第4話「休日のざわめき」
日曜の朝。
元樹は、ゆっくりと目を開けた。
目覚ましは止めた覚えがないのに鳴らなかった。いや、鳴ったのに気づかなかったのかもしれない。
布団の中はまだぬくもりを残しているが、胸の奥には嫌な重さが居座っていた。
――夢。
公園で女の子がこちらを見ていた。
目覚めた今も、まるで現実にいたかのように鮮やかに残っている。
「……くそ」
額を手でぬぐい、布団を蹴飛ばす。
部屋着に着替え、重い足取りで階段を下りると、食卓からパンとスープの匂いが漂ってきた。
「お兄ちゃーん、やっと起きてきた!」
台所からひょいと顔を出したのは、妹の渡部由美だった。
中学二年生の彼女は髪をひとつに結び、スポーツバッグを足元に置いている。
部活に行く準備はもう整っているようだった。
「おはよ、由美」
「ん、おはよ。っていうか遅い! もう九時だよ。お兄ちゃんの休日の朝っていつもこれ? 怠惰の極み」
にやにや笑いながらジャージ姿でパンをかじる妹を見て、元樹は少しむっとした。
「うるせぇな。昨日ちょっと疲れてただけだ」
「どうせゲームで夜更かしでしょ? また玲さんに怒られるんじゃない?」
「……関係ないだろ」
からかう妹に反論しながらも、玲の名前が出た瞬間、少し胸がざわつく。
妹はその反応を見逃さず、さらにニヤリと口角を上げた。
「図星だ。まあ、玲さんに嫌われたら私まで困るからね。私にもよくしてくれるし」
「お前……」
由美は無邪気にそう言うが、元樹にとっては冗談半分でも引っかかる言葉だった。
玲との関係は大事だ。だが――昨日から心を占めているのは、別の誰か。
由美はパンをもぐもぐさせながら、さらっと話題を変えた。
「そういえばさ、昨日転校してきた子、すっごい美人なんでしょ? 柊さんっていうんだよね」
「……っ」
奈々美さんの名前が出た瞬間、元樹は息を詰める。
放課後の教室で交わした言葉が耳の奥に蘇る。
――幼馴染って、特別だよね。
「なに、気になってるの?」
由美がにやにや笑う。
「……気になってねぇよ」
少し強めに返すと、由美は目をぱちくりさせたが、すぐに「はいはい」と肩をすくめる。
「ふーん。でもね、うちの友達が言ってたんだ。“すっごい綺麗で大人っぽいけど、なんか冷たそうで怖い”って」
「……」
心臓が一度強く跳ねる。
奈々美さんの、笑っていない目。
あの瞬間を思い出し、無意識に喉が鳴った。
「私は憧れるけどなぁ。ああいうお姉さんみたいな人って、かっこいいじゃん?」
「……お前、中二だろ」
「え、なに? バカにしてる?」
由美はじろりと兄を睨み、すぐにまた笑った。
「ま、どうせお兄ちゃんには高嶺の花だよ」
「……余計なお世話だ」
兄妹らしい口喧嘩をしながらも、元樹の心の中では“冷たい美しさ”が別の重さを持って沈んでいた。
由美はパンとスープを平らげると、スポーツバッグを肩にかけて立ち上がった。
「じゃ、部活行ってくる! お兄ちゃん、ちゃんと部屋片づけて、あと顔洗っときなよ。誰かに会うかもしれないんだから」
言い残して元気よく玄関に消えていく。
残された元樹は、冷めかけたトーストをかじりながら小さく息を吐いた。
(……由美は、何も知らないんだな)
その無邪気さが逆に心をざわつかせた。
由美が部活に出て行ったあと、家の中は急に静かになった。
台所の片づけの音も、時計の針の音も、すべてがいつもより大きく、耳につく。
朝の光は柔らかいのに、心の奥では昨日の記憶がざわつき、安らぐ暇を与えてくれなかった。
元樹はテーブルに置いたスマホを手に取り、ぼんやりと画面を眺める。
「玲……今日は部活かな。それとも休みか」
頭の中で考えが堂々巡りする。
昨日の奈々美の言葉や視線、そして由美の軽口も同時に思い出され、胸の奥の違和感が増幅される。
――幼馴染って、特別だよね。
由美の無邪気な笑顔と、奈々美の冷たい瞳。
その対比が頭の中でちらつくたびに、元樹は小さく息を吐き、スマホを握りしめた。
そのとき、スマホが震えた。
元樹は一瞬、何が起きたのか分からず手を止めた。
画面に浮かんだ名前は「上野玲」。
小さな通知音が、静まり返ったリビングに響く。
(……メールか?)
