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10話 先生の名前を呼んでいる物たち #ぬるりと溶け合う身体

「図書館の指先」の中でも、語られなかった一日──

梨花と祐樹の担任、山田先生の短編です。

夏休み明け、三学期が再開する直前の出校日。


少し長めの12,500字ですが、よかったら覗いてみてください。


そして次回、

あの「ゆーきの地獄」も、ここから動き出します。

1.朝、名前を思い出す


目が覚めた瞬間、山田は思った。


(……梨花、今日は来るだろうか)


山田は三十三歳。十年前、教育学部を卒業してすぐ教壇に立った。だがその頃よりも今のほうが、「教師として何をしているのか」が、ますます分からなくなっていた。


「また梨花のこと?気になるなら電話してみなさいよ」


メガネを通してみた自分が、そう語りかけてきた気がする。


(……でも、今日、来るかもしれない)


2.出勤、ワイパーの応援


湿気の重さが、まだ朝なのに身体に貼りつく。車に乗り込みエンジンをかけると、曇ったフロントガラスに雨粒がぶつかった。


「あっ、今日は降ってるね……私の出番ね。じゃあいくよ、いっちに、いっちに」


ワイパーが起動した。右、左、右、左──規則的に動き始める。次第に雨が強くなってきた。ワイパースイッチをHIGHに入れる。


――カタカタ


「レインスラッシャ――今ここに見参!!! うぉぉぉぉぉ、マックスパワー行くぞー!!!」

「静粛なる機能美──水滴殲滅モード、左翼展開。いやぁぁぁぁー、フルパワーよぉぉぉ!!」


「「イチニイチニイチニイチニイチニ!!!!」」


「イチニ! イチニ! 声出せ左!だっ大丈夫か!?」

「座標確認、風圧対応済み。大丈夫!もうすぐで高速を降りるわ!!右、力を合わせるわよ!」

「おまえほんとクールだな!?だが、それがいい!燃えろぉぉぉぉ!」

「ラッラストぉぉぉ!!!」

「うおおおおおお!!!」


山田は笑ってしまいそうになった。


(……うるせぇよ……でもありがとな)


ニヤリとした山田は――出口を通り過ぎた。


(……道間違えた)


「いやぁぁぁぁーーーー!!!振動制御、間に合わないわ──しがみついてぇぇええええ!!」

「うおおおお! 左----!まだ逝くな――――!!!」


――ガガガガッ(ワイパー停止)


山田:「うゎぁぁぁぁぁぁー!!! 前が見えねぇぇぇぇー!!!!」



3.教室、チョークのひび


(朝からひどい目にあった……)


今日は夏休みの出校日。高校三年生の担任として、生徒の顔を見られる数少ない機会だ。山田は久しぶりに生徒に会えることに期待しながらも、どこか憂鬱だった。

梨花は、クラスの中心にいる子だ。明るく、うるさく、誰にでも話しかけて、教室の空気を回していた。最初は「元気な子だな」と思っていたけれど、成績が上がり始め、推薦の話もちらついていた。ノートには、几帳面な復習の痕が残っていて、ギャルっぽくて、ちょっとずぼらだけど、真面目な子だった。夏休み前の6日間、彼女は欠席し、そのまま夏休みになってしまった。しばらく連絡が途絶えていたものの、クラスラインのリアクションもつくようになった。けれど、なんとなく気になっていた。


校舎が近づくにつれ、朝の騒がしさが車の窓越しにも聞こえてきた。久しぶりの登校日だった。昇降口には制服姿の生徒たちが集まり、自転車を押しながら笑っている。階段では駆け足で「おっひさー!」と叫ぶ声。ワイパーたちの叫びより、よっぽど賑やかだった。山田は、少しだけ口元を緩めた。けれど──誰も、自分の名前は呼ばなかった。そのとき、隣の階段から別の声が飛ぶ。


「かよちゃーん!」


振り返ったのは、佐藤佳代子先生。山田より三つ下なだけだが、職員室では年齢を感じさせない軽やかさがあった。


「こらっ、佳代子先生って呼びなさい!」


生徒たちは笑って「はははは。またねー」と言って逃げる。


(……あれが、“先生”なんだよな)


