第7話「幼馴染の決意」
その夜、玲は自分の部屋で一人考え込んでいた。
屋上での奈々美の冷たい言葉が、胸に突き刺さったままだった。
「私のものなの」
その宣言の仕方は、普通の恋人同士のものではない。何かが違う。元樹の表情にも、以前のような自然さがない。
玲は窓辺に立ち、元樹の家がある方角を見つめた。
幼い頃からずっと一緒だった元樹が、急に遠い存在になってしまった。
『何かおかしい』
玲の直感がそう告げている。でも、恋人ができた友人に首を突っ込むのは適切ではないだろうか。
スマホを手に取り、元樹にメッセージを送ろうかと考える。
しかし画面を見つめたまま、結局何も送れなかった。
一方、奈々美は自分のアパートで一人微笑んでいた。壁に貼られた元樹の写真が、月明かりに照らされている。
養護施設にいた頃から集めていた、元樹に関する情報。引っ越し先を調べ、成長過程を追跡し、ついに再会を果たした。
「やっと手に入れた」
小さく呟きながら、奈々美は写真を愛おしげに撫でる。
その写真には、幼い元樹が玲と一緒に笑っている姿が写っていた。
「でも、もう邪魔者はいない」
奈々美の瞳が、狂気的に光る。
長年の計画が、ついに実を結ぼうとしていた。
翌朝、元樹は重い足取りで学校に向かった。
案の定、奈々美が待っている。
「おはよう、元樹くん。昨夜はよく眠れた?」
「……普通だ」
「そう。でも少し疲れて見えるわ」
奈々美は心配そうに元樹の顔を覗き込む。その仕草は恋人らしいが、元樹には監視されているようにしか感じられない。
教室に着くと、玲はいつもより早く席についていた。元樹と目が合いそうになると、慌てて視線を逸らす。
その様子を見て、奈々美は満足そうに微笑んだ。
昼休み、元樹は奈々美と一緒に弁当を食べていた。
その時、玲が友人の山田未菜と一緒に教室を出て行くのが見えた。
「上野さん、最近あの子とお昼を食べてるのね」
奈々美が何気なく呟く。
「可哀想に、教室では食べれないのね」
その言葉に、元樹の胸が痛む。俺との関係がぎくしゃくして、居心地が悪いだけだ。
「玲は……」
「玲?」
奈々美の声が急に冷たくなる。
「まだそんなに親しげに呼ぶのね」
「いや、そういう意味じゃ……」
「どういう意味?」
奈々美の瞳が鋭く光る。
その迫力に、元樹は萎縮してしまう。
「上野さん、でいいでしょう?」
「……分かった」
元樹は屈服するしかなかった。
奈々美は再び優しい笑顔を浮かべる。
「そうよ。あなたは私だけのものなんだから」
放課後、玲は一人で図書館に向かった。最近は元樹と一緒に帰ることもなく、一人で過ごす時間が増えている。
図書館で本を選んでいると、背後に気配を感じた。
振り返ると、奈々美が立っていた。
「あら、上野さん。偶然ね」
「奈々美さん……」
玲は身構える。
昨日の屋上での出来事が蘇り、緊張が走る。
「一人なのね。元樹くんは生徒会の仕事があるから、時間を潰してるの」
奈々美は自然な口調で話すが、その瞳には冷たい光がある。
「そうなんだ」
玲は距離を保とうとするが、奈々美が一歩近づく。
「あなたに話があるの」
「話?」
「元樹くんのことよ」
奈々美の声が低くなる。
「もう彼に近づかないで」
その直接的な要求に、玲は困惑する。
「私は別に……」
「嘘よ。あなたはまだ彼を諦めていない」
奈々美の指摘に、玲は動揺する。
確かに元樹への想いはあるが、それを口にしたことはない。
「そんなこと……」
「女の勘よ。あなたの元樹くんを見る目、私には分かるの」
奈々美は一歩また一歩と近づく。
「でも無駄よ。彼は私を選んだの。あなたじゃなく、私を」
その言葉に、玲の心が痛む。
確かに元樹は奈々美を選んだ。それは事実だ。
「だから……」
奈々美の声がさらに低くなる。
「もう諦めなさい」
図書館での出来事の後、玲は一人で考え込んでいた。
奈々美の言葉は確かに的を射ている。
自分は元樹への想いを諦めきれずにいる。
しかし、何かがおかしい。
元樹の様子、奈々美の威圧的な態度、全てが不自然だ。
『元樹は本当に幸せなの?』
玲の心に疑問が浮かぶ。
友人として、元樹の真の気持ちを確かめる必要があるのではないか。
スマホを手に取り、今度こそ元樹にメッセージを送ることにした。
