11話 沈黙と語りの罪
8月25日。夏休みの出校日。
夏はまだ終わる気配を見せず、朝から気温は30度をゆうに超えていた。
ジリジリと照りつける日差しに、ゆーきは額の汗を何度もぬぐった。
けれど、濡れているのは汗だけではなかった。
冷や汗が、背中に沿ってじわじわと伝っていた。
登校中、何度もスマホを見た。
通知はなかった。LINEも、メールも、着信も。
でも、もしかしたら今日──梨花に会えるかもしれない。
そんな期待と不安が、混じりあって喉を焼いた。
校舎に入ると、少し涼しかった。
教室にはパラパラと人がいるものの、普段のような喧騒はなく、
どこか空っぽで、夏の余韻が色濃く残っていた。
席につき、何気なく周囲を見渡す。
その姿は、なかった。
梨花は──今日も来なかった。
ほどなくして、ホームルームが始まった。
担任が点呼をとり、簡単な連絡事項を述べる。
宿題の進捗、夏休み後の予定。
生徒たちの反応は鈍く、皆どこか夢の中にいるようだった。
ゆーきも、机に肘をついてぼんやりと前を見ていた。
ふと、何気なく自分の机の中をのぞいた──
赤い封筒が、そこにあった。
濃い、血のような赤。
蝋で封がしてある。
まるで儀式の供物のように、静かに置かれていた。
封筒の表には、乱れた筆跡で一言だけ。
「呪いの手紙」
文字が、震えていた。けれど、強く刻まれていた。
◇
ゆーきはホームルーム後、校舎の離れにある人気のないトイレに向かった。
誰にも気づかれぬように。
手のひらにじっとりと汗が滲み、手紙を持つ指が震えていた。
恐る恐る、封を割る。
中には、白い便せん。
涙で濡れて、ところどころ文字がにじみ、紙が波打っている。
筆跡は乱れ、筆圧は異常なほど強く、紙が一部、破けている。
まるで彼女の声が、そのまま紙に刻まれたようだった。
読んだ瞬間、体の奥が冷たくなった。
◇
ゆーきへ
わたしは、脚を開いたよ。
壊れそうなくらい震えながら、それでも待ってたのに、
あなたは何も見なかった。見ようともしなかった。
ずっと、待ってたんだよ。
毎日毎日、LINEを開いて、何度も何度もアカウントを消そうとして、
でも消せなかったのは、あなたが何か言ってくれるって信じてたから。
でも、あなたは黙ってた。
わたしが、黙ってたから?
わたし、変わっちゃった。
あの日から、わたしはもう、あのころの少女じゃない。
ひとりで、おとなになっちゃった。
ひとりで、女になった。
もっと触ってほしかった。
わたし、脚を開いたのに。
わたし、あなたが欲しかったのに。
どうして、何もしてくれなかったの?
ねえ、ゆーき。
わたしが何も言わなかったから、嫌われたの?
わたしが言ってたら、好きになってくれた?
わたし、なにをすればよかったの?
わたし、悪いこと、したの?
ゆーき。
どうして、何も言ってくれなかったの……。
◇
最後に、名前は書かれていなかった。
それでも、ゆーきにはわかっていた。
この手紙は、梨花の「呪い」だった。
彼は手紙をゆっくりと破った。
誰にも見られないように、ゴミ箱へと向かう。
そして──投げた。手紙を、過去を、自分自身を。
しかしその手は、震えていた。
足元の床が、やけに遠く感じられた。
冷房の音だけが、教室に流れていた。
◇ ノートにだけ、彼女がいた
『梨花のノート』というタイトルは、もう書かなかった。
それでも、今日も彼は、梨花のためにページを綴る。
古文の句形、漢字の意味、教師の話したエピソード。
黒板を写しながら、彼女が隣にいるようなつもりで書いた。
語りかけるように、思い出すように。
・ここ、間違えやすいから注意
・「けり」は過去じゃなくて、詠嘆
(……どう言えば、もっと伝わるかな)
ノートの中だけ、あの夏の日々は続いていた。
梨花がまた来ることを、どこかで信じていた。
でも──
あの、赤い封筒の言葉が、脳裏に滲む。
「どうして、何もしてくれなかったの?」
(していたつもりだった……今も、こうして……)
ペンが止まる。
喉がきしむ。
机の上に、汗とも涙ともつかないしずくが落ちた。
「わたしが言ってたら、好きになってくれた?」
(……好きだった。ずっと、ずっと……)
痛む胸に手をやって、震える呼吸を押し殺す。
「脚を開いたのに」
(どうして、信じられなかったんだ。あの日の、彼女を……)
目の前の紙がぼやけ、
ペン先が揺れ、インクが滲んだ。
「どうして、何も言ってくれなかったの……」
(──僕が、梨花を、壊したんだ)
