第3話 「夢に揺らぐ記憶」
キーンコーンカーンコーン――。
昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間、それまで張り詰めていた教室の空気が一気に解放された。
鉛筆を置く音、教科書を閉じる音、机を寄せ合う音があちこちから響き、教室のざわめきは昼の喧騒に変わっていく。
「元樹、昼ごはんどうする?」
玲が振り向きながら声をかけてきた。
部活帰りの疲れがまだ残っているはずなのに、その声は軽やかだった。
「……弁当持ってきてるから、ここで食うよ」
そう答えた瞬間、教室の出入り口の方から明るい声が飛んできた。
「玲ー! 一緒に食べよー!」
振り返ると、栗色の髪をツインテールにした女子が手を振っていた。
山田未菜――玲の隣のクラスにいる友達だ。
噂通り、明るくて人懐っこい雰囲気で、玲とは正反対のタイプ。
「未菜ちゃん!」
玲がぱっと笑顔を向けると、その表情はさらに明るさを増した。
「今日さ、購買でパン買ったんだ。玲の分も買っといたよ!」
未菜は紙袋を掲げて得意げに笑った。
「ほんと? ありがとー! 助かる!」
玲の声は嬉しさで弾み、前の席からくるりと振り返った。
そして俺に向けて、少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「元樹……ごめんね。今日は未菜ちゃんと一緒に食べてくるね」
「気にすんなよ。楽しんでこい」
努めて軽く返す。
「ありがと。じゃあ、またあとでね」
玲は椅子から立ち上がり、未菜と並んで教室を出ていった。
二人の笑い声が遠ざかり、俺の前の席は空っぽになった。
◇ ◇ ◇
俺は弁当箱を取り出し、ふたを開ける。
母親が作ってくれた馴染みの弁当。卵焼き、ウインナー、ほうれん草のおひたし。
けれど、さっきまで玲がいた席がぽっかりと空いているのを見て、なぜか味気なさが広がった。
ふと隣に目をやる。
奈々美さんは、静かに自分の弁当を広げていた。
整然と詰められたおかず、無駄のない所作。
昼休みの喧騒の中で、彼女だけが異質な静けさをまとっている。
そして、玲が出て行った瞬間から――また、あの視線が戻ってきた。
俺が箸を手にしたとき、奈々美さんの唇がわずかに動いた。
「……一人で、食べるの?」
囁くような声。
昼の光に包まれた教室には似つかわしくない冷たさが、その言葉の奥底に潜んでいた。
俺の鼓動は、再び不自然な速さで響き始めていた。
「え……?」
思わず顔を向けると、彼女は手を止め、まっすぐ俺を見ていた。
黒い瞳が光を吸い込むように深く、その奥に感情の色はほとんど見えない。
「一緒に……食べよう」
少し間を置いて、そう言った。
返事をする前に、彼女は机をわずかに寄せてくる。
教室のざわめきに紛れて気づく人はいない。
けれど、この狭い距離は俺にとって妙に息苦しかった。
「……あ、ああ。別にいいけど」
断る理由もなく、俺は曖昧に答える。
奈々美さんは小さく頷くと、弁当のふたを静かに外した。
中には、形の整った卵焼きや煮物が几帳面に並べられている。
一つひとつの色合いが鮮やかで、手作りというよりは、誰かが意図的に「整えた」ような印象だった。
俺が視線を奪われていると、奈々美さんが不意に問いかけてきた。
「……渡部くんって、毎日お弁当?」
「え? あ、うん。母さんが作ってくれてるから」
「そうなんだ。いいな……」
彼女は視線を落としながら小さく笑った。
けれどその笑みは、どこか冷たい影を帯びていて、素直に「羨ましい」とは聞こえなかった。
俺は気まずさを感じながら卵焼きを口に運ぶ。
その間、彼女は箸を動かすことなく、俺の手元をじっと見ていた。
(……なんだ、この感じ)
普通に会話しているはずなのに、監視されているような緊張感。
箸を持つ指先が汗ばみ、喉を通るごとに息苦しさが募っていく。
「……美味しい?」
唐突な問い。
