12話 業の過去・現在・未来
◇ 地獄編 現在 (風の祠)
10月の秋休み、夏の暑さは過ぎ去り、
夜には長袖が必要になってきていた。
ゆーきは、旅に出てみようと思った。
ただ、四国を一周してみたくなったのだ。
親には特に反対されなかった。
成績だけは良かったから、
「たまには息抜きもいいんじゃないの」って、それだけだった。
僕は、金曜日の夜行バスで香川に入った。
高松で原付バイクをレンタルして、
地図を広げると、四国の中央を、山脈がうねっていた。
彼は、ふと、山を突っ切ってみようと思った。
山口の桂浜で、坂本龍馬を見に行こう。
梨花を壊し、花子に拒絶された自分に、
何か教えてくれるかもしれない。
そう思った。
30kmで走る道路は風が気持ちよかった。
流れていく街の景色と空気、匂いの全てが新鮮だった。
街のどこから見ても左手に山脈が見えるのが不思議な光景だった。
しばらくすると、目の前に山脈が迫ってきた。
Googleマップのナビ通りに進み、トンネルを何個か越したあたりで、
だんだん傾斜が厳しくなってきた。
スロットルを全開にしても、じれったいほどにしか登ってくれず、
ハンドルを支える手がじわじわと疲れてくる。
後ろの車にトンネルで煽られながらも、休憩を挟みながら進んだ。
譲りながら、景色を楽しむことができた。
ようやく峠の途中にある、小さな自販機の前にたどり着いた。
汗をぬぐいながら、キンキンに冷えた缶コーヒーを取り出していると、
背後から、声がかかった。
「おお、あんちゃん、どっから来たがや?原付で?」
驚いて振り向くと、日焼けした顔に麦わら帽をかぶった地元のおじさんが立っていた。
畑帰りらしい泥のついた長靴。手にはタオルとペットボトル。
「こんなとこまで、よう登ってきたにゃあ。しんどかったろ?その坂、なかなかやき」
彼は、息を整えながらうなずいた。
「……香川から。桂浜まで行こうと思ってて」
「ほうかほうか!ええとこ目指しゆうがやね。ええ判断ぞ。桂浜はな、やっぱ龍馬ぜよ。あの人見に行かんと始まらんきに」
おじさんは笑いながら、ベンチの端にどっかり座った。
勝手に話し始めたのは、たぶん高知の流儀なのだろう。
「桂浜行くんなら、ついでに、ひろめ市場も寄っちゃりよ。あそこは観光客より地元の酔っぱらいがおもしろいきに。カツオのたたきは、ほんま、こっちで食べたら別物ぞ」
彼は缶コーヒーを飲みながら、なんとなくうなずいた。
道すがらの親切が、思っていたより温かいものに感じられていた。
おじさんは、どこからともなくポケットからタバコを取り出して火をつけた。
吐いた煙は、山の風に乗ってどこかへ流れていった。
「しかしなぁ、あんちゃん、あの桂浜の龍馬像な、あれ、ただの観光やと思うたらいかんぞ」
彼は少し身を乗り出してきた。
「龍馬はな……あんときゃ脱藩しちょる。土佐を出て、世の中見に行きたかったがや。今のおまんみたいに、原付でな」
「……えっ」
「いや、原付では行ってないけんど(笑)、気持ちはいっしょやき。あんた、そんな顔しちょって……逃げて来たがやろ?」
図星だった。
「おまん、桂浜行くんやったら、その顔はたっすいぜよ!!あんたきっと、思うがやないか。こいつ、なんもない海の向こうを見よる……って。あれはな、過去を見ゆう顔やない。未来を見ゆう顔ぞ」
「で、そのあとよ。腹減るろ?そしたら、ひろめ市場よ。昼から飲める、最高の場所ぞ。ひろめ市場でな、昼から飲むがやけど、たっすいビール飲んじょったら、横から知らんおっちゃんが言うがや。たっすいがはいかん!てな!ほんで、なんか気ぃついたら、そのおっちゃんとカツオのタタキつまみながら、知らん人10人くらいで乾杯しよったりするきに……あそこは、飲み方を教えてくれる場所やわ」
「今も、けっこう話しかけられてますけどね」
「あははは、そりゃそうか。おっちゃんもひろめにおる気分やったわ」