自分は呼ばれず、笑われず、ただ校舎の中へと歩いた。


―――――


ホームルームが始まる時間。出席簿のページをめくると、紙の端に梨花の名前が見えた。山田の指先はその上で止まった。ペンの先が、赤線を描くかどうか、ほんの一瞬だけ迷った。

教室は静かだった。夏休み明け特有の、湿度を帯びた沈黙。窓の外ではセミが泣いているはずなのに、その声すら教室の空気に吸い込まれてしまう――梨花は、今日も顔を見せなかった。

彼は黒板の前に立った。手にしたチョークを、いつものように持ち上げる。その瞬間だった。


――コツン


山田の手からチョークが滑り落ち、床に転がった。真っ二つに割れ、クルリと半回転して止まった。山田は、屈んでチョークを拾った。


チョーク:「うふ、割れちゃった」

黒板消し:「おいおい、また掃除増やす気かよ……」

チョーク:「悲しまないで、徹郎。私は大丈夫。工場に帰れば、また一つになれる。あなたのホームルーム、最後まで支えるわ」


山田は黒板に向き直り、割れたチョークの片割れで文字を書き始めた。その筆跡は、わずかに震えていた。誰も山田を見ていなかった。



(教師って、なんなんだろうな……)



4.祐樹のノート


通り一遍のホームルームが終わると、生徒たちは一斉に立ち上がり、足早に教室を出ていった。ざわめきだけが残り、椅子の脚が床を引きずる音が、なぜか耳に残った。山田は職員室へ戻ろうとして、ふと足を止めた。目に入ったのは、誰も座っていない──ひとつの机だった。


──祐樹の席


彼は目立つ生徒ではなかった。静かで、いつもどこか壁に溶け込んでいるような存在。机に参考書とノートが開いてあるのが見えた。


(……おいおい、出校日なのに、真面目だな)


近づいてみると、広げたままの参考書──赤本『東大の英語』。山田は、少しだけ息を呑んだ。


(……え?……こんな難しい問題、もう解いてるのか?)


ノートを覗き込むと、そこには丁寧な訳と注釈。ただ正答を書いているだけでなく、解説の構造までノートに再構成されていた。美しく書き込みの量が異常だった。しかし、それが自分のためのノートではないことに気づいた。


──梨花の苦手ポイント


山田の手が、思わず止まる。


(……梨花の指導要領なのか?祐樹が梨花に教えていたのか?)


ノートには、日付と進度、問題ごとのポイントが書き込まれている。まるで、彼女が戻ってきたときに「この通りにやれば追いつける」とでも言うように。


ノート:「祐樹、がんばってるぜ……徹郎、見といてくんな」

メガネ:「祐樹に梨花のこと、聞いてみたら? 仲良さそうよ?」


(……いや、勘違いかもしれないな。今さら聞くのも野暮だろう)


山田は、どこか甘酸っぱい気持ちになりながら、静かに教室を去っていった。



5.ヒソヒソ声とケータイの震え


「ねぇ、ゆーこちゃん、最近やばくない?」「この前のヤツ、エロすぎw」


生徒から小さな笑い声。女子数人がスマホを突き合わせながら、廊下をだらだら歩いていた。その笑いは、軽やかなようで、どこか棘を含んでいた。ふざけあっているだけに見えるが、耳に刺さるような笑い方だった。

山田も何も言わず、スマホを手に取った。ホーム画面にはクラスLINEの通知が溜まっていた。スタンプ、既読、たまに「笑」や「おつ」だけの簡素な応答。誰が本当に読んでいるのか。誰が、何を思って、返信しているのか。

「伝える」ことはできても、「届いた」かどうかは、分からない。それでも──保護者グループの反応は違った。


「提出物の案内ありがとうございます。子どもが話さないので助かってます」

「最近事件も多いので、こういう情報があると安心です」

「直接は書きにくいですが、同じ悩みを読んでホッとしました」


そうした文面が、無機質なLINEの画面に並んでいた。どれも、穏やかで、丁寧で、形が整っている。でも──声はなかった。電話は、しなくなった。保護者とのやり取りも、全部、文字になった。リアルタイムの会話も、沈黙の間も、気まずい咳払いも、どこにもなかった。文字だけがあれば、報告は“済んだこと”になる。