「え?」と聞き返すと、彼女は小首をかしげて、今度はわずかに笑みを深めた。
「その卵焼き。美味しいの?」
「あ、ああ。いつも通りかな」
曖昧に答えると、奈々美さんは「ふうん」と短く呟いた。
その声音には、ほんの僅かに――含みのある調子が混じっていた。
◇ ◇ ◇
二人で黙って弁当をつつく時間が流れる。
周囲は友人同士の笑い声でにぎわっているのに、この狭い空間だけはやけに静かで、冷え切っていた。
「ねえ、渡部くん」
不意に名前を呼ばれる。
「……なに?」
「私たち、前に会ったこと……ない?」
その言葉に、背筋が凍りついた。
「え……?」
記憶を探る。
だが、どこを思い返しても、彼女の姿は出てこない。
転校生として今日会ったはずだ。昨日までは、この町に彼女の存在なんて――。
「そんなはず、ないだろ」
笑って誤魔化そうとした声は、自分でも分かるほど引きつっていた。
「……そうかな」
奈々美さんは視線を逸らし、何事もなかったように箸を動かし始めた。
けれど。
その横顔の口元が、ほんの一瞬――確かに歪んで笑ったように見えた。
そう見えたのは気のせいだったのかもしれない。
けれど、その映像が頭の中から離れない。
俺は思わず箸を止めてしまった。
昼休みのざわめきがやけに遠く、耳鳴りのような音が脳を締めつける。
「……渡部くん」
また、名前を呼ばれる。
ただそれだけなのに、心臓が不自然に跳ね上がった。
「な、なに?」
「ううん。なんでもない」
奈々美さんは微笑み、今度は真っ直ぐに俺の目を見てきた。
黒い瞳に吸い込まれそうになる。
光を反射しているのに、奥は底知れない闇のように深い。
ほんの数秒――いや、もっと短かったかもしれない。
けれど、その視線から逃げるのに、全身の力を振り絞る必要があった。
俺は慌てて弁当のふたを閉じた。
「もう食べたの?」
「……ああ、もう十分だ」
嘘だった。
胃の中にはまだ余裕があったが、これ以上ここで食べ続けるのは耐えられなかった。
奈々美さんはしばらく俺を見つめたあと、ふっと視線を落とした。
そして、自分の弁当を静かに食べ続ける。
その横顔は、最初に見たときと同じく淡々としていて――けれど確かに、どこか異質だった。
◇ ◇ ◇
午後の授業が始まるチャイムが鳴り、昼休みは終わった。
クラスメイトたちは席に戻り、再びいつものざわめきが収束していく。
俺は教科書を広げながら、何度も無意識に隣を盗み見ていた。
奈々美さんはノートを開き、姿勢を正し、淡々と授業を受けている。
先生の言葉を一字一句逃すまいとするような集中ぶり。
それ自体は真面目な生徒のようにも見える。
――だが、違う。
時折、俺の方へ流れてくる視線。
それは授業を受けている生徒の「偶然」ではなく、明らかに意図された「注視」だった。
板書を書き写すふりをしながら、視線だけを横に滑らせる。
そこには、また奈々美さんの黒い瞳。
俺と目が合った瞬間、彼女はすぐにノートに視線を戻す。
しかし、それは「誤魔化す」仕草であって、本心ではない。
胸がざわつく。
冷や汗が背中を伝い、ペンを持つ指が震えた。
(……なんなんだよ、いったい)
心の中で呟いても、答えは返ってこない。
ただ、授業の終わるチャイムが鳴るまでの四十五分間が、普段の何倍にも長く感じられただけだった。
◇ ◇ ◇
放課後のチャイムが鳴り、クラス中の生徒たちが一斉に立ち上がった。
椅子が引かれる音、鞄のジッパーが開閉する音、談笑する声。
一日の終わりを告げる喧噪は、一瞬だけ教室を騒がせるが、それも次第に廊下へと流れていく。
「渡部、ちょっといいか?」
帰ろうと席を立った瞬間、担任の先生に呼び止められた。
腕に抱えきれないほどの厚みを持つ書類の束が差し出される。
「理科準備室まで、これ運んでくれるか? 頼めるのはお前ぐらいだ」
「え……あ、はい」
先生に頼まれてしまっては断れない。
俺は仕方なく書類を抱え、廊下を歩いた。
途中、玲に「ちょっと待ってて」と声をかける。
