第10話 「狂気の恋から解放されて」
ゴールデンウィークが明けて新学期が再開した。
元樹は重い足取りで学校に向かう。
連休中の出来事が頭の中でぐるぐると回り、整理がつかない。
案の定、いつもの角で奈々美が待っていた。
「おはよう、元樹くん。連休はとても楽しかったわ」
奈々美の笑顔は以前より親密さを増している。
連休中の部屋での出来事以来、彼女の態度はより積極的になっていた。
「ああ……おはよう」
元樹は曖昧に返事をしながら、奈々美の腕に絡められる。
その距離感に、周りの生徒たちの視線が集まる。
「今日から、もっと仲良くしましょうね」
奈々美の声には、所有欲がにじみ出ていた。
教室に入ると、玲は既に席についていた。
連休最終日の偶然の出会いを思い出し、元樹の心が複雑に揺れる。
「おはよう、元樹」
玲が振り返って挨拶する。
その自然な笑顔に、元樹は久しぶりに心が温まる。
「お、おはよう……玲」
その一瞬の交流を、奈々美は鋭い目で見つめていた。
「元樹くん、席に座りましょう」
奈々美が元樹の手を引く力は、前よりも強くなっていた。
隣の席に座った奈々美は、玲の方をちらりと見て、小さく微笑む。
その笑みには、勝利への確信が込められていた。
昼休み、玲は勇気を出して元樹に話しかけようとした。
「元樹、久しぶりにお弁当一緒に――」
「元樹くんは私と食べるの」
奈々美が玲の言葉を遮る。
その声は穏やかだが、瞳は冷たく光っていた。
「でも、昔からずっと――」
「昔は昔よ。今は私が元樹くんの恋人なの」
奈々美の宣言に、教室の空気が張り詰める。
「……そう、だね。」
玲は引き下がるしかなかった。
しかし、その悔しそうな表情を元樹は見逃さない。
「玲……」
元樹が何か言いかけた時、奈々美が彼の腕に強く掴まる。
「元樹くん、屋上で食べましょう」
有無を言わさず連れて行かれる元樹。
残された玲の拳が、小さく震えていた。
屋上で二人きりになると、奈々美の態度が一変した。
「元樹くん」
奈々美の声が低くなる。
「上野さんと話そうとしたでしょう?」
「いや、あれは……」
「私、嫌なの。元樹くんが他の女の子と話すのって」
奈々美の瞳に、狂気的な光が宿る。
「特に……上野さんみたいな、元樹くんに特別な感情を持ってる人とは」
その鋭い洞察力に、元樹は息を呑む。
「奈々美……」
「でも大丈夫」
突然、奈々美の表情が柔らかくなる。
「元樹くんが私だけを見てくれるなら、私はとても優しい恋人でいられるから」
その二面性に、元樹は恐怖と困惑を覚える。
同じ頃、光明と未菜は作戦を練っていた。
「やっぱりおかしいよ」
光明がサッカー部の練習後、未菜と校門で待ち合わせていた。
「元樹の表情、全然楽しそうじゃない」
「私も気になってる。玲ちゃんも今朝から落ち込んでるし」
未菜は心配そうに眉をひそめる。
「でも、どうやってアプローチすればいいんだ?」
光明が考え込んでいると、未菜が彼の腕に触れる。
「一緒に考えよう。きっと何か方法があるはず」
その温かい手に、光明の心が跳ねる。
「未菜……ありがとう」
「私こそ、光明くんがいてくれて心強い」
二人の距離が、自然と近づいていく。
5月15日の放課後、決定的な出来事が起こった。
元樹が一人で図書室にいた時、玲が現れたのだ。
「元樹……話があるの」
久しぶりの二人きりに、元樹の心が激しく動く。
「玲……」
「私、もう我慢できない」
玲の目には、強い決意が宿っていた。
「あなたは本当に幸せなの? 奈々美さんといて」
その直球の問いに、元樹は言葉を失う。
「俺は……」
「元樹!」
突然、図書室の扉が勢いよく開かれた。
そこには、怒りで顔を歪ませた奈々美が立っていた。
「何してるの?」
その声は氷のように冷たく、図書室にいた他の生徒たちも振り返る。
「あの……」
玲が説明しようとするが、奈々美は聞く耳を持たない。
「元樹くん、帰りましょう」
有無を言わさず元樹の手を引く奈々美。
その力は異常に強く、元樹は逆らえない。
図書室から出る直前、奈々美が振り返る。
その瞳は、玲を見つめて静かに燃えていた。
その夜、奈々美は元樹に長いメッセージを送った。
『元樹くん、今日は悲しかったわ。私たちの約束、忘れてしまったの?