◇ 気持ち悪い、という名の恋
梨花は、夏休みが終わっても学校には来なかった。
無言が一人の女性を壊してしまった恐怖で、僕は多弁になった。
でも、言葉にすればするほど周りを壊してしまった。
友達を作るのも簡単だった。誰かの悪口を言えばいいんだ。「隣のあいつお前の悪口言ってたよ」って。
笑いを取るのは簡単だった。誰かを攻撃すればいいんだ。「マジでうぜーよなあいつ」って。
信頼を得るのも簡単だった。誰かの秘密をばらせばいいんだ。「君にだけ教えるけどね」って。
なぜか、先生、友人、クラスメイト、みんな僕から離れていった。
僕は自分の無力さを知り1人絶望した。
もう、勉強しかできることはなかった。
友人もいなかったけど、学力テストで10番になって掲示された。
僕のことをよく知らない女子は、「すごいね」なんて言ってくれた。
僕は嬉しかった。久しぶりに誰かと会話した気がした。
花子という女の子だった。
花子は悩んでいた。「やりたいこともない、夢もない、ただ毎日を生きているだけ。夢をもて、目標をもてって言われるけど、それってそんなに重要なことなの?どうして普通にしてちゃいけないの?足るを知れっていうじゃない。どうしてそんなに頑張らなくちゃいけないの?結婚して、子供を産んで、幸せな家庭を築くだけじゃだめなの?私、お母さんみたいになりたいの。ふつうに幸せになりたい。ねえ、それってどんな努力をすればいいの?かわいいだけじゃだめなの?」
僕は花子に勉強を教えてあげた。
勉強すれば悩みだって解決するはずさ。僕は空き時間に息抜きの代わりに色々な啓発書を読んだ。花子にアドバイスをしてあげた。僕、花子の悩み相談にのってる。僕、花子の役にたってる。夜遅くまでラインの返事もして、アドバイスもした。すべて花子のために。
僕と花子は恋に落ちた。花子はラインで好きだよって伝えてきた。僕も好きだよって伝えた。
帰り道に、僕と花子は手をつないで、公園でキスをした。
毎日花子のことだけを考えていた。花子は必ず返事をしてくれた。かわいいスタンプも、ハートの絵文字も全てが嬉しかった。頑張れば頑張るほど、花子からのハートが増える気がした。
でも次第に僕はめんどうになってきていた。なぜ僕が色々アドバイスしなきゃいけないんだろう。なぜ、僕ばかりが与え続けないといけないんだろう。
僕は花子のラインを無視するようになった。忙しかった。めんどくさかった。
花子が校門でまっていた。めんどくさかった。でも花子は泣いていた。
「なんで…返事してくれないの…」
僕は反省した。花子の涙を見て、僕は、花子への気持ちを再確認した。
「ごめん。自分の気持ちを確認するのに時間がかかってた。でも今分かった。これが愛なんだって」
きっと、これがマンネリってやつだ。これを乗り越えてこそ、男の甲斐性ってもんでしょ。
愛を確認したと思ったけど、めんどくささは消えなかった。いや、以前よりもどんどん面倒に感じるようになった。僕は義務感だけで返事をするようになった。ラインはもう真っ黒だった。
それでも、毎日毎日、男の甲斐性として、愛のアドバイスを繰り返した。でも、厳しいことも言うようになった。だって、花子全然成長しない。そんなこと悩んでないでやればいいのに。自分が頑張らないと、まわりなんて変わってくれないよ。文句をいっていても仕方ないだろう。
女を育てるのも男の仕事だ。
次第に、花子からの返事が滞るようになった。
最初はすぐに返事があったけど、今は半日に一回、たまには1日未読なこともある。
花子どうしたんだ。逃げちゃだめだろう。困難は立ち向かわなければ追いかけてくるんだ。めんどくさいけど…頼ってくるなら、助けてあげるし、アドバイスもしてあげるのに。もちろん厳しいことも言ってあげる。もちろん僕だって心は痛いさ。でも花子のためだ。
僕は嫌だったけど、久しぶりに花子をデートに誘った。息抜きをしようと映画館に。
久しぶりに見た花子の私服は、相変わらず、ひらひらしててかわいかった。
僕は、触って匂いを嗅ぎたくなったけど、我慢した。
花子は、せっかく誘ってやったのに、笑顔を見せなかった。
何かを言いづらそうにしていたけど…なんだよ、こいつ…
僕らは映画を見終わった後、カフェで休憩することにした。
「花子…元気ないけど、悩んでいるなら話を聞くよ?」
「うん…」
花子は言葉につまった。僕は待った。
女の優柔不断につきあうのも男の義務だと思った。これも愛のカタチさ。
「……やっ、やっぱり目標って必要なのかな…とか…悩んじゃった…のかも…」