指先で画面をタップし、表示された文面を読む。
『元樹、今日ひま? 駅前でお昼一緒に食べよ』
その一文は、まるで朝のざわつきを一瞬で溶かすかのように、胸の奥に温かいものを届けた。
玲は昔からそうだ。思ったことをすぐ口にする。
飾らず、自然体。
その姿が、どれだけ心を軽くしてくれるか、元樹は知っている。
(……行くか)
指先で返信を打ち込みながらも、心臓が微かに高鳴る。
返信を送り終えると、安堵感がほんの少しだけ広がった。
だが同時に、視線を感じる。
背筋に寒気が走り、思わず窓の外に目を向ける。
青い空。
近所の子供たちの声。
風で揺れる木々の葉。
目に映るすべては、休日らしい穏やかな風景なのに、なぜか心は落ち着かない。
(……誰かに見られてる気がする……)
昨日の奈々美さんの顔が、目の前に鮮明に浮かんだ。
微笑む口元とは裏腹に、瞳の奥には計り知れない冷たさがあった。
それが現実なのか、ただの思い込みなのかは分からない。
ただ、確かに胸の奥でざわつくものは現実として存在していた。
元樹はスマホを置き、背もたれに寄りかかる。
窓から差し込む光に目を細めながら、由美との会話を思い返した。
「お兄ちゃん、柊さんってすっごい美人なんだって」
「……っ」
由美の無邪気な言葉は、どこか毒にもなり、奈々美の影をより濃くする。
元樹は肩を落とし、ため息をつく。
(……俺、何でこんなに気にしてるんだ……)
さらに思い出すのは、由美の茶化す笑顔。
「なに、気になってるの?」
「気になってねぇよ」
つい強めに返してしまったことも、今思えば自分の心の弱さを突かれたようで恥ずかしい。
それでも、由美の言葉には温かさもあった。
無邪気で、怖さを知らない妹の純粋さが、かえって奈々美の影を際立たせる。
スマホの画面を見つめながら、元樹は思った。
(……昼、駅で会うだけ。玲と会えば、少しは落ち着くはずだ……)
けれど心の奥では、奈々美さんの影がまだ消えていなかった。
あの瞳の奥にある冷たさ。
自分をじっと見つめる視線。
そして「幼馴染って、特別だよね」という言葉が、耳の奥で繰り返される。
元樹は椅子に深く座り、ゆっくりと息を吐いた。
目を閉じて、頭の中で整理しようとする。
だが、頭の中のざわめきは静まらず、逆に膨らんでいった。
「……まあ、駅前に行けば、玲の顔を見れば……少しは……」
つぶやく声も、小さく途切れてしまった。
休日の朝の平穏は、既に奈々美さんの影によってかすんでいた。
駅前の時計は正午を少し回ったところだった。
元樹は改札を抜け、少し早歩きで待ち合わせ場所に向かう。
休日の駅前は普段より人の流れが多く、子供連れや買い物客の笑い声が響く。
だが、元樹の胸のざわめきは、にぎやかな風景にかき消されることはなかった。
「元樹!」
突然の声に振り向くと、玲がにこにこと手を振っている。
「おお、玲。今日は誘ってくれてありがとう」
「うん、楽しみにしてたんだ。元樹とゆっくり話すの久しぶりだし」
その笑顔に、胸のざわつきが少しずつ溶けていくのを感じる。
玲といると、不思議と落ち着く――そう、由美との朝のやり取りの後でも、心を和らげる力があるのだ。
二人は駅前の小さなカフェへ向かう。
木目調のテーブル、窓際の柔らかい光。
店内にはコーヒーの香りと、ランチを楽しむ学生や家族連れの笑い声が混ざっていた。
席に座ると、元樹は窓際の席、玲は向かい側に座った。
「何食べようか?」
「うーん、私はパスタがいいかな。元樹は?」
「俺も同じのにするよ」
注文を決める間の、なんでもない会話。
それだけで、心の奥のざわつきが少しずつ落ち着く。
玲の声、笑い方、仕草――全てが自然で、元樹は思わず見とれてしまう。
「元樹、最近どう? 学校とか家のこととか」
「えっと、まあ普通かな……由美がうるさいくらいで」
