15話 東雲と黄昏
◇ 走っていく、どこまでも
梨花を見つけて山田先生に託した後も、梨花のことは気になっていた。けれど、梨花が無事ならそれだけでよかった。自分にできるのはここまでだから。
もう他には何も許されることはないと思った。ただ、毎日を耐えて生きるしかないと、そう思った。それなのに、朝が始まるとともに、徐々に心が重たくなっていった。
「また一つ、魂が檻に閉じ込められたのか……」
僕は、新しい噂が耳に入ってこないように、常に音楽を聴くようにした。クラシック音楽はダメだった。静かな音楽では人の話し声が、ヒソヒソ話が聞こえてしまうし、美しい旋律は、心の闇を照らすようで、痛かった。
煩いような、叫んでいるだけのような、少し古い音楽だけが、安らぎを与えてくれた。
「走っていけ、どこまでも♪」
「そうか……電車に乗って……どこかに行ってしまおうか……」
◇
僕は帰り道に電車に乗って、なんとなく西に向かった。もう一度、あの美しい自然を見たいと思った。目的地もなく、ただ各駅停車を乗りついでいった。知らない場所に、知らない人たち。誰の視線も気にならないし、ただそこに、知らない人たちの営みがあるのが、嬉しかった。
電車のイスが温かくて、音楽の中で眠ってしまった。
「走っていけ、どこまでも♪」
目が覚めて、お腹が空いて降りた駅は山梨市駅だった。そこは、静かな田舎町だった……駅のまわりには、居酒屋が数件とタクシーが走っているだけで、あとは何もないように感じた。
どうすることもできなかったので、とりあえず、居酒屋に入ってみることにした。
「こんばんは……あの……食事はできますか?」
「あら~、学生さんかい?どっこから来たの、こんなところまで。どうぞ、お上がんなさい」
ちょっと敷居が高そうな赤提灯だったけど、女将さんがカウンター席に案内してくれて、赤いストーブが温かく迎えてくれた。
「小僧、どっから来たんだ〜?旅か?旅はええずら〜。おらも昔ゃ、よう旅に出たもんだに」
「おめぇは旅っちゅうより、女のケツばっか追っかけとっただけだら?」
「言うな言うな!」
「「わっはっは!!」」
隣に座っている酔っ払いたちが話しかけてきた。
「東京の方から来ました。特に目的もないんですけど、山がキレイかなって」
「おお〜、そりゃおめぇ、山っちゅったら“ほったらかし温泉”行ってきな!あそこぁ、たまげるぞ」
「お前は混浴がねぇから、つまらん言っとるだけじゃんか」
「だ~から言うなっちゅうに!」
「「わっはっはっは!!」」
酔っ払いたちは楽しそうだ……
「若い子に変なこと言うんじゃないよ~まったく。あそこは朝日がのぼるときがまたええよ。行くとこなかったら、ちっと寄ってごらんよ」
「でもおらぁ、女将の方がキレイだで~♡」
「なに言ってんだい。はいはい、ボトル入れてあげるわ!」
「そりゃないずら~!」
「おでんもおまけだよ!」
「金払うのはおらずら~」
「「わっはっは!」」
軽口の叩き合いに、僕も一緒になって笑ってしまった。ほったらかし温泉か……行ってみよう。
僕は近くの安宿に泊まった。
◇「民宿」
民宿は女将さんが安いところを紹介してくれた。友達だからってすぐに電話してくれて、民宿の親父さんが駅まで迎えに来てくれた。
女将さんはボトルを早く開けに来なさいって怒って笑ってた。
「まったく、悦ちゃん怖いんだから。はっはっは。学生さんだって?何しにきたの?」
「特に目的はないんですけど……山がキレイかなって」
「とにかく旅に出ちゃっちゃった感じだ?たまにいるんだよ君みたいの。そんな時の僕のとっておき、出してあげるよ」
親父さんはそう言って、暗い道を進んでいった。ついた先は、古い平屋の古民家だった。
「ただいま~」
「おかえり~」
奥の方からドタバタと女将さんが小走りで走ってきた。
「いらっしゃい。また若いお客さんだねぇ!どっから来たんだい!?」
またこの質問か……やっぱりちょっと変なのかなぁ。
「東京から来ました。山を見たくて。お邪魔します」
「そうかい。あんたみたいのは、たまにいるんだよ。ゆっくりしていきなよ」
そう言って、簡単な注意事項の後に、部屋に案内してくれた。
シャワーを浴びて、寝間着に着替えて広間に出ると、数人が集まっていて、親父さんが声をかけてきた。