上野玲という女の子とは、もう話さないでほしい。
彼女があなたを私から奪おうとしているのが見えるの。
でも心配しないで。私があなたを守ってあげる。
ずっと、ずっと一緒にいるために。
もし約束を破ったら……どうなっても知らないわ。』
そのメッセージを読んだ元樹は、全身に鳥肌が立った。
最後の一文に込められた脅しの意味を、彼は理解していた。
翌日、玲は下駄箱で待ち受けていた奈々美と遭遇した。
「おはよう、上野さん」
奈々美の笑顔は完璧だが、その奥に氷の刃が潜んでいる。
「昨日は楽しい会話だったようね」
「あの……」
「でも、もうやめてもらえるかしら」
奈々美の声が一段と低くなる。
「元樹くんは私の恋人よ。他の女性が割り込む権利はないの」
その威圧感に、玲は後ずさりする。
「それに……」
奈々美が一歩近づく。
「あまりしつこくすると、元樹くんに迷惑がかかるかもしれない」
明確な脅しに、玲の血が凍る。
「何をするつもりですか」
「さあ。でも、愛する人のためなら、何でもできるのが女心よ」
その微笑みは、悪魔のもののようだった。
日に日に強まる奈々美の束縛に、元樹は息苦しさを感じていた。
登下校は必ず一緒。
休み時間も常に監視。
他の友達との会話も制限される。
「俺は……檻の中の鳥みたいだ」
そんな元樹の心境を、光明は見抜いていた。
「元樹、最近顔色悪いぞ」
体育の着替えの時、光明が心配そうに声をかける。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないだろ。友達なんだから、何でも話せよ」
光明の優しさに、元樹の心が揺れる。
「光明……」
「ん?」
「もし……もし友達に迷惑かけるかもしれないって分かってても、助けを求めていいのかな」
その切実な問いに、光明は真剣に答える。
「当たり前だろ。それが友達ってもんだ」
その言葉に、元樹の目に涙が滲む。
奈々美にも純粋な一面があった。
5月末のある日、元樹が風邪で学校を休んだ時のことだった。
奈々美は授業が終わると、すぐに元樹の家に向かった。
手には手作りのお粥と薬を持って。
「元樹くん、大丈夫?」
看病する奈々美の表情は、心から心配しているように見えた。
「ありがとう……」
元樹が弱々しく答えると、奈々美は優しく微笑む。
「熱、測りましょう」
体温計を口に咥えさせながら、額に手を当てる奈々美。
その仕草は、本当の恋人のようで温かかった。
「まだ熱があるわね。今日はゆっくり休んで」
お粥を一口ずつ食べさせてくれる奈々美の優しさに、元樹は心が複雑になる。
「なんで……こんなに優しくしてくれるんだ」
「好きな人のためなら当然でしょう?」
その純粋な答えに、元樹は胸が痛む。
束縛と優しさ。
狂気と愛情。
奈々美の中で混在するそれらが、元樹を混乱させる。
光明と未菜は元樹を助ける作戦を練るため、放課後によく一緒に時間を過ごすようになった。
「今日も収穫なしか……」
学校近くのカフェで、光明が肩を落とす。
「でも諦めるわけにはいかないよ」
未菜が光明を励ます。
「未菜はすごいな。いつも前向きで」