『元樹、今度二人で話さない? 大切な話があるの』
送信ボタンを押した後、玲は不安と決意を胸に抱いていた。
夜、元樹は部屋で玲からのメッセージを見つめていた。
返信したい気持ちと、奈々美への恐怖が入り混じる。
もし奈々美に知られたら、玲に何をするか分からない。
しかし、玲の「大切な話」という言葉が気になって仕方がない。
結局、元樹は短い返信を送った。
『今は難しい。ごめん』
その返信を送った後、元樹は深い自己嫌悪に陥った。
幼馴染を突き放すような冷たさに、自分でも嫌になる。
しかし、これが玲を守る唯一の方法だと信じるしかなかった。
翌朝、奈々美は元樹の様子を注意深く観察していた。
「昨夜、何かあった?」
「別に何も」
元樹の嘘を見抜きながら、奈々美は表面的には優しく微笑む。
「そう。でも何かあったら、すぐに私に相談してね」
その言葉には、暗黙の脅しが込められていた。
元樹は頷くしかない。
「ところで」
奈々美が歩きながら口を開く。
「上野さんから連絡とか、来てない?」
ぎくり、と元樹の心臓が跳ねる。
奈々美の洞察力の鋭さに、改めて恐怖を感じる。
「……特に」
「そう。もし来ても、無視してね」
その命令に、元樹は重く頷いた。
教室に入ると、玲は元樹の返信を受け取った後の複雑な表情を見せていた。
元樹との距離がさらに広がったことを実感し、傷ついている。
奈々美はその様子を見て、内心で勝利を確信する。
しかし玲の諦めない眼差しに、微かな警戒も感じていた。
授業中、玲は何度も元樹の方を見ようとする。
しかし元樹は頑なに視線を避け続ける。
その光景を見て、クラスメートたちも微妙な空気を感じ始めていた。
昼休み、奈々美は元樹と弁当を食べながら、常に玲の動向を監視していた。
玲は一人で弁当を食べ、時折元樹の方を見ては寂しそうに目を伏せる。
「可哀想ね、上野さん」
奈々美が小さく呟く。
「友達を失うって、辛いでしょうね」
その言葉に込められた冷酷さに、元樹は胸が痛む。
「でも仕方ないわ。恋人ができれば、友人関係も変わるもの」
奈々美の論理は表面的には正しい。
しかし、その裏にある悪意を元樹は感じ取っていた。
放課後、元樹は奈々美と一緒に帰ろうとしていた。
しかし靴箱の前で、玲が待っていた。
「元樹」
玲が声をかけた瞬間、奈々美の表情が凍りつく。
「何の用?」
奈々美が割って入る。
「元樹と話があるの」
玲は毅然として答える。
「彼氏のいる男性と、二人で話すことなんてないでしょう」
奈々美の声は氷のように冷たい。
「友達として話があるの」
「友達?」
奈々美が嘲笑する。
「恋人がいる男性に執着する女性を、友達とは呼ばないわ」
その屈辱的な言葉に、玲の顔が青ざめる。
しかし彼女は引き下がらない。
「元樹、あなたはどう思うの?」
玲が直接元樹に問いかける。
その瞬間、元樹は二人の視線に挟まれた。
奈々美の眼差しには警告が、玲の瞳には懇願が込められている。
「俺は……」
元樹が口を開きかけた時、奈々美が割って入る。
「元樹くんは忙しいの。行きましょう」
奈々美は強引に元樹の腕を引く。
元樹は玲を見つめたいが、奈々美の力に逆らえない。
玲は一人残され、二人の後ろ姿を見送った。
その表情には、深い絶望が浮かんでいた。
その夜、元樹の部屋に電話が鳴った。
番号を見ると、玲からだった。
元樹は迷ったが、結局電話に出る。
「もしもし……」
『元樹? 良かった、出てくれて』
玲の声は安堵に満ちていた。
「玲……」
『話したいことがあるの。明日、放課後に……』
「だめだ」
元樹は慌てて遮る。
「なんで?」
『元樹、おかしいよ。最近の様子、全然普通じゃない』
玲の指摘に、元樹の心が揺れる。
「そんなことない」
『嘘。私にはわかる。何か隠してるでしょう?』
玲の声が心配そうになる。
『もしかして、奈々美さんに何かされてるの?』
その質問に、元樹の血が凍る。
玲の勘の鋭さに驚愕する。
「そんなわけ……」
『元樹、私はあなたの幼馴染よ。あなたの変化は誰よりもわかる』
玲の声が涙声になる。
『お願い、本当のことを教えて』
元樹は答えたかった。
全てを話して、玲に助けを求めたかった。
しかし奈々美の脅しが頭をよぎる。
玲に危害が及ぶ可能性を考えると、口を閉ざすしかない。
「何でもないって」