彼女は廊下の窓際でこちらを見て、少し困ったように微笑んだ。
「わかった。じゃあ、校門のとこで待ってるね」
それだけで、胸の奥が軽くなる。
玲の笑顔は、ずっと昔から俺にとって“安心の印”のようなものだった。
◇ ◇ ◇
理科準備室の扉を開けた瞬間、薬品の匂いが鼻をつく。
机の上に積み上げた資料の束を下ろすと、腕にじんわりとした疲労が残った。
「助かったよ、ありがとう。気をつけて帰れよ」
先生に礼を言われ、俺は足早に教室へ戻る。
廊下を進むうちに、人影はほとんどなくなっていた。
夕焼けが窓から射し込み、伸びた影が床に縞模様を描いている。
放課後特有の、しんとした静けさ。
遠くの運動部の掛け声だけが、どこか別世界の音のように響いていた。
教室の扉を開ける。
「……」
そこに、まだ人がいた。
窓際の席。俺の隣の席。
そこに、奈々美さんが座っていた。
机の上には教科書とノートが広がっているが、ペン先は止まったまま。
伏せた顔に髪がかかり、表情は読めない。
ただ、姿勢は崩れず、机に手を組んで置いたまま、じっとしていた。
その静止した姿は、まるで時間から切り離された人形のようで、思わず足を止めてしまった。
「……まだいたのか」
少し乾いた声で、俺は声をかける。
奈々美さんは小さく肩を震わせ、顔を上げた。
光を受けてきらめいた黒い瞳。
そして、口元に浮かぶ微笑み。
「うん。ノートまとめてただけ」
声は柔らかい。
だが、その柔らかさにわずかな遅延があるように感じられる。
言葉は確かに届いているのに、体の奥にはすぐに馴染まない。
まるで、笑みと言葉がわずかに噛み合っていないように。
「……上野さん、もう帰った?」
唐突に出てきた名前。
問いかけは何気ない調子で放たれたが、その言葉の重さが教室に落ちる。
「え……? いや……校門で待ってるけど」
答えながら、胸がざわついた。
なぜ玲の名前を、今?
なぜ真っ先に、それを?
奈々美さんは視線を伏せ、ほんの少し口角を上げた。
「そっか。仲いいんだね」
普通に聞こえる。
だが、その一言の奥に、目には見えない何かが含まれている気がしてならなかった。
「幼馴染だからな。小さい頃から一緒だし」
つい弁解のように口にする。
言う必要なんてなかったのに。
奈々美さんは小さく笑った。
「……幼馴染って、特別だよね」
ただの共感の言葉。
でもその声音は、氷のように冷たい層を含んでいる。
“特別”という単語に込められたニュアンスが、俺の耳を刺した。
俺は思わず言葉を詰まらせ、視線を外す。
胸の奥に重しが乗せられたみたいで、呼吸が浅くなる。
「……わたしも、もっと渡部くんと話せるといいな」
その声は優しくて穏やか。
けれど同時に、俺の周囲の空気を密閉するような圧力を持っていた。
距離は机一つ分。
けれど、声が届くたびに、距離が一気にゼロになる錯覚に襲われる。
「そ、そうだな。これから……少しずつ」
自分でも何を言っているのかわからない。
ただ、たじろいだまま返事をしてしまった。
声が震え、喉が乾いているのを自覚する。
奈々美さんはふわりと笑った。
その笑顔は、昼休みに見せたものよりも自然に見えた。
だが、その自然さが逆に恐ろしく思えた。
……どうして、こんなに俺は動揺しているんだ。
◇ ◇ ◇
「元樹、遅いよ、ってあれ、奈々美さんもまだいたんだ」
玲が扉から顔を覗かせた。
その瞬間、教室の空気が一変する。
日常の温度が戻ってきて、胸の重しがふっと軽くなった。
「うん、ちょっとノートまとめてただけ」
奈々美さんは笑顔を作り、自然に答える。
さっきまでの微妙な棘、冷たい重みはどこにも見えない。
玲も疑いなく頷き、「そうなんだ」と微笑んだ。
俺は安堵したような気持ちになりながらも、背筋をぞわりと撫でる寒気を抑えられなかった。
(……気のせいかもしれない。だけど……)
心臓の鼓動は、まだ早い。
俺の隣に座る彼女は、やっぱり普通じゃない。
そんな確信が、静かに胸に沈殿していった。
