
僕は静かに胸に吸い込んだ。彼女を吸い込んだ気がした。
──
僕はいつものようにツバを飲み込めなくなる。
目を逸らす。息を整える。
喉が閉じて、痙攣する。音が鳴る。
「ゴクッ」
空気を飲んだだけなのに、音が響く。
君は何も言わない。気づいていない、はずだ。
でも、君の耳がほんの少しだけ赤く見えるのは──気のせいだろうか?
(……視られていた……?)
一瞬、そんな可能性が脳裏を掠める。
もし、彼女がすべて知っていたとしたら。
この視線も、この呼吸も、この熱も。
知っていながら、今もこうして隣にいてくれるとしたら──
それは、どんな奇跡だろう。
──
君が前屈みになったとき、肩から流れるラインに、僕の視線は引き寄せられる。
ダメだ。絶対に見てはダメだ。
――見なかったぶん、嗅覚が暴走を始めた。
ほんのわずか、ほんの斜めの角度から、
鎖骨と、そのそばにある隙間が、視界の端に滑り込んでくる。
そこからふわりと、透明な香りが立ち上ってきた。
シャンプーの香料でもない。花の匂いでもない。
肌の熱を帯びた──生々しい匂いだった。
それは空気を伝って届いたというよりも、
僕の鼻腔の奥、嗅覚の中枢をじんわり濡らすように広がっていった。
柔らかいけれど、決して甘すぎず、そして、ちょっと汗の匂い。
生臭さが、吸い込まずにはいられなかった。胸が高鳴る、“生の香り”。
この香りは、脳が恋に落ちる前にだけ分泌される幻覚物質なのかもしれない。
……これは、夢の続きだ。あのとき嗅いだ「梨花が生きている」という香り――
僕はただ、目を閉じて、その香りに包まれた。
嗅いではいけない。吸い込んではいけない。
でも、吸い込んでしまったあとでは、もう遅かった。
梨花の匂いは、僕の脳に直接記憶された。
たった一滴で、全身の倫理回路を溶かす酸のように。
──そんな僕を、社会はきっと“気持ち悪い”と言うんだろう。
でも、どうしてこんなにも美しい感情に名前がないのだろう。
これは性欲かもしれない。
でも、性の漢字から心を取ったら生欲だ。
生きてる。心を添わせて。それが性なら、僕は性欲が恋でも構わない。
■ 僕の中の梨花
まるで君の意図を感じて、体温が上がってしまったような──そんな、僕に都合のいい妄想をする。
「好きだ」
そう、声にならない声でつぶやいたとき、世界がひっくり返った。
今まで感じたことのない気持ちがあふれてきて、心臓が早鐘を打ち始めた。
それまで“見ているだけ”でよかった。
遠くから笑顔を見ているだけでよかった。
声が聞こえるだけで、嬉しかった。
でも──「好きだ」と思ってしまった瞬間、
それだけじゃ足りなくなった。
好きだけじゃなかった。欲でもなかった。
でも良く分からないドロドロした感情が僕を突き動かした。
それは綺麗なだけじゃない、でも、好きの形だった。
隣に君がいる。
静かな図書館の空気。
時計の秒針がひとつ、カチリと音を立てる。
君が僕を誘うからいけないんだ……
僕の視界に、君の肩がある。
その小さな盛り上がりが、制服の皺をわずかに変化させるたび、心臓がどくりと打つ。
どうして、第2ボタンまで開けているんだい……
どうして、そんなに脚を出しているんだい……
どうして、いい匂いを振りまいているんだい…
どうして、僕に笑顔をくれるんだい……
何度、目を逸らそうとしても、君が引き付ける。
何度我慢しても、何度諦めようとしても、いつも、いつも君がやさしく声をかけてくる。
君の“存在”が、音も、匂いも、全てが僕の決意をぐちゃぐちゃにする。
見ていないふりをしている。
だけど、僕は知っている。君の左手が今、膝の上にあることを。
そして、その指が、少しずつ、何かを探るように動いていることを――
――そうだ、梨花はたまに、僕の椅子に座っているじゃないか。
ほんの少し、ノートを取るときや、休み時間のほんの数分に。
彼女は僕の椅子に腰をかける。何気ない顔で、ちょこんと。
でもそのたび、僕は尻から彼女の体温が伝わってくるのを感じていた。
彼女が臭いを落としていったことが、僕の心を焦がして焼き付けてくる。
胸の奥がざわついて、鈍い、チクチクする痛みが走る──
どうしてこんなに僕だけが苦しいんだ……
いや、君も苦しいのか?その笑顔で……隠しているのか……?
──
梨花が脚を組み替える。テーブルの下で。
また見せてきた。
君が脚を組むその動き、テーブルの下でわずかにスカートから覗くわずかな太もも。
右膝にのった太ももの形が崩れたその曲線が、君の肌の柔らかさをまざまざと僕に見せつける。
ももの裏の血管の青い筋が、その見えないはずの鼓動さえも、僕の心を湧き立てる。
静かな図書館の中で、その布の波紋が、僕の網膜に焼きついた。
その脚を広げたら……僕は考え込む振りをして目を閉じ、その先を妄想する。
君の指先の触れられない温度を思い返しながら、僕は脳内で君の脚を広げていく。
君はどんな表情をするのだろう。頬を赤らめて、顔をそらしながらも、
ゆっくりを脚を広げるのを手伝ってくれるのだろうか……
目を閉じているのに、光の色がわかる気がした。
脚の奥、布地の色。
それは視覚ではなく、記憶でもなく、
“祈りの形をした空想”だった。
君の頬が赤らむ妄想に、僕は“脚を広げる”という動作の重さを、初めて知った。
うまく息ができない。僕は妄想の中に君にどんどんと捕らわれていく。
──
「だめだ、こんなこと……」
君は優しい。君は綺麗だ。
僕は、君を……汚したくなんてないのに。
なのに──手が勝手に熱を持ち始める。
君の指先が動くたびに、その反動で髪が揺れる。
一房の髪が、耳の後ろからこぼれ、肩に触れる。
その瞬間、僕の脳内で電流のようなものが走る。
「こんなこと、考えるなんて……最低だ」
自己嫌悪が、波のように押し寄せてくる。
僕は君を……言葉にならない思いがあふれてくる。
それは清らかなものではなく、ドロドロがまざった何かだ。
綺麗にしたいのに、どうしても混ざってしまう。
触れたい気持ちと、触れてはいけない理性のあいだで、僕の身体は壊れかけている。
好きだけじゃなかった。欲でもなかった。でも良く分からない感情が僕を壊した。
性欲だって構わない。それが生きているってことだから――
時が止まった。
鼓動の音すら、どこか遠くへ消えていった。
―――ことり。
気がついた時には、彼女のスカートに手が触れていた。
あの瞬間に、僕は“自分”を手放した。
それは恋だったのか、衝動だったのか、欲望だったのか、
あるいはすべてだったのかもしれない。
でも今なら、言える。
―――あれが、僕の「恋」だった。
次回 #ゆーきの地獄
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