「あぁ、ゆっくりできてるかい? 実は、僕たちは雅楽が趣味でね、今日は集まっていたんだよ。せっかくだから聞いていってよ」
「雅楽……ですか?」
「あまり知らないかい?面白いと思うよ。さぁ、ここに座って」
親父さんが、小さい竹を一束に括り付けたような、笛のような楽器を吹き始めた途端、部屋の空気が入れ替わったように音が何重にも反響して響きわたった。
(なっなんだ……これは……)
不思議な音色だった。パイプオルガンのような音が何重にも重なって天高く突き抜けていくように響いたかと思えば、音の波が風が吹きつける水面のように激しく揺らぎ、そして、静かに消えていった。
圧巻だった。聞いたこともない美しい音色に、まるで朝日が雲の間から降り注ぐような情景が目に浮かび、清らかな空気に包まれて、20分、いや、たった数分ほどの曲だったのかもしれない。とにかく僕の心は不思議な感覚に満たされていた。今は、静寂がうるさいくらいだった。
……コトリ
片隅に楽器を置くのを見て、「あぁ、終わってしまった」と思った。
「どうだった?」
「えっ……いや……分からないです……なんだろう、とにかくすごかった。すごかったです……本当に……なんなんですか、その楽器……」
「笙っていうんだ。不思議な楽器だよね。僕はこの音が好きでね、ただ趣味で吹いているんだけど、たまに君みたいな人に聞かせているんだよ」
「明日は日の出の前に出発するんだろう?寒いからね、気を付けて行っておいで」
「はっ、はい……あの……ありがとうございました……」
僕は水を飲んで部屋に戻った。けれど、布団には入れなかった。ただ、月明かりを眺めて涙を流していた……
◇「霜降りの夜道」
朝早く、まだ世も空けぬうちに床を抜け出した。
「おはよう。簡単だけど食事を用意しておいたよ」
親父さんは、おにぎりとみそ汁を用意してくれていた。
「ありがとうございます。なんだか昨日の笙を聞いてから不思議な気分なんです。歩いて行ってみようと思います」
「そうかい?なんでもやってみるといいかもね。1時間くらいかかるけど、道も凍ってるから気を付けて」
僕は手早く朝食を済ませて、民宿を後にした。
午前五時。まだ空は暗く、月は雲の裏でぼんやりと光っている。息は白く、吐くたびに眼鏡が曇る。気温は0度近く、吐いた息が耳元の髪に結露して凍るようだった。
遠くの山の端からは、曙の青白い光が覗いていた。薄明りの中、街灯もない細道に沿って、山に向かって歩みを進める。道の両脇に畑が広がっていて、ところどころ霜が降りてうっすらと銀に光っている。歩みを進めるたびにザクッ、ザクッと、霜が崩れる音だけが響く。風が吹くたび、木々がこすれ、冷たい空気の層が頬を切る。静かな世界の中に、たまに遠くから聞こえるのは、小さな鳥の一声だけ。
30分も歩くと手足がしびれ始め、耳は赤く痛くなった。
「なんでこんなことしているんだろう……」
だけどその痛みすら心地よかった。
歩みを進めると、背中からゆっくりと光が追いついてきた。振り返れば、山間の空が、ほんのりと赤紫色に染まりはじめていた。
歩いてきた坂の上、最後の一段を登ったとき、ちょうど、空が割れたように、雲の間から白い光が差し込んできた。足元の谷あいに広がる街には、まるで空に浮かぶ川のように、白い霞が流れていた。民家の屋根も、畑も、川も、霞がふわりと乗るように盆地を覆っているのを、天高く差し込む光が照らしだしていた。
昨夜の音色が耳の奥で鳴り響く。
「……キレイだな」
その白い光の淡いに、心が吸い込まれそうだった。
◇「あっちの湯」
最後の坂を登りきった先に、ぽつんと温泉の建物があった。「あっちの湯」の看板が小さく灯っている。
カウンターには、厚手のジャンパーを着たおじさんがいた。
「おはようさん、寒かったろう。若いのにえらいねぇ」
支払いを済ませようにも、凍えた指では、財布のチャックも上手く開かなかった。
脱衣所は温かく、服を脱ぐだけで指先がピリピリした。シャワーのお湯にすら、悲鳴が出そうになるほど身体が冷えていた。けれど、洗い流していくうちに、何かが落ちていく。湯船に恐る恐る足を入れ、全身を浸からせる。
「……っ……あああぁ……」