その言葉に、未菜の頬が赤らむ。
「そ、そんなことないよ」
「いや、本当に。俺、未菜といると元気が出るんだ」
光明の素直な言葉に、未菜の心が高鳴る。
「光明くん……」
二人の距離が自然と縮まる。
その時、突然雨が降り始めた。
「うわ、雨だ」
「傘持ってない……」
「俺の傘、一緒に使おう」
光明が傘を差し出すと、未菜は嬉しそうに頷く。
「ありがとう」
小さな傘の下、二人の肩が触れ合う。
その温もりに、互いの心が温かくなった。
「未菜……」
「なに?」
「俺……」
光明が何かを言いかけた時、風が強くなり、未菜が光明に寄りかかる。
「きゃ!」
「大丈夫?」
光明が未菜を支える。
見つめ合う二人の間に、特別な空気が流れた。
6月中旬、学校で文化祭の準備が始まった。
クラスの出し物を決める話し合いで、偶然元樹と玲が同じ委員に選ばれた。
「よろしくね」
久しぶりの会話に、玲の心が躍る。
「こちらこそ」
元樹も、玲との共同作業に安らぎを感じていた。
しかし、その様子を奈々美は鋭い目で見つめている。
委員の打ち合わせが放課後に行われることになった時、奈々美が割って入る。
「私も委員になりたいわ」
突然の申し出に、クラスメートたちは困惑する。
「でも、もう人数は足りてるし……」
「私、元樹くんのサポートがしたいの」
その強引さに、誰も反論できない。
結局、奈々美も文化祭委員に加わることになった。
放課後の委員会で、玲と元樹が自然に会話している場面があった。
「この装飾、どう思う?」
「いいと思うよ。玲のセンス、昔から良いもんな」
そんな何気ない会話を、奈々美は黙って聞いていた。
その表情は穏やかだが、握りしめた拳が白くなっている。
「元樹くん、私はこの案がいいと思うわ」
奈々美が別の提案をすると、元樹は困惑する。
「でも、玲の案も……」
「私の案の方が素敵よ。ね、元樹くん?」
その圧迫的な口調に、元樹は頷くしかない。
玲はその様子を見て、拳を握りしめた。
二人きりになると奈々美は甘えるような態度を見せる。
「元樹くん、お疲れさま」
委員会の後、奈々美が元樹の腕に抱きつく。
「今日も一緒に頑張れて嬉しかった」
その無邪気な笑顔に、元樹の心が揺れる。
「奈々美……」
「元樹くんがいると、何でもできる気がするの」
上目遣いで見つめる奈々美の可愛らしさに、元樹は思わずドキッとする。
「俺も……奈々美がいると心強いよ」
その言葉に、奈々美の笑顔が輝く。
「本当? 嬉しい!」
飛び跳ねて喜ぶ奈々美の姿は、年相応の女の子のようで愛らしかった。
こんな時、元樹は奈々美への複雑な感情に困惑する。
束縛は重いが、この純粋な喜びを見せられると心が動いてしまう。
その夜、玲は一人で泣いていた。
「このままじゃ、本当に元樹を失ってしまう」
窓辺に立ち、元樹の家を見つめる。
「でも……諦めたくない」
翌日、玲は思い切った行動に出る。
元樹に手紙を書くことにしたのだ。
『元樹へ
久しぶりに手紙を書きます。
最近、あなたと話すことができなくて寂しいです。
幼馴染として、あなたの幸せを願っています。
でも……本当に幸せですか?
