6話 梨花の落ちる日 #DMの男
◇6-1.ゆだねた夜
あと3日で、夏休みに入る。
──あと3日で、もう、ゆーきに会えなくなるかもしれない。
それなのに、LINEは、今日も鳴らない。
寝ても、覚めても、
この部屋には"ゆーきの手"が残っていた。
私の太ももに触れたあの指先。
紙のように柔らかくて、でもナイフのように鋭かった。
ただの衝動だったのかもしれない。
それでもいい。身体は、それを"望んでいた"。
(どうして……こんな、息が詰まるほど欲しくなるの?)
スマホを枕元に置いたまま、顔をそむける。
(……来ない。来てくれない。ゆーき、来ない)
(もう嫌い。どうして何もしてくれないの)
(このままじゃ……だめ)
◇
脚を閉じたまま、布団の中で丸くなる。
でも、中心が熱をもって、じりじりと疼く。
くやしくて、かなしくて、自分の指先を見つめる。
この指が、もしも別の誰かの指だったら。
そんな妄想にすがって、
────目を閉じた。
脳裏に焼きついた、図書館の光景。彼の無言。
リボンにふれたときの手の温度。
身体の奥が火を持って、少女の心を内側から溶かしていく。
「…ゆーき」
彼の名前を呼ぶと、指先に残る感触が、
自分のものなのか、彼のものなのか、わからなくなった。
ゆーきの手が──私の指に、重なってくる。
熱が、奥から、じんわりと、ゆっくり広がっていく。
(……欲しい……わたし……求められたい……)
「…ゆーき、ゆーき…」
(こんなふうにしたの、ゆーきだよ……)
(なんで、置き去りにするの……)
泣きながら、自分を抱きしめる以外にできることはなかった。
(……最低だよ。ゆーき、最低)
(私……あのとき、拒まなかったじゃん)
(ゆーき……来てよ……私がここにいるのに)
何も言わずに逃げたあの背中、何度も、頭の中で繰り返す。
(こんな自分、気持ち悪い)
指が、自分の肌に触れるたびに自分を責めてしまう。
(でも、これが"正しい"んでしょ)
……別の声を投げかける自分もそこにいた。
どうして涙が出るのか、分からなかった。
触れられて、気持ちよかったはずなのに、嬉しかったはずなのに、
でも、心は、ずっと冷たいままだった。
(ゆーきがウチに触れたのは……ウチが"女"だからでしょ)
(ゆーきが"女"に触れたなら──なら、ウチは"女"にならなきゃ……)
このままだと、きっと、もう二度と会えない気がした。
笑いあった日々は、過去になった。
ウチの時間は進まなくなった。
(……ウチ、もう"普通の女の子"じゃいられない)
彼の目の奥にあったもの。
それは恋じゃなかった。愛なんかじゃない。
もっと、ドロドロしたものだった。
"女"だから、彼は手を伸ばしたんだ。
(ウチが"普通の女の子"だったから、後悔して、去ったんだ……)
──部屋は、暗くて静かだった。
ふと、鏡に映る自分を見た瞬間だった。
(……誰、これ?)
湿った前髪、潤んだ目、濡れた唇。
それは──欲望に歪んだ、女の顔だった。
こんな顔、ウチじゃない。
でも──そうだ。きっと、ゆーきはこの顔に手を伸ばした。
……そう思うと、心の奥からふつふつと、こみ上げてくる何かがあった。
(あのとき──黙って脚を開いたウチは、確かに"女"だった)
(ああ……ウチ、もう、何も考えたくない……)
目の奥が熱くなり涙が止まらない。
肌の奥がひりついて、脚が勝手に、シーツの上で震えた。
さっきまでの自分が、なにかに──乗っ取られていく。
──その瞬間。
言葉にならない叫びが喉を突いて溢れた。
ゆるく膨らんだ熱が、急に破裂したみたいに、
脚の付け根が痙攣して、
頭の奥が、真っ白になって──
恥ずかしい。気持ち悪い。
でも、震えが止まらなかった。止めたくなかった。
壊れていく自分が、たまらなく愛おしい……
奥に潜んでいた女が──目を覚ました。
次に目を開けたとき、
部屋の天井は静かで、白かった。
全身が汗で湿っていて、息はまだ整っていなかった。
汗ばんだシャツを脱いで、裸になった。
(……やった。ワタシ、やっと──"女"になった)
そう思った。でもその直後、どうしようもなく、寂しくなった。
みんなとつるんで、リア充として生きてきたのに。
本当はなにも、手に入ってない。
(もう、少女はやめた。ウチ"女"になる)
(……そうすれば、また──)
震える手で布団を引き寄せて、
裸の脚を包み込むようにして、小さく丸まった。
夏休みまであと3日──ゆーきに会いたい。
"女"になったのに、涙が止まらなかった。
「ひとりぼっちのウチ」と、「女になったワタシ」。
どっちが“ほんとの私”なの……
ゆーき……ねぇ、お願い……
誰か、どっちかを、抱きしめてよ……
しばらくして、ようやくまぶたが重くなり、意識がふっと溶けた。
◇ 戦場のメイク
鏡の前で、ワタシは黙って化粧を塗っていた。
厚く。丁寧に。塗り直した。
ベース、ハイライト、チーク、シェーディング。