校舎を出ると、夕焼けの光が赤く町を染めていた。
グラウンドからは部活の掛け声が響き、遠くの空には鳥の群れがV字を描いて飛んでいく。
一日の終わりを告げる風が頬をなで、どこか涼しさを含んでいた。
「悪いな、待たせて」
「ううん。昔からそうでしょ? 元樹くんって、頼まれると断れないんだから」
からかうような声色に、肩の力が抜ける。
玲は小さい頃から変わらない。明るくて、誰にでも分け隔てなく接する。
そのやわらかな存在感は、俺にとっていつも救いだった。
「……そうかもな」
俺は苦笑する。
だが――頭の奥では、あの言葉がこだまのように繰り返されていた。
『幼馴染って、特別だよね』
奈々美さんが言った一言。
その何気ないはずの声が、氷のように冷たく、胸にこびりついて離れない。
◇ ◇ ◇
「今日の授業、難しかったね。わたし全然ノート取れなかったよ」
玲が肩をすくめて笑う。
「でも奈々美さん、すごい集中してたよね。あの子、頭いいのかな」
その名を口にされただけで、心臓がどくりと跳ねた。
俺は返事に詰まり、曖昧に笑ってごまかす。
玲は気づかずに話を続けていた。
「転校してきたばかりなのに、あんなに落ち着いてるなんてすごいよね。……元樹くんも気になってるでしょ?」
「えっ……な、なんで俺が」
「だって隣の席じゃん。……昔から知り合いみたいに見えるよ?」
無邪気に言うその声が、逆に胸を締めつける。
俺は首を横に振った。
「違うよ。そんなこと……ない」
言いながら、どこかで確信していた。
本当は“初めてじゃない”。
どこかで、あの視線を、あの声を、俺は知っている気がする。
だが記憶の奥に手を伸ばそうとするたび、闇が立ち込め、はっきりとした像を結ばない。
◇ ◇ ◇
玲と別れて家へ向かう帰り道。
夕焼けはすでに群青に変わり、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
舗道を歩く足音が、妙に大きく響く。
――そのとき。
背筋を冷たいものが撫でた。
誰かに見られている。
その感覚は確かだった。
振り返る。
……誰もいない。
住宅街の路地は静まり返り、風が木の葉を揺らす音しかない。
「気のせい……か?」
歩き出す。
だが、また背後に気配を感じる。
影が動いたような錯覚。
呼吸が浅くなり、心拍が速くなる。
「……っ」
もう一度振り返る。
暗がりに街灯が落ち、電柱の影が伸びているだけだった。
誰もいない。
(……落ち着け。気のせいだ。ただの……気のせいだ)
自分に言い聞かせるが、背中に貼りつく冷たい視線は最後まで消えなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
布団に入って目を閉じても、眠りはすぐには訪れなかった。
耳の奥で、あの言葉がこだまする。
『幼馴染って、特別だよね』
『……わたしも、もっと渡部くんと話せるといいな』
目を開けると、暗闇の天井がこちらを覆っていた。
呼吸を整えようとした瞬間――意識が深みに沈んでいく。
◇ ◇ ◇
夢を見た。
――広い公園。
目の前に小さな女の子が立っている。幼い声で笑っている。
髪の長い少女。振り向いたその瞳が、俺を射抜いた。
「……わたしたち、ずっと一緒だよね」
声がこだまする。
その瞳は奈々美さんのものだった。
だが、幼いはずの顔は、今と変わらぬ微笑を浮かべていた。
「……っ!」
はっと目を覚ます。
額には汗が滲み、心臓は乱打のように鳴っている。
夢の残滓はすぐに掻き消えるはずなのに、今もなお鮮明に脳裏に焼きついていた。
(……あれは……なんだ?)
俺は布団の中で拳を握りしめた。
冷たい予感だけが、夜の闇の中で確かに生きていた。
読んでくださり、ありがとうございました。
今回は奈々美さんの“普通の顔の裏”を少しだけ覗かせました。
次回はさらに彼女の影が色濃く見えてきます。
読んでいる間も、誰かの視線に気をつけて……。