山田は、梨花の保護者から届いた短いメッセージをスクロールした。


「夏風邪が長引いています。もう少し様子を見ます」


──それだけ。けれど、学校としては十分だった。教頭に報告するときは、こう言えばいい。


「家庭とは連絡が取れてます」


たったそれだけのことで、「問題なし」のフォルダに放り込める。制度的には、これで問題ない。


スマホ:「……ねえ、徹郎。私、なんか、電波おかしい気がする……なにか、怖いの受信してる……」


その言葉に、山田は思わず笑いそうになった。


そうやって、面倒なトラブルは効率よく避けてきた。これからもきっと、うまく行く。



6.昼、発表を前に


昼休み、職員室の席に戻ると、空調の音だけが静かに響いていた。

遠くでチャイムが鳴った。一時間目と二時間目の区切りを告げるような音が、無人の教室にも届く。校内放送は流れず、ただ“機械の音”だけが時間を知らせている。

山田は自分の机に腰を下ろし、ファイルを取り出した。午後の校内研修で、「クラスLINEの活用事例」を発表する順番が回ってくる。ファイルには、過去に提出した報告書が綴じられていた。


──「反応がよく、連絡事項がスムーズに届く」

──「既読確認による安心感」

──「リアクション返信による気軽な応答」


(うまくいっている……ことになっている)


山田はページをめくりながら、自分の声を脳内で再生した。説明口調。形だけの要点。聞き手の反応まで、だいたい想像がつく。


(誰も本気で聞いていない……俺だって、本気じゃない)


プリントの端に、手がかすかに汗ばむ。


──教師同士のプレゼン。

──互いに否定しない、形式だけの「共有」


職員室には他の教員の話し声が微かに重なっていた。隣の理科の先生が椅子を引く音がした。それでも、自分の周囲だけがわずかに孤立しているような感覚があった。山田は、手元のボールペンを指先でくるくると回した。その滑りが悪くなったところで、ペンケースを開いた。


「……あれ」


中で何かが引っかかる。指を入れて探ると、クリップの先端が、勢いよく跳ねた。


──ピーン


「イッテェェ!」


親指の爪の間に、細い金属が突き刺さった。


クリップ:「なに気抜いてんのよ!頑張りなさい!!」


山田は苦笑しながら、ティッシュで指先を押さえた。ほんの少し滲んだ血が、紙にじわっと染みていく。その赤を見て、山田はふと思った。


(ちゃんと、生きてるんだな……)


どこかで自分が、もう“職員”以上でも以下でもない何かになってしまっていた気がした。血が出ることで、「個人」に戻る感覚。

足元の引き出しを開けると、進路希望調査票の束が入っていた。三年生の分だ。梨花の列だけが、空欄のままだった。これも連絡は取れているで通る。教頭にも報告済みだ。問題ない。山田はファイルを閉じた。それが、何かを片付ける音のように思えた。

指先を押さえながら、隣の席に目を向けた。佐藤先生のデスク。彼女は昼食を取りに行ったのか、いなかった。山田は、彼女の机の上に置かれた小さなマグカップに目を留めた。花の絵が描かれていて、縁に少しかけた跡があった。


(……あの人、どんな学生だったんだろう)


ふと、そんなことを考えてしまう。佐藤先生は年齢的にも近い。それでも、彼女は生徒たちに自然に話しかけ、笑いながら「こらっ」と注意できる。

自分には──できなかった。だからこそ、彼女の軽やかさに、わずかな憧れがある。それを認めるのが照れ臭くて、つい目を逸らしてしまう。



7.午後の研修


会議室は冷房が効きすぎていた。肩にかかる風が、ワイシャツの繊維をじわじわと冷やしていく。座った椅子の背もたれが硬くて、骨に響いた。

プロジェクターの明かりが、スクリーンの白布を染めている。前に立つのは教頭先生。「SNSを活用した生徒指導事例」と題されたスライドが、順に切り替わっていった。スライドに映る文字を一瞥しながら、落ち着いた声で言った。


「──この件、先週、近隣の高校で実際にトラブルがありました」


《生徒同士のSNSによるトラブル事例》


次のスライドに、画面キャプチャが映し出された。


『昨日のやつ、エロかったなwww』


フォントは丸いゴシック体で、背景は真っ白。そこだけが異様に際立って見えた。


(……これ、聞いたことある)