目を閉じて、凍えていた身体が湯に包まれ、徐々に力が抜けていくのを感じた。
目を開け、顔を上げると、そこには、雄大な自然が広がり、うっすらと白い霞が残る谷あいを、朝日が斜めに照らし、徐々に視界が色に染まっていった。黒から紺、紫、藍、朱、金へと色を変えるのに、ただ目が奪われた。
最後に、全てが赤に染まった。空が、山が、湯が、僕自身が、静かに──燃えた。
迫りくる赤に、ただ、呑み込まれた。圧倒的だった。湯の音だけが響き、眼前には山脈がうねり、甲府盆地を見下ろす中で、朝日が音もなく全てを美しく燃き尽くした。
言葉が出なかった。朝焼けは全てを浄化した。ただ、一言だけ、零れた。
「生きてる……」
何が起きたのか全く分からなかった。ただ、朝焼けに包まれて、涙が止まらなかった。朝焼けは、僕の心の中の、何もかもを焼き尽くしてしまった。何もない、空っぽの心だけが残っていた。
どこまでも遠くまで山脈が続くのが見えるような気がした。朝日の光が何倍にも眩しく光り輝いて見えた。僕は、打ちひしがれた様に、ただ湯につかった。言葉にならない美しい自然を前に、ひどく寂しい静寂だけが残ったようだった……
でも、気が付くと、胸の奥にあった焦げ跡のような痛みが、ふっと消えていた。
◇ 静けさのあと
湯の中で、ずっと泣いていた。声は出なかった。ただ、頬をつたう涙が湯に混ざり、あたたかいものが、すべて身体の奥へと染みこんでいった。
(……のぼせる)
ようやく湯船を出たときには、身体はふらついていて、脱衣所までの歩みをゆっくりと進めるしかなかった。けれど、その一歩一歩の足の裏に、大地の感触を感じた。
バスタオルで髪を拭きながら、休憩室に入った。朝の光が差し込む、誰もいない畳の間の隅で、テレビが小さく流れ、売店の奥からはおばちゃんの声がした。
「朝からいい湯だったねぇ。あんたも、ミルクコーヒー飲んできな」
「……あ、はい……ありがとうございます」
冷蔵庫を開けて、ミルクコーヒーの瓶を取り出して口にふくむと、ひんやりした甘さが喉から火照った身体に静かに染みわたっていった。ただ、甘いミルクコーヒーが美味しかった。
(……なんだろうな……)
何も変わってないはずなのに、僕の罪も、どうしようもなさも、何も変わっていないのに、もう、そんなことはどうだっていい気がした。ミルクコーヒーが美味しいと思う。それだけでいいんじゃないの?
「おばちゃん、もう一本もらうね!」
なぜか、美しいものだけが残っている気がした。朝焼けに焼き尽くされ、涙に混ざって流れていった、あの深くて黒いなにか。なんでそんなものに捕らわれていたんだろう……今、自分の中には、なにも濁ったものがない気がする。
「またおいで、若いもんは、旅しなきゃ」
「……うん。ありがと」
おばちゃんの笑顔が、朝日みたいだった。
(さあ、帰ろう)
心の中の空気が入れ替わった、静かな朝だった。
◇ 帰り道
帰りはタクシーを使って駅まで行った。もう歩く必要もないと思った。目的地がある、それだけのことを、ただ、自然に受け入れた。
鈍行電車は、がたん、ごとん、と音を立てて揺れて走る。
僕は、ボックスシートの窓際に座って頬杖をついてぼうっと景色を眺めていた。ホームを離れ、畑の中をゆっくりと走る。朝日に照らされた田んぼは光り輝いていて、ひんやりした隙間風が、火照った体に心地よかった。
何を考えているわけでもなかったけど、ただ、感じていた。
(自由だな……何に囚われてたんだろう……)
誰かを傷つけたから?
誰も分かってくれなかったから?
なんでそんなことが大事だったんだろう。
違う。全部違う。いや、全部正しい?
正しいってなんだろう。違うって何と違うんだろう。
ただ、そこにあるだけじゃないのか。朝焼けのように。
(それだけのことに、苦しんでたのか……?)
「梨花……」
(伝えよう。素直な気持ちを。欲しいと思ったこの気持ちを)
その言葉が胸の中に落ちた瞬間、なんだか、ふっと体が軽くなった気がした。
景色はゆっくり流れていく。小さな駅、小さな川、小さな町に、誰もが、何かに追われずにただ歩いているように見えた。彼はイヤホンもつけずに、ただ電車の音を聞いていた。
(……それで、いいんだ)