リップを塗りながら、梨花は鏡の中の顔をじっと見つめた。
まだ笑える仮面をかぶった「ウチ」。でも──目だけが笑っていない。
それは“綺麗になりたい”という願いじゃない。
“これで失敗したら死ぬ”という、執念の呪い。
リップで整えた唇の上に、血のようなルージュを重ねた。
鏡の中で、梨花の口元だけが、異様に鮮やかに見えた。
(今夜、ウチの価値、証明する)
(ウチが“女”じゃなかったせいで、全部壊れたんだから)
脚を開くことが、すべてじゃなかった。
笑って、許してもらおうとした。
泣いて、伝えようとした。
待って、耐えようとした。
でも、どれも「女のやること」じゃない。
(ウチの脚が開いても、その向こうに"心"がなかったから)
(ウチが中途半端だったから──ゆーきは去ったんだ)
(今度は違う。"心"なんていらない。"女"を見せつけてやる)
居場所も、LINEも、自分さえ──ぜんぶ消えた。
……残されたのは、“証明しなきゃ”って思いだけだった。
(ウチ、今日、ちゃんと“女”になる)
(……もう戻れなくなっても、いい)
(ただ、“欲しい”って思われたい──それだけ)
頬を撫でた指先に、血のようなルージュが付く。
赤すぎて、痛すぎて、気持ちよくて、ウチは──思わず微笑んだ。
(……戦場のメイク……だね──男に選ばれる女になる)
ワンピースを着るとき、手が震えていた。
ハイヒールに足を入れたとき、かかとに刺すような痛みが走った。
でも、それすら“女の代償”に思えて心地よかった。
(これは、ワタシの武者震い……)
ワンピースはピンクベージュ。
タイツは膝上、少し高めのヒールは細め。
髪も仕上げて、鏡の中にいたのは「誰かに触れられる準備ができた女」だった。
(ウチ、最高に決まってる……)
スマホを開いて、DMを確認する。
「今日来れる?ひまだったら遊ばない?」
──DMで誘ってきた男は、大学生って名乗ってた。
名前も覚えてなかったけど、ワタシは特に何も考えず返信した。
関係なんかいらない。ただ、証明さえあれば。
梨花は深く呼吸して、スマホをポケットに押し込んだ。
手に持ったバッグは軽かった。中身なんてどうでもよかった。
(この顔、この服、この脚。この全部でダメなら──ウチにはもう、何もない)
◇
狭い個室。焼肉屋の裏のような仄暗い間接照明。
男たちの喧噪。煙草の匂い。油の残るグラス。
居酒屋はうす暗くて賑やかで、誰の顔もはっきりとは見えなかった。
そこでは、男が3人。みんな大人っぽくて、慣れた感じでグラスを傾けていた。
夜の街の熱気が、梨花の戦意を湧き立たせた。
「梨花ちゃん、いいノリしてるね」
「今日マジ華あるわ〜」
「いやマジで高校生に見えないって!」
テンプレみたいな褒め言葉。
でも、ワタシは笑った。声を少し高くして、
足を組み替えながら、タイツ越しの太ももを意識しながら。
(……これなら、楽勝だ)
男の袖口から、ブランドのロゴがチラリと見えた。
梨花はそれを“格”として受け取った
(ワタシ、今“女”を生きてる)
「かわいい」と言われた回数を数えた。
「女」として、肯定されるたびに、快感が全身を駆け抜けた。
◇
グラスを空けるたびに、世界がちょっとずつふわふわになっていく。
笑いながら、気づけば、男に腕を絡めていた。
ワタシは自分から男の膝に脚を乗せた。わざと腕に軽く胸を押し当てて、髪を揺らした。
「なにそれ~エロ~」
誘った。唇をすこしだけ突き出した。
笑って、目を細めて、首筋を差し出した。
でも──
男は、スマホをいじりつづけた。
その視線は一度も梨花に落ちなかった。指先だけが光っていた。
(……あれ……?)
もう一人の男も、視線を滑らせるだけだった。
「飲む?」と聞きながらも、グラス越しの目は、冷たかった。
ただ、氷の入ったグラスだけが、何度もカランと音を立てた。
(……え?)
男たちは目を合わせなかった。
飲み物の氷を揺らす音と、
テレビから流れる野球中継だけが空間を埋めていた。
(……なんで……なんで……)
梨花は、笑った。声を出して、ちょっと大げさに。
でも──膝の上にのせた自分の身体は、ほんの少しだけ震えていた。
(……ねぇ、誰か──触ってよ……)
肩に触れても、笑っても、誰も触れてこなかった。
別の男に見せつけるように、脚を組み替えた。
でも、視線はすぐにテレビへ逸らされた。
──誰も、ワタシを見ていなかった。
(そんなはず、ない……)
さっきまで、街ですれ違う男たちは振り返ってた。
「かわいいね」って、何度も言われた。
“女”になった。この夜だけ
──誰もウチを求めてくれない……
笑顔が固まった。
全身の熱が急速に引き、冷房の風に背筋に寒気が走る。
「ねぇ、ワタシって、どう?」
梨花は、ひりついた喉で、飲みかけのグラスを一口飲んだ。
自分の笑い声が、だんだん金属のきしむ音みたいに響いてくる。
男の反応は、ただの愛想笑いだった。
(──まさか、ウチが“気持ち悪い”ってこと……?)