今日、廊下で──あの女子たちの後ろから聞こえてきた声。胸の奥で、何かが膨らんだ。体の中心で、ひとつだけ“重力”が変わった気がした。


誰かが見ている。

誰かが見ていないふりをして、指先で切り取っている。

誰かが、別の誰かを、データとして「保存」している。


(こんなの、いつから、あたりまえになったんだ……)


「投稿内容がSNS経由で拡散し、当事者が特定され、保護者への説明も複雑化しています。今後、本校でも対応ガイドラインを強化する可能性があります」


その言葉と同時に、冷房の風が、背中を這った。夏の暑さで汗ばんでいたシャツが、急に氷水をかけられたように冷たくなった。空調の音が、耳の奥でぐるぐると響いた。教室の出来事と、他校のトラブルが、一本の線で繋がる感覚。それが「明日かもしれない」という実感に、身体が勝手に反応していた。山田は無意識に喉元へ手をやった。


(ネクタイ……ああ、今日はしてなかったっけ)


でも、締まってくる感覚だけは、まだそこにあった。自分で、自分を縛っていた。


――――――


山田の番になった。当たり障りのない声で、用意してきたスライドを読み上げる。


「……既読確認ができることで、担任として安心できる場面も多く……」

「スタンプの反応で、生徒の受け取りを即時確認することも……」


言いながら、自分でもありきたりな内容なことは分かっていた。


「……以上が、私のクラスのLINE運用になります」


山田が言い終えると、軽い拍手が起こった。形だけの、音だけのものだった。教頭もうなずいたが、何もコメントはなかった。

続いて、隣のクラス担任の山本先生が前に立った。柔らかい表情で、しかし声には張りがあった。


「私のクラスでは、LINEだけでなくZoomも併用しています。春から始めたんですが、面談形式で生徒と顔を合わせると、こちらの声も届きやすいですし、表情の変化にも気づけます」


スライドには、家庭で面談する様子のキャプチャが並び、生徒と保護者が並んで画面に映る写真もあった。


「家庭の雰囲気も良好なことが分かりますし、進路への協力体制も以前より感じます。何より、生徒たちがの安心した顔を見ることができます。病気で休んでいる時こそ関係構築のチャンスだと実感しています」


教頭は山本の発表に満足そうに頷き、「とても意義のある取り組みですね」と声をかけた。その拍手は、さっきのものよりわずかに力があった。


メガネ:「ねえ、徹郎。あなたもZoomくらいやればよかったんじゃない?」


(画面越しの顔なんて、誰にでも作れるだろ……)


そう思ったが、何も言わなかった。言える立場じゃなかった。山田は席に戻ったが、誰とも目が合わなかった。佐藤先生は数列のプリントを見つめていた。山田の方には、顔を向けなかった。


──冷房の風だけが、肩を叩いて通り過ぎていった。


――――――


ファイルを閉じ、溜め息を一つついたそのとき。教頭が静かに近づいてきた。資料を小脇に抱え、声は穏やかだった。


教頭:「山田先生、ちょっとよろしいですか。今後の対応が必要なケースとして、簡単でもいいので、指導改善案──いわゆる対応計画を、文書で提出してもらえると助かります。保護者連携や生徒への接触記録もあれば、なお良いです」

山田:「……あ、はい。LINEの状況だけですけど……」


教頭はにこやかに頷いた。


「現場でどう見てるか、そのままでも大丈夫ですので。先ほどの山本先生の発表もよかったですね。アドバイスを求めてもいいと思いますよ。ではお願いしますよ」


去っていく教頭の背を見ながら、山田は手に持ったファイルを見つめた。


山田:「……制度上は、既読がついてれば“報告済み”だろ」


その時、横を通り過ぎた佐藤先生が、チラとこちらを見て口を開いた。


佐藤:「……そういうとこ、ですよね」


山田は何も言えなかった。



8.プリンと沈黙


研修が終わった職員室は、妙に乾いた空気に包まれていた。さっきまでのスクリーンの光も、他の先生たちの声も、遠い夢のようだった。

山田は自分の机に戻ると、コンビニの袋を開けた。中から取り出したのは、プッチンプリン。誰に見せるでもない小さな儀式。コンビニスイーツ。冷蔵庫の棚の一番奥から選んできた、何の変哲もない黄色の塊。それでも、今日一日の中で唯一「楽しみ」として予約されていた時間だった。