もし苦しいことがあったら、いつでも相談してください。
私はずっと、あなたの味方です。玲』
短い手紙だが、玲の想いが込められていた。
翌日、玲は元樹の机にそっと手紙を置く。
しかし、それを奈々美に見つけられてしまった。
「これは何かしら?」
奈々美が手紙を手に取ろうとした時、元樹が教室に入ってきた。
「あ……」
「元樹くん、上野さんからお手紙よ」
奈々美の声は冷たく響く。
元樹が手紙を受け取ろうとすると、奈々美がそれを引っ込める。
「でも、恋人がいる人がこういう手紙を受け取るのはどうかしら」
「奈々美……」
「私、嫌なの。元樹くんが他の女の子からの手紙を読むなんて」
そう言って、奈々美は手紙を自分のポケットに入れてしまう。
「返しせよ」
元樹が手を伸ばすが、奈々美は首を横に振る。
「だめ。これは私が預かるわ」
その専制的な態度に、元樹は初めて明確な怒りを感じた。
「それは俺宛ての手紙だろう!」
元樹の声が大きくなり、クラスメートたちが注目する。
「元樹くん……」
奈々美の目に涙が浮かぶ。
「私のことが嫌いになったの?」
突然の涙に、元樹は戸惑う。
周りの視線もあり、元樹は強く出ることができない。
「……嫌いじゃない」
「だったら、これは私に任せて」
奈々美は涙を拭いながら微笑む。
しかし、その笑顔の裏には勝利の確信があった。
その日の放課後、光明が元樹を呼び止めた。
「元樹、ちょっといいか?」
「光明……」
屋上で二人きりになると、光明が真剣な顔で口を開く。
「もう黙ってられない。お前、本当に大丈夫か?」
その直球の問いに、元樹は言葉を詰まらせる。
「大丈夫って……」
「大丈夫じゃないだろ。見てりゃ分かる」
光明の言葉に、元樹の心が揺れる。
「柊さんのこと、どう思ってるんだ?」
「奈々美は……」
元樹が答えを探していると、光明が続ける。
「お前が幸せそうに見えないんだ。本当に彼女といて楽しいのか?」
その問いに、元樹は自分の気持ちと向き合わざるを得なくなる。
「楽しい……時もある」
「時もある、って何だよ。恋人なんだろ?」
光明の率直さに、元樹は答えられない。
「俺は……分からないんだ」
「何が?」
「自分の気持ちが」
元樹の正直な告白に、光明は胸を痛める。
「元樹……」
「奈々美は確かに束縛が激しい。でも、優しい時もある」
「束縛って……具体的にはどんな?」
光明の問いに、元樹は今まで抱え込んでいた苦悩を語り始める。
「俺の行動を全部管理したがる。友達との会話も制限される」
「それって……」
「自由がないんだ。でも、それが愛なのかもしれないって思う時もある」
元樹の混乱した心境を聞いて、光明は確信する。
「それは愛じゃない。支配だ」
その断言に、元樹は顔を上げる。
「支配?」
「愛してる人の自由を奪うのは愛じゃない。それは独占欲だ」
光明の言葉が、元樹の心に深く響く。
「でも……俺は昔、奈々美に約束したんだ」
「約束?」
元樹は小学生時代の記憶を語る。
「『ずっと一緒にいる』って」
「それは子供の約束だろう。大人になった今、その約束に縛られる必要はない」
光明の論理的な指摘に、元樹は考え込む。
「光明……俺は」
「どうしたいんだ? 本当はどうしたい?」
その問いに、元樹は自分の本心と向き合う。
「自由になりたい……玲と普通に話したいし、友達とも遊びたい」
「だったら答えは出てるじゃないか」
光明の言葉に、元樹の心に光が差し込む。
しかし、同時に恐怖も湧き上がる。
「でも……奈々美に何をされるか分からない」
「俺たちがついてる。一人じゃないんだ」
光明の心強い言葉に、元樹は少し勇気を得る。
同じ頃、未菜は玲を慰めていた。
「玲ちゃん、大丈夫?」
手紙を取り上げられたことを知った未菜が、玲の家を訪れていた。
「全然大丈夫じゃない……」
玲は涙ぐんでいる。
「もう何をしても無駄なのかも」
「そんなことないよ」
未菜が玲の肩を抱く。
「光明くんが元樹くんと話してくれてる。きっと何か変わるよ」
「でも……」
「玲ちゃんは間違ってない。友達として心配するのは当然よ」