突然、足下がぐらつく様に、景色が揺れ始めた。
胃から何かが込み上げてきて、唾液が口の中に噴き出してきた。
震える手で、脇に置いていたバッグを取り、笑いながら言った。
「ウチ、トイレ行ってくるね〜。ちょっとだけ」
誰からも……返事はなかった。
◇触れたら終わる女
――トイレ
中に入り、震える指で鏡を見ると、そこには「女のフリをして笑う化け物」がいた。
(……コワイ……)
胃の底からせり上がるものを抑えられなかった。
気づいたら、指が喉に触れていた。胃の中を全部吐いた。
何も出ないのに、吐き続けた。
苦くて、酸っぱくて、喉が焼けても、止まらなかった。
便器に顔を沈めるようにして吐いたあと、
しばらく、床にへたり込んで動けなかった。
(ウチ、気持ち悪いって思われたんじゃない。“怖い”って思われたんだ……)
頬を冷たい水で叩く。
でも、火照った目元だけは冷めなかった。
(ワタシ、“女”じゃなかったんだ……)
(どれだけ脚を見せても、ルージュを塗っても、不気味なだけ……)
鏡の中に映る顔が、笑っていた。
ただ、血のように滲んだ口紅が、唇の端に流れていた。
それが、まるで切り裂かれたように見えた。
(誰もいらない身体は、見えなくなってしまえばいい)
梨花は小さく、声にならない声で口にした。
誰からも、触れられなかった。
誰からも、求められなかった。
“女になれなかった”。
それが、いちばん痛かった。
この身体を──“女”として見てくれる“男”が、どこにもいなかった。
梨花は静かにその場を抜け出した。
帰り道、夏の風が顔を撫でていた。
誰もいないバス停の前で、梨花はしばらく動けなくなった。
スマホを見た。通知も、誰からの連絡もなかった。
でも、もっと恐ろしい沈黙が、画面を覆っていた。
そこには、
“ウチ”はいなかった。
“ワタシ”も、消えていた。
もう“梨花”はどこにも、いなかった。
◇
「今日の女の子、高校生らしいっすよ」
「え?マジで?やばくね?」
「でもイケてる。DMの写真、普通に美人だし、盛れてても20代前半には見える」
男たちは、飲みの予定を軽くLINEで決め、
「高校生だけど、まぁ大丈夫だろ」と笑いながら店に入った。
そういう“ちょっとアウトな遊び”は慣れていた。
最初に現れた梨花を見たときは、正直悪くなかった。
ちょっと派手なメイク、ベビーピンクのワンピ、タイツに厚底。
可愛い。若い。色っぽくしてる努力も見える。
だけど、何か寒気がした。
10分も経たないうちに──
「ねぇ、ワタシの脚、今日ヤバくない?」
そんなセリフを何度も何度も、まるで呪文みたいに繰り返してきた。
こっちが何も言ってないのに、勝手に笑いはじめて、
髪を触って、脚を組み替えるのをわざわざ見せてきて、
飲み物を口元に運ぶとき、喉を撫でるように指を動かして、
隣に座った途端に、太ももに手を置いてきた。
その手の温度が、気持ち悪かった。
「……あ、ありがと。ついでにビールいい?」
返す言葉も曖昧になる。
視線を女の子に合わせないように、
男たちだけで、アイコンタクトを交わす。
(こいつは……関わらない方がいい……)
普通の“ノリのいい子”なら、
ちょっとエロい方が可愛いと思える。
冗談っぽいスキンシップは美味しいスパイスだ。
でも──この女の子は、何も見えていない。
目が……泳いでいる。
笑うタイミングが一瞬ズレている。
「盛り上がってる風」を一人で演じてる。
会話の流れを理解してないのに、間に入りたがる。
ボケたつもりの言葉で、一人で勝手に笑っている。
そして、男を求める仕草の全てが……気味が悪かった。
腕を絡めて、膝の上に勝手に脚を乗せてきたとき、
思わずスマホを見るふりをした。
(これ、触れたら爆発するぞ……)
本当に、何か言ったら、壊れる気がした。
「なんだよ……あの子。ヤバいよ」
「わかんねー。とにかく怖い。誘いに乗ったら呪われそう」
「……動画だけ撮っとくか?」
「あーー、あのレベルの化け物は価値あり」
もう彼女を女として扱っていなかった。
不気味な化け物。壊れた笑顔。
何をされても反応しなかった。真空のような沈黙。
あの笑いは──触れてはいけない“警告”にしか見えなかった。
次回 #動画に映った化け物
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