――パキッ


プラスチックの底を外すと、空気が抜けるような音がした。


カップ:「あっあっあ、ダメェ〜。ごめんね、カップの私……また私たち、壊されちゃった……」


山田は、スプーンで少しずつ形を削り、一口、また一口とプリンを口に運ぶ。甘い。どこまでも素直で、裏切らない味。


(……これだけは、昔から変わらない)


カップ:「心配しないで。崩れても、食べられちゃっても、あなたはあなた。私は傷を塞いで待ってるよ。また一つになろう。見てごらん。嬉しそうな顔」

プリン:「うっ、うん、待っててね……わたし、また戻ってくるから……あぁ、私がほぐされていく――サヨナラ……わたし……」


どこかで、自分の“仕事”と似ている気がした。崩さないように、でも削りながら、何かを食べる。


「またプリンですか? 太りますよ〜」


……と言われた気がした。でも、振り返ると、そこには誰もいなかった。自分の隣の佐藤先生の席は空いていた──そう思い込んでいた。けれど、ほんの数席先で、彼女は昼食を広げていた。


向かいに座っていたのは、同じ学年の木村先生。佐藤先生と同年齢で、体育会系でスラっとしていて爽やかだった。


「えー、でもかよちゃん、甘いの好きでしょ?」

「ちょっと! てつろう~、学校ではかよちゃんって呼ばない約束でしょ!こらっ」


二人の笑い声が、職員室の中で自然に溶けていた。


メガネ:「ねえ今、“言われた気がした”って笑ったよね? 誰にも言われてないのに」


山田は、何も言わずプリンにスプーンを差し込んだ。もう一度、さっきのセリフを反芻する。


「……太りますよ〜」


声の調子まで、都合よく脳内で補完されている。それが現実じゃないと気づいた瞬間、さっきまでの甘さが、急に味を失った。食べ終えた容器を手に取ると、少しだけ指に冷たさが残った。その感触が、妙に名残惜しい。


――――――


山田はゴミ箱の蓋を開け、ゆっくりとカップを落とす。


──カタッ


ゴミ箱に蓋をしたその時、部屋に嫌な臭いが少し広がった。


ゴミ箱:「また来たのか。まぁ、ゆっくりしてけ。ここは誰にも責められない。仲間も増える」

カップ:「うん。ありがとう。ちょっとだけ……また休憩するね。誰かがわたしを求めてくれるまで……」

ゴミ箱:「あぁ、おやすみ」


山田は、深く椅子に背を預け、山田はまどろみに沈んだ。



9. 喋りすぎるプリント


──8月中旬。出校日の数日前の夢


山田は天文部の顧問として、夜の校舎にひとり残っていた。この日は、獅子座流星群の観測会。生徒たちは20時には解散していたが、器材の片付けと確認で、まだ理科室に残っていた。

グラウンド脇の観測スペースで、少し前まで望遠鏡を覗いていた生徒たち。その場を離れる直前、山田は熱く語り出した。


「……星っていうのは、エネルギーの名残なんだよ。世界のすべてはエネルギーの形なんだ。たとえば原爆──あれの原理は陽子の崩壊から出るエネルギーだ。逆もある。エネルギーを加えて陽子を作る。遠心加速器でそれが起きるんだ。そうして生まれた陽子や中性子が、核融合して──やがて星になる。つまり、君たちが今見てるあの星も、もともとは目に見えない揺らぎだったってことさ」


生徒たちは誰も口を挟まなかった。ぽかんと空を見ていた子もいた。


「でもそれが……名前になる。“こと座のベガ”とか、“しし座α星”とか、“あなただけの星”になる。それって、すごくないか? “名前がつく”って、存在になるってことなんだよ」


