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17話 やっとの一歩

17話 やっとの一歩


12月23日。乾いた冷たい風が教室の窓をガタガタ鳴らしていた。


朝礼のざわめきが落ち着いても、梨花の席は、夏の終わりと同じ、空白のままだった。名前を呼ばれても返事はない。いつしかその光景に慣れてしまっていた自分に、椅子の背にまだしがみついている彼女の気配に、胸が痛かった。


(どうしてこんなに簡単なことに気が付けなかったんだ……どうして僕は勉強ばかりしていたんだ……)


「梨花……ごめん」


ぼそりと再び呟いた。



***



放課後、僕は職員室に行って担任の山田先生を探した。


「先生……梨花のこと、教えてください……いや、心配っていうか……いや、心配なんです。梨花の家を教えてください」


山田は顔を上げた。表情は相変わらず無表情なままだったが、メガネがギラりと一瞬輝いた。


「ずっと、気になってて。何もできてなくて。でも、今からでも── 迎えに行きます」


山田は、しばらく黙っていた。それから、小さくうなずいた。


「お前……変わったな。春とも、夏とも違う。別人みたいだ……届けてやれ。ちゃんと持って行け」


渡されたのは、彼女の名前が書かれた封筒と、プリントの束。そして、梨花の家の住所と最寄り駅、手書きのザックリとした地図。僕は、学校を飛び出て、そのまま電車に乗った。


もう、ためらわなかった。


降りた駅は、初めて来る町だった。彼女の家を探しながら、地図と景色を重ねていく。


「ここか……」


閑静な住宅街にあるなんてことはない一軒家だった。2階の角部屋にピンクのカーテンが掛かっているのが見える。


(あそこに梨花がいるかもしれない……)


そう思うと、急に胸がざわついて、不安が全身に広がった。胃が持ち上がってきて、吐き気がする。


(何を言えばいいんだ……結局、言葉は見つからないままだ……やっぱり帰ろうか……)


冬の空気がコートの隙間から入り込む。インターホンの前で止まった指先が震える。


(いや、だから、ダメなんだよそれじゃ。理由なんかどうでもいい。梨花に会いたい。それだけでいい。プリントを渡すだけ。それだけでいい)


えいっ


ピ-ンポーン ピ-ンポーン


ピンポンを押した指先は汗で湿っていた。返事を待つわずかな時間。


(誰もいなければいい。そうすればポストにプリントを入れて帰ることもできる……)


(でも、梨花が出てきたら……梨花が出てきたらどんな顔をすれば……)



ガチャリ


(梨花!?)


突然開いた玄関に目を向けると、そこいたのは梨花の母だった。どこか梨花に似ていて、でもそれよりも、キレイな人だった。いや、キレイというか、おばさんなんだけど、梨花よりも強い、鋭くて、でも優しい目をしていた。長く待つ人の顔だと、そう思った。


僕は、頭を下げた。言葉はうまく出てこなかったけど、ただ必死だった。


「あの……梨花に、これを……学校の宿題」


おばさんは、微笑んで、受け取ってくれた。


(これで用件は済んだ……もう帰ってもいいか……どうすれば)


気が付くと……おばさんは、じっと僕を見ていた。僕の言葉を待っている……そう思った。


ゴクリッ


「あの……、勉強を教えてて……梨花は……元気なら、いいんです。でも、梨花は―― いますか」


おばさんは、首を振った。


「ありがとう。梨花は、どこに行ってるのか、私にも分からなくて。でも毎日、綺麗にお化粧して、ちゃんとした服を着て出かけてるから……きっと、どこかで大切な人を待ってるんだと思うのよ」


(待ってる……?)


僕の心が小さく鳴った。


そのまま家の前を辞して、町を歩いた。梨花の姿を探しながら、でも探さずに。ただ風に吹かれながら、記憶の奥をなぞった。


(梨花が待つ場所なんて……そんなの、一つしかないじゃないか)


ゆーきは、ふと顔を上げた。


目の前には── ガラス張りの図書館が、静かに佇んでいた。



◇ ふたりの間に流れるもの


図書館の扉を開けた瞬間、冷たい空気が、胸の奥をひと撫でした。いつかと同じ、午後の光。埃が舞い、ページがめくられ、誰かが息をひそめる。


奥の奥の、あのテーブル。そこには、ひとりの女性が佇んでいた。でも、彼女は、そこに── いなかった。


(……違う、梨花じゃない…)


最初に見たとき、そう思った。


光沢のある黒髪。梨花よりも細い輪郭で、ネイルもピンクのヘアピンもない。日本人形のような女性。


でも、彼女が顔を上げた。ゆっくりと、こちらを見たその瞳の奥に、確かに灯っていた。


(梨花だ)


(どれだけ変わっていても── 間違えようのない、彼女の真剣な眼差し……)


ぼくは、ゆっくりと席に向かった。彼女の隣。あの日と同じ、テーブルの右側の席。


椅子を引く音が、やけに大きく響いた。


梨花は何も言わなかった。

ぼくも何も言わなかった。


静かに、教科書を並べ、ペンを置き、そのまま、手を伸ばす。机の下の彼女の膝のあたりへ。何も言わず、ただ、そっと── スカートの下に指をすべらせた。


梨花は、それを拒まなかった。目を伏せて、ただ息をひとつ吸って、そして、わずかに── 姿勢を変えた。


梨花の動きは、まるでひとつの言葉のようだった。「大丈夫」とか「平気」じゃない。そこには、羞恥も、戸惑いも、逃避も感じない。そこにあるのは「選んだ」という意志と時間の重みだけだった。


ぼくの指先は、彼女の太ももの内側にふれる。リボンの柔らかい結び目。それにふれたとき、梨花は小さく震えた。


(あぁ……これが、彼女の"今"なんだ)



「また── きたね」



梨花は脚を開いた。僕は、手を引いた。


それ以上の言葉はなかった。


僕は図書館を出た。梨花も、立ち上がった。


二人の影は、違う方角に伸びていった。それでも、陽は同じように、静かに彼らを照らしていた。


── 二人の時間は、巻き戻った。

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