「えへへ、そうなんだ」
玲はにこっと笑い、両手であごを支えて話を聞いてくれる。
その笑顔に、元樹はほんの少し心が軽くなるのを感じる。
だが、ふと頭の中に奈々美の姿がよぎる。
その影が、ふとカフェの明るい光の中にもちらつく。
「元樹、大丈夫? なんか考え込んでるみたい」
玲が顔を覗き込む。
「いや、なんでもないよ」
心臓が少し速くなる。
玲に余計な心配をかけたくなくて、平静を装う。
料理が運ばれてくると、少しずつ会話は日常的な話題に戻る。
パスタの香り、窓から差し込む光、店内のざわめき。
元樹はゆっくりと呼吸を整え、目の前の玲の笑顔に集中した。
「これ、美味しいね」
「うん、ここのパスタ、麺がもちもちで私もお気に入りなんだ」
「そうか、じゃあ俺も正解だな」
「ふふ、元樹らしい反応だね」
玲の笑い声に、元樹はつい微笑む。
少しだけ、心の奥のざわつきが和らぐ。
でも、頭の片隅には常に奈々美さんの影がちらついていた。
あの冷たい瞳、あの言葉――忘れたくても、簡単には忘れられない。
「そういえば、由美ちゃんは今日部活?」
「うん、朝には出ていったよ。なんかいろいろ言われたけど」
「ふーん。でもさ、由美ちゃんってほんと元樹のことよく見てるよね。ま、兄妹だしね」
その言葉を聞いて、元樹は少し照れ笑いをする。
玲は無邪気に微笑み、空気は穏やかになった。
しかし、ふと店の外を見ると、日差しに紛れて、どこか遠くに黒い影のようなものを感じる。
――気のせい、か。
元樹は呼吸を整え、再び目の前の玲に視線を戻す。
今日のこの時間、ただ二人で過ごせる平穏を大事にしたい。
だが、胸の奥にある違和感は、まだ完全には消えていなかった。
カフェを出て駅前で玲と別れたあと、俺は少し離れた街まで足を延ばそうとしていた。
休日らしい陽射しの中、ショッピング客や学生の声がにぎやかに響く。
気分は軽いはずだった。玲との昼食は、心の中のざわつきを一瞬だけ溶かしてくれた。
――でも、頭の片隅には昨日の奈々美さんの影が残っている。
人混みを歩いていると、ふと視界の端に見覚えのある姿が映った。
背筋をぴんと伸ばし、前髪の一部が風に揺れる女の子。
――奈々美さんだ。
「……っ!」
思わず足を止める。
笑顔は柔らかいが、瞳の奥には計算された冷たさがある。
まるで、元樹の心の動きを確かめるようにじっと見つめている。
「渡部くん、偶然ね」
奈々美の声は柔らかく響く。
だがその響きには、背筋をぞくりとさせる感覚があった。
元樹は一歩後ろに下がり、ぎこちなく返す。
「え、あ……ああ、柊……」
奈々美は首を少し傾げ、にやりと笑う。
「今日は一人?」
「え、あ、まあ……ちょっとね」
咄嗟に答える元樹。心臓が早鐘のように打つ。
「ふふ、だったら……一緒に遊ばない?」
奈々美さんは軽く手を横に振り、誘うような笑みを浮かべる。
元樹は一瞬固まる。
昨日の教室での視線、放課後に見た裏の表情、「幼馴染って特別だよね」という言葉――
全てが頭の中で渦巻き、胸の奥にざわめきを起こす。
「え、あ、あの……」
返事を詰まらせる元樹に、奈々美はさらに近づき、少し低く声を落とした。
「いいのよ、無理にとは言わない。でも、一緒に遊ぶのも楽しいと思うの」
その声と笑顔に、元樹はつい承諾してしまう自分に気づいた。
(……何でこんなに言われるとドキドキするんだ……)
「……わ、分かった」
奈々美は満足そうに微笑むと、元樹の横に並んで歩き出した。
休日の街のざわめき、笑い声、日差しの柔らかさ――
すべては平穏な風景のはずなのに、心の奥では奈々美さんの影が冷たく揺れていた。
――今日の休日も、平穏には終わらなそうだ。
元樹は小さく息を吐き、背筋を伸ばして前を向いた。
奈々美さんの視線が、少しずつ彼を捕らえて離さないことを感じながらも、足を進めるしかなかった。