そう言って、おじさんは立ち上がった。少し伸びをして、原付を見てから、ニッと笑った。
「気ぃつけて行きや。坂はまだ続くきに。けんどその先には、ええ風が吹いちゅう」
木漏れ日がちらちらと顔を照らす。息を呑むような深い森の中を走る。
風が通り抜けると、その肌をひやりと撫で、森の匂いが鼻腔をくすぐった。
四国の山は、驚くほど深く、深く、どこまでも沈黙していた。
(おまん、とか、ぜよって本当に言うんだな……)
(半分、何言ってるか分からなかったけど……たっすいって何だろう……)
風が止み、山の中でただひとりだった。
鳥も鳴かない、獣の気配もしない、音がないという音の中で、それが怖くなかった。
(ひろめ市場か、行ってみようかな……)
そう思った瞬間――音がした。
聞いたことのないサルの群れの叫び声が、
ひりつくように頭の上から降り注ぎ、森中に突き刺さるようだった。
茂みの向こうからは、競うかのように甲高く響く鳥の悲鳴。
草木のざわめきが近い。風が通り過ぎるだけではない。
耳元に誰かの息遣いがあるような、微かに圧がある。
そこかしこに何かがいる。
直感ではなく、もう少し鈍い、不安の芯のような感覚。
棲んでいるのではなく、待っているのでもなく、見られている気がした。
少し小高くなったところに、異様な雰囲気の鳥居が見えた。
光が白い。目を細めた。昼の日差しというより、天から差す光に見えた。
白い石で形作られた鳥居をくぐると、胃の奥がきゅっと縮む。
草木一本ない小道に、白く丸い石が敷き詰められ、足音が吸い込まれるように消える。
白い石を踏みしめるたび、気持ちが少し、何かに沈んでいく。
登り階段には埃も、葉も、何もない。苔むした縁石は時間の流れを拒んでいるかのようだった。
階段を上った先で、もう一つ真っ赤な鳥居が構えていた。
鳥居の先に広がるのは、空と山。青々と色が深く、視界が吸い込まる。
足元がふらつき、地面を踏みしめ直す。
鳥居を抜けると――肌がぞわりとした。
空気にハリが……ある。重たいのではない。
肌の上を撫でるのではなく、皮膚をすっと切るような鋭さがあった。
冷たい?違う。澄み切っている。全てを見透かすように、清らかに。
息苦しかった。
浅く吸って、深く吐く。
もう一度吸って、ゆっくりと吐く。
息を調えるうちに、自然と腰が引け、背が丸くなった。
まるでお辞儀でもするかのように、二度、深呼吸すると、急に身体が楽になった。
音が消え、耳の中で「キーン」という音が、うるさいまでに響いていた。
見渡せば、祠も、社も、何もない、異様な静寂。
ただ、鳥居と雄大な山の息吹が広がっていた……
息を潜め、空気の音を聞いた。
先ほどまでの心のざわめきは消え、心が澄んだかのようだった。
周りの空気に自分が溶け出していくような気がした。
「たっすいがはいかん!」
急に、おじさんの声を思い出して、
吹き出しそうになった瞬間――強風が顔を打った。
カ エ レ ……
おじさんの笑い声は風にかき消され、
背中の真ん中が、何かに触れられた。
冷たい感触に、全身が震えあがった。
水の音に振り返る。
小川のせせらぎが、絹のように流れる沢だった。
その水音は、単調ではなかった。
跳ね、ぶつかり、重なり合い、音楽のように変化していく。
水の中に何もない。生き物の気配すらない。
ただ澄みわたり、水面が光を跳ね返していた。
美しい…あまりに。
全てが浄化された――ゾッとするような美しい水。
(……ここは……僕は、ここにいてはいけない……)
参道を戻ろうと、顔を上げて、鳥居の先に目を向けると、
――ぴょん、ぴょん
小道の先でカモシカが一頭、茂みから現れた。
柔らかい光がその背を包み、跳ね、道を先導するように跳ねた。
軽やかに、軽快に。そして、待つかのように、こちらを振り返った。
(……早く、帰れと言っているのか……何も汚す前に……)
でも、もう一度だけ、もう一度だけ、あの山を見たい気がした。