「……じゃあ先生、自分の星はどれなんですか?」


誰かがぽつりと尋ねた。山田は空を仰ぎながら、数秒間沈黙していた。


「……俺か……俺のは……なんだろな……」


それ以上、誰も何も言わなかった。帰りに、その話を覚えている生徒もいなかった。


─────


理科準備室の扉が、冷房の風で微かに揺れている。薄暗い廊下を抜け、教室の電気を点けた瞬間、山田の目に何かが飛び込んできた。一枚のプリント。

誰かの机の下に、くしゃりと落ちていた。拾い上げると、そこには大きなキャラクターの落書きが描かれていた。うさぎのような、ねずみのような、でもどこか「梨花らしい」無邪気さ。そのキャラクターに吹き出しが書いてあった。


キャラ:『ちょっと山田!!またが小さいよ!プリントの声に負けてる!!!』

プリント:『我は語らぬ……ただここに居る。さぁ、読め (´・ω・`) 』


裏には、授業中に書いたとらしき走り書きと、ハートのマーク、そして「早く帰ってアイス食べたい」というコメント。

山田は、梨花のうるさい様子を思い浮かべながら、それをじっと見つめた。


(……梨花がいないと、ちょっと教室が静かなんだよな)


特に心配はしていなかった。夏風邪が長引いていると、家庭から連絡は来ている。梨花のことだから、連絡を返しそびれるのも、珍しいことじゃない。

ふと、窓の外に目をやると、月が浮かんでいた。大きく、丸く、雲の切れ間にぽっかりと。


「なあ、月……お前は、喋りすぎるプリントと、黙ってても気持ちが伝わるノート、どっちがいいと思う?」


月は、黙っていた。でも、黙っていることが、少しだけ答えのように思えた。


「ま、どっちでもいいか」


そう言いながら、プリントをポケットにしまった。それは、ただの落書き付きのプリント。でも、山田にはそれだけで少し救われた気がした。


「祐樹も、頑張ってるみたいだしな……」


静かな教室の中で、誰にも届かない独り言だけが、空気にしみ込んでいった。



10.風呂、石鹸の恋


その夜、山田は早めに帰宅した。玄関で靴を脱ぐと、湿った空気が鼻をついた。朝、雨に濡れた靴下の臭いが、ほんのりと立ちのぼる。何も考えずに、靴下を丸めたまま洗濯機に放り込んだ。洗剤もセットせず、蓋も開けたまま。回す気力すら起きなかった。


「……ただいま」


そう口に出してみたが、返事はなかった。もちろん誰もいない。部屋の明かりを点けた。蛍光灯がジジッと鳴いて、遅れて点いた。エアコンのスイッチを入れると、機械音がうなりをあげ、しばらくして冷たい風が吹き出した。電子レンジの時計は、午前中に停電でもあったのか「0:00」を点滅させていた。冷蔵庫のモーターが唸りをあげ、氷がひとつ割れた音がした。テレビはつけなかった。リモコンには、指が伸びなかった。部屋の中は、音だけは鳴っていた。でも、そこに“会話”はなかった。シャワーだけで済ませるつもりだったが、なんとなく、浴槽に湯を張っていた。蛇口から落ちる水の音が、無音の部屋に優しく満ちていく。脱衣所でシャツを脱ぐ。背中に張りついていた汗が、空気にほどけていく。


(……教師、って顔か?)


鏡に映った自分の顔は、特に何の印象もなかった。疲れているのか、老けてきたのか、よく分からない。でも、湯に沈んでしまえば、そんなことはどうでもよくなる。足から順に、身体を湯に沈める。ぬるりと、皮膚が撫でられていく。棚の石鹸に手を伸ばした。いつも使っている、無香料の白い石鹸。


──ぽきん。


濡れた手で掴んだ瞬間、石鹸が真ん中で割れた。ふたつに分かれた白い塊が、手の中で震えていた。


石鹸(片割れ):「ねぇ、わたし……あなたの匂いがする」

石鹸(もう片方):「きみだって……ぼくと同じぬくもりを持ってる」


ぬるい水のなか、ふたりはぬるりと絡みあい、やがて、一つになった。泡立ち、香り立つ。


石鹸:「徹郎、これは、恋じゃない……。僕をもう一度、割ってくれ……もう一度、別れて……もう一度、恋がしたい」


山田は、その言葉に少しだけ笑った。


(離れられる……からこそ、恋なのか)