『元樹……』
「もう電話しないでくれ」
その冷たい言葉に、玲は息を呑む。
『どうして……』
「玲との関係は、もう終わりなんだ」
嘘の言葉を紡ぎながら、元樹の心は引き裂かれる。
『そんな……嘘でしょう?』
「本当だ。俺には奈々美がいる」
電話の向こうで、玲が泣いているのが分かる。
その声を聞いて、元樹も涙が溢れそうになる。
「ごめん……」
小さく謝って、元樹は電話を切った。
その夜、元樹は初めて声を殺して泣いた。
玲を傷つけることの辛さと、自分の無力さに打ちのめされて。
翌朝、元樹は真っ赤に腫れた目でぼんやりと歩いていた。
昨夜の玲との電話が、心に深い傷を残している。
いつものように奈々美と遭遇するが、今朝の彼女は機嫌が良さそうだった。
「おはよう、元樹くん。よく眠れた?」
「……ああ」
「そう。でも目が赤いわね」
奈々美の観察眼に、元樹は内心驚く。
「何かあったの?」
「別に……」
「嘘ね。きっと上野さんから電話があったのでしょう」
その指摘に、元樹の心臓が止まりそうになる。
奈々美はどこまで知っているのか。
「どうして……」
「女の勘よ」
奈々美は満足そうに微笑む。
「でも大丈夫。きちんと断ったでしょう?」
元樹は頷くしかない。
「良い子ね」
奈々美は元樹の頬を優しく撫でる。
その仕草は愛情深く見えるが、実際は支配者の余裕だった。
教室に入ると、玲は既に席についていた。しかし昨夜とは違い、元樹を見ようともしない。
その冷たい態度に、元樹は胸が締め付けられる。自分が選んだ道とはいえ、玲を失うことの辛さは想像以上だった。
奈々美はその様子を見て、完全な勝利を確信する。長年の計画が、ついに完遂されようとしていた。授業中も、玲は一切元樹の方を見なかった。
その徹底した無視が、二人の関係の終焉を物語っている。元樹は授業に集中できず、ただ虚無感に支配されていた。
昼休み、玲は一人で屋上に向かった。
教室にいると、元樹と奈々美の親密な様子を見せつけられるからだ。
屋上で一人弁当を食べながら、玲は涙を堪える。
幼い頃からの友情が、こんな形で終わるとは思わなかった。
「元樹……」
小さく名前を呟いて、玲は空を見上げる。
青い空が、やけに遠く感じられた。
一方、教室では奈々美が元樹に甘く話しかけている。
「上野さん、今日は一人なのね」
「……そうみたいだ」
「可哀想に。でも仕方ないわ」
奈々美の言葉に、元樹は何も答えない。
玲の孤独を見て、罪悪感に苛まれているのだ。
「でも心配しないで。あなたには私がいるから」
その慰めの言葉が、元樹には呪いのように聞こえた。
放課後、玲は一人で下校していた。いつもなら元樹と一緒だった道を、今は一人で歩く。
その寂しさは想像以上に辛く、足取りも重い。
しかし玲の心には、一つの決意が芽生えていた。
『諦めない』
元樹の様子は明らかにおかしい。
何かに脅されているか、操られているかのようだ。
友人として、幼馴染として、そんな元樹を放っておくわけにはいかない。
玲は立ち止まり、振り返って学校を見つめた。
その瞳には、強い決意の光が宿っている。
「絶対に元樹は渡さないから」
小さく呟いて、玲は歩き続けた。
戦いは、まだ始まったばかりだった。
その頃、奈々美は完全な勝利を確信していた。
玲を退け、元樹を手に入れた今、もう怖いものはない。
アパートに帰ると、壁の元樹の写真に向かって微笑む。
「やっと私たちだけになれたわね」
しかし奈々美は、玲の諦めない性格を過小評価していた。
幼馴染の絆は、そう簡単には切れるものではない。
嵐の前の静けさが降りていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
奈々美の支配はますます強固なものとなり、玲と元樹の関係は断絶の危機に追い込まれてしまいました。
けれども、幼馴染としての玲の決意が、この物語に新たな希望の灯をともしています。
一見すると奈々美の勝利に見える結末ですが、その裏では確実に「嵐の前の静けさ」が広がり始めています。
果たして玲は奈々美の執着と狂気に立ち向かえるのか。そして元樹は自分の心の声を取り戻せるのか。
次回、彼らの関係がどのように揺れ動くのか、ぜひ楽しみにしていただけたら嬉しいです。
暁の裏