けれど、鳥居の手前で、誰かが添えた花束がカラカラになって散らばっているのに気が付いた。
(僕は、越えてはいけない境界線を跨いでしまったんだ……)
さっきの笑い声が、夢のようだった。
さっきまで、人の時間に生きている気がした。
でも、今ここにいるのは、誰の時間でもなかった。
許されないことをした――そう直感した。
これ以上汚す前に、ただ去ろう。
……僕のような命は……必要ないんだ……
◇ 地獄編 死後 (輪廻の呪い)
宿で目を覚ます。
昨日は夜行バスで疲れていたこともあり、結局、山の中の民宿に宿泊した。
テラスでコーヒーを飲みながらゆっくりしていると、
朝の山の空気が澄み渡っており、朝露に光る森から、良い匂いがした。
今日は山越えだ。とにかく、進んでみよう。
「また来ちゃってよ〜、待ちゆうきね〜!」
(また来ちゃってよか……)
土佐弁の響きが、なんだか温かく手嬉しかった。
―――――
トンネルを抜けると、そこは異様な空間だった。
灰色の空。崩れかけた廃屋がポツンと…
まるで時間が止まっているかのように。
空気はじっとりと重く、動かなかった。
古びた電柱に、見慣れぬ赤い文字が浮かんでいた。
文字というよりは、何かの印だった。
誰かが、こちらを見ている――そう思わずにはいられなかった。
そばに寄りたくない
いや…本当に嫌だ…なんだ…これ…
…けど…通り過ぎなければいけない……
一歩、ニ歩、三歩…
「お邪魔します…直ぐに行きますので…」
そう言った瞬間、
背骨の内側を、氷の針が一本ずつなぞっていくようだった。
風が――すぐ背後を通った。
いる…後ろに……
全身が危険信号を発していた。
振り返ってはいけない…
目を合わせてはいけない…
気配を感じていると思われないほうがいい…
興味を持たれたら…おしまいだ……
皮膚の裏側がざわざわと蠢きはじめ、毛穴の奥から何かが生まれるようだった。
そして――
カラ……カラッカラッ……
乾いた音がした。下駄の音。
「っ……!」
思わず首が動きかけたが、寸前で止めた。
背後に、それがいる。間違いなく、僕の背中を見つめている。
一歩、二歩……。
ッカラッカラ。
それは、付いてきていた。
声がした。
「あーそーぼー」
耳から入ってきたのではない。頭蓋の裏で直接鳴った…
僕は、喉を潰されるような悲鳴を心の中で噛み殺しながら歩き続けた。
鼻から入った空気が、気道を焼きながら通っていく。喉の奥に、煤の味。
肺がざらつき、胸が痙攣した。
「ふふ……わたしのもの……」
その囁きと同時に――
カチッ
――魂に、何かが繋がった音がした。
◇
宿で目を覚ます。
(……あれ……?)
「また来ちゃってよ〜、待ちゆうきね〜!」
(聞いたことある……)
トンネルを抜ける。
また、あの廃屋。あの赤い文字。
電柱には『1』の数字。
胸が、ざわついた。
「……お邪魔します……」
一歩、二歩、三歩。
カチッ
◇
再び宿。
「また来ちゃってよ〜、待ちゆうきね〜!」
また出る。
また、トンネルを抜ける。
また、廃屋。
電柱には――『42』
カラ……カラッカラッ……
「……お邪魔します……」
一歩、二歩、三歩。
カチッ
◇
再び宿。
目を覚ますと、肺が、焼かるように痛かった。
「また来ちゃってよ〜、待ちゆうきね〜!」
また、トンネルを抜ける。
そしてまた、あの廃屋。
数字は『67』
「むなしい……」
そう口にした瞬間、
舌の奥にぬるりとした味が這い出した。
鉄のようで、甘く、喉が焼けるように。
喉は、渇いていた。
その味は、飲み込めなかった。
胃が拒絶したのに、脳は懐かしく感じていた。
一歩、二歩、三歩。
カチャッ
◇
何度目かの朝。
宿の天井は、どこか遠くにある気がした。
宿には誰もいなかった。
「また来ちゃってよ〜、待ちゆうきね〜!」
声だけが響いた。
そしてまた、あの廃屋。
数字は『94』
電柱の下に
赤い下駄がひとつ
鼻緒がぷつりと切れていて
誰も履いていないのに