街を歩いている途中、元樹と奈々美さんは小さなゲームセンターの前に立った。
「ねえ、渡部くん、ちょっと遊んでいかない?」
奈々美の声は柔らかいが、瞳の奥には何かを計るような光があった。
元樹は心臓が少し高鳴りながら、頷いた。
店内はカラフルなライトと電子音でにぎやかだった。
二人はクレーンゲームのコーナーに進む。
俺は、前から欲しかったアニメのフィギュアが入った台に釘付けになる。
「うわ……これ、ずっと狙ってたんだよな……」
「ふふ、渡部くんが欲しいやつね?」
奈々美がにっこり笑う。
その笑顔に胸がざわつく。
無邪気な表情なのに、なぜか心臓が締め付けられるようだ。
元樹はコインを入れ、レバーを握る。
「よし、慎重に……」
クレーンがゆっくりと動き、狙ったフィギュアの真上に来る。
しかし特にうまくもない俺がやった所で結果は見えていた。
「……くっ、全然ダメだ……」
何回か挑戦して、店員さんに初期位置に戻してもらったりもしたが全然とれなかった。
諦めて台を離れようとしたら店内の音に紛れてぼそっと声が聞こえる。
「ふふっ、私が取ってあげる」
その瞬間、奈々美さんが軽やかにコインを入れ、スッと操作を始めた。
「見てて」
クレーンが正確に動き、箱を掴む。
「えっ……」
元樹は思わず息を飲む。
奈々美さんはあっさりと、狙っていたフィギュアをワンコインで景品口に落としてしまったのだ。
「やった……! 取れた!」
「……まじかよ」
思わず声が震える元樹。
奈々美さんはにこっと笑い、元樹にフィギュアを差し出す。
「ふふ、渡部くんの好きなやつ、私が取ってあげた」
その瞬間、元樹の心は複雑な感情でいっぱいになった。
嬉しい……けど、同時に悔しい。
そして、なぜか胸の奥で、奈々美の特別感が強く押し寄せる。
「ありが……ありがとう……」
元樹はぎこちなく受け取り、フィギュアを握る手が少し震えた。
奈々美さんはその様子を見て、微かに口角を上げる。
「ふふ、喜んでくれた?」
「う、うん……」
元樹は心臓の高鳴りを抑えながら、フィギュアを大事そうに抱える。
楽しい遊びのはずなのに、胸の奥には奈々美の計算された微笑みと、昨日の裏の顔の影がちらついていた。
「もう一回やる?」
「いや、今日はこれくらいで……」
「ふふ、そう。じゃあ、少し街を歩こうか」
元樹は頷き、奈々美さんと肩を並べて歩き出す。
街のざわめき、照明の明かり、笑い声――
全てが休日らしい穏やかさを演出しているはずなのに、心の奥で奈々美の影が冷たく揺れていた。
クレーンゲームでフィギュアを手に入れた奈々美さんと元樹は、ゲームセンターを出て街を歩き始めた。
休日の通りは人で賑わい、カフェや雑貨店から漂う香りが混ざり合っている。
元樹はフィギュアを大事そうに抱えながら、胸の高鳴りを抑えようと深呼吸をする。
「渡部くん、これ、すごく喜んでくれたでしょ?」
奈々美さんは少し楽しげに、でも意図的に元樹の反応を確認するように声をかけてくる。
「う、うん……すごく……ありがとう」
元樹はぎこちなく答える。
奈々美さんの腕の良さと、さりげなく距離を詰める仕草に、心臓が跳ね上がるのを感じる。
「ふふ、じゃあ、この後どこか寄り道しよっか」
その笑顔は無邪気だが、どこか計算されたものに思える。
元樹は一瞬ためらうが、遊びに来ているのだから――と自分に言い聞かせる。
「え、どこに行くの?」
「うーん……近くに面白そうな雑貨屋さんあるから、ちょっと見てみようかな」
二人は自然な足並みで歩く。
奈々美は時折元樹のフィギュアを覗き込み、「やっぱりかわいいね」と微笑む。
元樹は少し赤くなりながら、フィギュアを胸に抱え直す。
だが、ふと通りの反射で、奈々美さんの瞳が一瞬鋭く光るのに気づく。
昨日の教室での裏の表情と同じ、冷たく計算された光。
その瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられ、思わず歩調が止まる。
「大丈夫? 渡部くん」
「え、あ……う、うん、大丈夫」
奈々美さんは楽しげに笑いながら、肩を軽くぶつけてくる。
元樹は胸の奥でざわつきながらも、表情には出さずに微笑む。
――楽しいはずの休日。
でも、この小さな街のざわめきの中で、奈々美の影が胸の奥にじわじわと広がっていた。
雑貨屋を出て少し歩くと、街角の交差点が見えてきた。
「ここで曲がると、家に戻る道だね」
奈々美が少し寂しそうに言う。
「うん、ありがとう。今日は楽しかった」
元樹もぎこちなく答える。
一緒に遊んでいる間は、楽しい時間に夢中だった。
でも今、別れが近づくと、胸の奥に小さな緊張感が広がる。
奈々美さんはにこっと笑い、少し前髪を直す。
「ふふ、私も楽しかったよ。渡部くんと一緒だと、なんだか安心するから」
その笑顔は無邪気に見えるが、元樹の心はざわつく。
昨日の教室で見た冷たい瞳、放課後の裏の表情――
その影が、ふと笑顔の裏に隠れているように思えた。
「……じゃあ、またね」
元樹は小さく頷き、手を軽く振る。
「うん、また……」
奈々美さんはそのまま交差点の向こうに歩いていく。
後ろ姿を見送る元樹は、少し寂しさを感じつつも、胸の奥でほっとした気持ちもあった。
――でも、何かがまだ引っかかっている。
元樹は街のざわめきを聞きながらゆっくり歩き出す。
風で揺れる街路樹の影や、買い物客の笑い声――
休日らしい景色の中に、奈々美の影がほんの少しだけ残っているのを感じながら。
背筋を伸ばして前を向く。
今日の楽しい時間と、奈々美さんの微かな裏の顔――
両方を胸にしまいながら、元樹は自分の家へ向かって歩き続けた。
奈々美さんを見送った元樹は、夕暮れ色に染まる街をゆっくり歩いた。
ゲームセンターや街を歩いた時間の楽しさが、少しずつ心に温かさを残す。
けれど、奈々美さんの視線やあの計算された微笑みが、頭の片隅にちらつき、胸の奥に小さなざわめきを残していた。
家に着くと、玄関のドアを開け、靴を脱ぎながら深呼吸をする。
「……今日は楽しかったな」
玲と過ごした時間、奈々美さんと街を歩いた時間――
休日の2つの出来事が、胸の中で小さく輝いていた。
部屋に入り、机の上に今日取ったフィギュアの箱を置くと、元樹は椅子に腰かけて軽くため息をつく。
「……でも、柊、なんか怖いな……」
微かにぞくっとする感覚が残る。
あの笑顔の裏に、どんな顔が隠れているのか――
思わず背筋を伸ばす。
夕食の時間が近づき、リビングから由美の声が聞こえる。
「お兄ちゃん、おかえり!」
元樹は笑顔を返しながら、「ただいま」と答える。
由美の無邪気な声に、少し心が落ち着く。
部屋に戻ると、フィギュアを眺めながら、今日の出来事を思い返す。
玲と楽しく過ごした時間、奈々美さんと歩いた時間、
どちらも心に残る思い出になった。
窓の外には、夜空が静かに広がっている。
街灯の光が柔らかく道路を照らし、遠くで子供の声が消えていく。
元樹はゆっくりと深呼吸し、今日の一日を胸の中で整理した。
「……今日は、楽しかったな」
少しだけ笑みを浮かべ、ベッドに腰を下ろす。
フィギュアを開封した後、心のざわめきと共に目を閉じる。
――休日は終わり、明日はまた学校が始まる。
でも今日の出来事は、元樹の心に小さな光を残したまま、静かに一日を閉じていった。
今日は元樹と奈々美、そして少しだけ玲との休日を描きました。
楽しい時間の裏に、ほんの少しざわつく心――
そんな「日常の中の非日常」を感じてもらえたら嬉しいです。
次回も、元樹の日常に少しずつ入り込む奈々美の影と、彼の揺れる心を描いていきます。
どうぞお楽しみに。