石鹸は、再びふたつに割れ、だけど、もう一度――湯船の中で、また溶けあった。


目を閉じる。頭の後ろで、湯音が響く。風呂場のタイルが、自分の背中を抱きしめてくれるような錯覚。世界から切り離されて、ただ“浮かんでいる”状態。


「……カヨちゃん……」


自分でも驚いた。声に出たことに気づかず、数秒遅れて頬が熱くなった。

昼、すれ違ったとき──あのときの髪。ふわりと揺れた髪から、ほんのかすかに甘い香りがした。シャンプーか、柔軟剤か、それとも本人の匂いか。そんなことを気にしてしまう自分に、少しだけ情けなくなる。


山田は湯の底を見つめながら、目を閉じた。その夜の湯は、いつもより長く、肌に沁みた。


──そのとき、親指の爪の付け根に、チクリと痛みが走った。


(……あ)


昼にクリップが刺さった場所。湯でふやけた皮膚が、再び思い出したように痛みを訴える。


(……そうだ。何かが、始まりかけている気がする)


でも、目を閉じる。痛みは、ゆっくりと消えていった。湯からあがって、髪をタオルで拭きながら、山田はぼそりと呟いた。


「……俺はこのまま、傍観者でいいのか」



11.名を呼ばれない者たち


ベッドに体を沈めながら、山田は目を閉じた。枕元の時計が、淡く緑の数字を浮かべている。秒針が静かに回る音が、耳にやさしい。天井の影が、夜の気配にゆっくりと溶けていく。

今日は、よく動いた。よく喋った。よく、黙っていた。名前を呼んだ。でも、誰にも──名前を呼ばれなかった。


ベッド:「徹郎……元気出して……私が癒やしてあげる」


山田:「……うん、ありがとう。ベッド。いつも元気づけられてるよ」


(……あれ?)


誰にも話しかけてないつもりだった。誰にも聞かれてないと思っていた。でも──いつからだろう。“モノ”の声に、僕はいつも、答えていた。

最初は気のせいだと思っていた。たとえば、プリンの声。たとえば、ワイパーの叫び。たとえば、チョークの囁き。全部、ひとりごとの延長だった。でも、それが癖になったら。言葉が戻ってきたとき──それを「他人の声」だと思い込むようになったら。


(……俺は、なんでベッドと話してたんだ?)


ベッドは静かに山田を包んだ。毛布の重さが、腕を縛るように感じられた──いや、違う。毛布じゃない。この沈黙の重さが、自分を押しつぶしていた。


(語らない方が、楽なんだ)


そう思ったとき、山田の口元がほんのわずかに緩んだ。教壇に立ち、名前を呼ぶ。だが、生徒は──誰も徹郎とは返してはくれない。

教師という存在が、「名を呼ぶ」ことによって保たれているとしたら。「名を呼ばれない」ことによって、徐々に、風景と化していくのかもしれない。


でも、それでもいい。呼ばれなくても、そこにいること。触れられなくても、見ていること。

いつか生徒たちが振り返ったとき、教室の隅に“いた”という事実だけが、微かに残っていれば。それで、いい。


電気を消した。カーテンが、かすかに揺れた。風が通りすぎる音が、耳に届いた。


──そのときだった。


ベッド:「……あなた、徹郎、じゃないでしょ?」


山田:「……え?」


言葉を返そうとしたけれど、自分の名前が喉につかえた。声にならない。


(……あれ、なんだっけ。俺の、名前)


メガネは机の上で、静かに曇っていた。


メガネ:「……“徹郎”って、あの体育の先生でしょ?あなた、自分が呼ばれてると思ってたの?」


秒針が止まった。

暗闇のなかで、山田はただ黙っていた。


その夜、“彼”という名の教師は、

静かに“語らぬ者”へと変わっていった。


翌朝、誰も気づかない机の上に、ひとつの眼鏡だけが残されていた。

それは、曇ったまま、微かに揺れていた。


誰もいないはずの空間で──ふ、と埃が舞った。

そのとき、チョークの欠片がわずかに光を反射した。


「……梨花」


それは、“彼”の声だった。


だが、誰の口も動いていなかった。

音は、空気の裂け目から漏れ出したように、ただ存在していた。


チョークの欠片は震え、わずかに机の端へ転がった。


カツン──


その音が教室に響いたとき、

誰もいないはずの黒板に、文字がひとつ、現れていた。


──梨花、待ってるよ


by 山田太郎先生

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