雨の跡が濡れていた
電柱の前に、鼻緒が切れた赤い下駄が転がっていた。
あー
そー
ぼー
なぜか、僕はそう言った。自分の口が勝手に動いた。
カシャッ
◇
「〜!」
音が聞こえなかった。
『98』
数字をみた瞬間、目が開いているのに、暗くなった。
カシャリ
◇
『104』
「もう、お終いにしよう……」
僕は……山から身を投げた。
ギギギ
◇
もう、わかっている。これは抜け出せない。
“遊び”は続く。終わらない。繰り返す。
電柱の数字は『108』
終わりの印。始まりの合図。
「もう……いい加減にしてくれぇぇぇぇ!!」
叫んだ。魂ごと。
風が吹いた。
「つれてってくれるの……?」
「……何でもいい。ここから出してくれ……!!」
ガチャ
脊髄の最奥、尻尾のような感覚の場所に、楔が打たれた。
冷たく、硬く、深く、そこが“自分”だと初めて知った場所に――
(ふふ……契りは済んだの。来世も、来来世も、何億巡っても――ずっと、あなたと)
声は、内側から聞こえた…思考の隙間から、感情の隙間から…
それは願いではなく、決定だった。
(言ったよね?なんでもいいって)
笑いがあった。
喉の奥に、痰のように、こびりついて、にやついていた。
「ふふふ……あーそ-ぼー……」
…僕は、そう言っていた。
無意識の底から、自然に。
◇
気がつけば、彼はトンネルを抜けていた。
だが、抜け出した先にも、すでに“次”の呪いが用意されている…
◇ 地獄編 過去・未来 (仏壇)
ゆーきは、ただ、帰った。
これ以上、何かを失う前に。
龍馬ののいる、桂浜へは行かなかった。
仏壇に線香をあげる。
チーーーン…
―――――
なぁ、ばぁさん
……どうすればいいんだろ。
……何もうまくできないんだ。
四国行ってきたんだ。ばぁさんも行ったお遍路じゃないけど。
怖い神社があったんだよ……鳥居だけの。
キレイだった…何も生き物がいない。ゾッとするほど美しかった……
カモシカがいたんだよ。白い光を受けてぴょんっ、ぴょんってさ。
祝福されてるみたいだった……光がキレイでさ……
……こんな俺は、生きていてはいけないって思ったよ。
生きていても……壊すんだ……梨花も、花子も……
黙っていても、一生懸命に話しても、ダメだったんだ……
俺は、人を好きになってはいけない。
俺は、そもそも誰かに必要とされるはずがなかったんだ。
なぁ、ばぁさん、こんな遺伝子残しちゃだめだよな……
俺は、誰かにこんな思いをさせたくない……
なぁ、ばぁさん、なんで子供を作ったんだ?
なぁ、ばぁさん、お経唱えてたのはつらかったからなのか?
なぁ、ばぁさん、俺のいいところ教えてくれよ……
なぁ、ばぁさん、こんな、こんな遺伝子、渡しちゃダメだろ……
僕の中で、ずっと腐ってるよ。生まれたときから。
―――――
……壊すための器みたいに育って、
誰かを愛するたび、必ず傷つけて、
笑わせるための言葉も全部、結局、裏目になる。
なぁ、ばぁさん、どうして、俺、生まれたんだ……
なぁ、そんなものを継いできたばぁさんも、かぁさんも、
……全部、善意だったのか?我がままじゃないのか?
生んでくれてありがとうじゃないだろ?
生んでしまってごめんなさいだろ?
お前らの我がままのせいで……俺は……
俺のこの性格も、考えすぎる癖も、人とうまくやれないのも。
父さんも、母さんもけんかばかりじゃないか……
なぁ、ばぁさん、俺は、生きる前から壊れてた。
僕は──愛の受容体を持っていないんだ……
そんなの終わりにしよう…俺の代で…
なぁ、ばぁさん、僕が腐ってるんじゃなくて、
俺たちはみんな、始まりから、間違ってたんじゃないか?
―――――
ふと、般若心経が目に入る。
……なんだっけ、もう覚えてないや……
「ぎゃーてー、ぎゃーてー」
息の流れに引きずられるように、口が勝手に動いた。
「あーそーぼー」
「っ………!」
ばぁさん…俺、死ぬこともできなくなっちゃったよ…