またその話かと思った。僕はイライラした。
「花子、それは説明しただろ。目標がないと人間は成長できないんだ」
「そんなことをいつまでも悩んでいることこそ、君が成長していない証じゃないか」
「目標を持てないのは、色々なことを知らないからだよ。もっとたくさんのことに触れなきゃだめだ」
そして、また、僕は花子の視野が広まるように、お勧めの本をいくつも紹介してあげた。
厳しいことを言うのは花子のためだ…
……ちょっとだけ、花子にきつく言ってあげるのが気持ちいいけど…
僕だって胸が痛いんだ。仕方ないさ。
花子は黙ってしまった。
さっきから、うつむいて、何かを考えているのか、不機嫌さを露わにしている。
時間の流れがやけに遅く感じた…
僕は何も言わない花子にイライラした。
イライラしてたって、何も言わなければ分からないじゃないか。言葉で言えばいいだろう。いつも、どうでもいいことはペラペラペラペラ話す癖に、大事なことになると、すぐコレだ。
僕はまた声を荒げそうになった。
でも、花子が涙を浮かべていることに気がついた…
僕は花子を慰めようと思って、あたまを撫でようとした。
「やめて!」
花子はびっくりして、ぼくを拒絶した。
「ごっごめん、びっくりしちゃって。」
花子はそう笑顔を浮かべた。
「ごめん…今日はもう帰るね…」
「さっきの映画…怖かったみたい…アドバイスしてくれてありがとね…」
花子は機嫌が悪そうだったけど、なんだ、映画のチョイスが悪かったのか。
まぁ、アドバイスが利いたみたいでよかった。すぐに元気になるだろう。
僕は花子を癒してあげようと思った。
相変わらず返事が遅くてイライラしたけど、僕は愛を再確認したんだ。
僕は花子の返事がなくても、はげましの言葉を送ることで、愛を伝えようとした。
花子、大丈夫?
花子、心配してるよ
花子、映画怖かった?次は楽しい映画見に行こうね
花子、いつも応援してるよ
ありがとう♡なんて。
恥ずかしがり屋なのか、返事は2日に1回とかだけど、僕は、一生懸命、花子に言葉を送りつづけた。
花子、大丈夫。花子なら目標を見つけられるよ
花子、疲れてる?カラオケで気分転換しよっか?
花子、悩みがあるなら、いつでもいってね
花子、本読み終わった?お勧めの本まだあるから遠慮しないでね
返事はどんどん少なくなっていった。
僕は、せめて気持ちを届けたいと思って、直接的な言葉を花子に送った。祈りを込めて。
花子だってハートの絵文字を返してくれるんだから、気持ちはつたわっているはずさ。
花子、ぼくがいるから大丈夫だよ…
花子、君の支えになるよ
花子、好きだよ
花子、元気なときでいいから、返事くれると嬉しいよ
そしたら…花子も学校にこなくなった。
ラインの返事はもう、ほとんど、返ってこなくなった。
花子、どうしたの
花子、君の声が聞きたいよ
花子、君が夢にでてきたよ
花子、会いたいよ
僕はもうめんどくさかったし、ラインしなくていいなら良いかなって思い始めていた。
しばらくして、花子は話があるといって僕を呼び出した。
僕は、まだ、花子に気持ちが残っているんだと思って、少し安心した。
僕は精一杯の笑顔で、真剣な目で語りかけるように花子に言った。
「花子…話があるって、どうしたんだい」
「何でも言って。僕にできることならなんでもするよ」
花子は僕の目をみなかった。
うつむいたまま言った。
「もう…やめて…」
僕はキョトンとした。何をやめるって?
よく分からなかったけど、花子が追い詰められていることは分かった。
とにかく、花子を安心させようと思って、花子を抱きしめた。
「花子…大丈夫だよ…つらかったんだね」
そのとき。花子は叫んだ。
「やめてーーーーー!やめてって言ってるでしょ!」
花子は僕を突き放した。
「あんたの説教も、ラインも!」
「全部が気持ち悪いの!全部!全部!全部!全部!全部!全部!全部!全部!全部!」
「気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪いぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
僕は…意味が…分からなかった…
でも、明確な拒絶だけは、ちゃんと理解した--
沈黙が梨花を壊し、言葉が花子を壊してしまったことを。
僕はもう、どうすることもできなかった。
花子への最後のラインは、既読にならなかった。
それで、すべてが終わった。