未菜の言葉に、玲は少し元気を取り戻す。
「ありがとう、未菜ちゃん」
「私たちは諦めない。元樹くんを助け出すまで」
二人の友情が、この困難を乗り越える力になっていた。
その日は、クラスでの文化祭の出し物を決める話し合いが行われた。
「今年は何をやろうか?」
担任の佐々木先生が黒板に候補を書き上げる。
「カフェ」「お化け屋敷」「演劇」「展示」
様々な意見が飛び交う中、玲が手を挙げた。
「私は演劇がいいと思います」
「いいね! どんな内容にする?」
クラスメートたちが興味を示す。
「みんなで一つの物語を作り上げるのって素敵だと思うんです」
玲の提案に、多くの生徒が賛成する。
しかし、奈々美が異を唱えた。
「でも演劇って、主役が目立ちすぎませんか?」
その言葉に、玲は困惑する。
「主役は決めるとしても、みんなで――」
「それより、みんなが平等に参加できるカフェの方がいいと思うわ」
奈々美の提案に、一部の生徒が頷く。
結局、投票で決めることになった。
「演劇に賛成の人?」
玲を含む15人が手を挙げる。
「カフェに賛成の人?」
奈々美を含む13人が手を挙げる。
「演劇に決定です」
結果に奈々美は不満そうな表情を見せるが、表立って反対はしなかった。
演劇の内容決定
「どんな話にしようか?」
演劇委員に選ばれた玲が司会を務める。
「恋愛物語がいいな」
「冒険活劇はどう?」
「感動的な話がいい」
様々な意見が出る中、元樹が手を挙げた。
「昔話をモチーフにするのはどうかな?」
「いいアイデアね」
玲が賛同する。
「シンデレラとか?」
「竹取物語も素敵よ」
議論の結果、『シンデレラ』をベースにしたオリジナル脚本を作ることになった。
「脚本は誰が書く?」
「玲ちゃんが書くのがいいんじゃない?」
クラスメートの提案に、玲は照れながら頷く。
「頑張ってみます」
しかし、その時奈々美が口を開く。
「私も脚本に参加したいわ」
「え?」
「元樹くんの役に合わせて、セリフを考えたいの」
その提案に、玲は複雑な表情を見せる。
「それは……」
「共同作業って素敵でしょう?」
奈々美の笑顔に、断ることができない空気が流れる。
結局、玲と奈々美で脚本を担当することになった。
「配役を決めましょう」
翌日の委員会で、いよいよキャスティングが行われた。
「シンデレラ役は?」
「川崎さんがいいんじゃない?」
クラス一の美人である川崎麻衣が推薦される。
「王子様役は?」
自然と視線が元樹に向けられる。
「渡部くんしかいないでしょ」
「異議なし!」
クラスメートたちの声に、元樹は困惑する。
「俺は演技なんて……」
「大丈夫よ、元樹くん」
奈々美が嬉しそうに声をかける。
「私がしっかりサポートするから」
その言葉に、玲は不安を感じる。
奈々美が元樹の演技指導を通じて、さらに距離を縮めようとしているのが見え透いていた。
「継母役は私がやります」
奈々美が自ら手を挙げる。
「え、でも継母は悪役よ?」
「構わないわ。演技の幅を広げたいの」
その積極性に、周りは感心する。
しかし玲には、奈々美の別の意図が読めていた。
継母役として、シンデレラをいじめるシーンで、川崎麻衣に嫌がらせができると考えているのだ。
「じゃあ、仙女役は?」
「上野さんがいいんじゃない?」
玲に白羽の矢が立つ。
「私が?」
「うん、玲ちゃんって神秘的な雰囲気があるし」
クラスメートたちの推薦に、玲は引き受けることにした。
「よろしく」
こうして主要な配役が決定した。
シンデレラ:川崎麻衣
王子様:渡部元樹
継母:柊奈々美
仙女:上野玲
脚本作成での攻防
放課後、玲と奈々美が図書室で脚本を書いていた。
「王子様のセリフ、どうしよう?」
玲が聞くと、奈々美は即座に答える。
「『君は僕の運命の人だ』というセリフを入れましょう」
「でも、それはシンデレラに対するセリフじゃない?」
「ええ、そうよ」
奈々美の目が危険に光る。
「でも、もしかしたらアドリブで他の人に言うかもしれないわ」
その含みのある発言に、玲は不安を覚える。
「それに、継母のセリフも工夫したいの」
奈々美が続ける。
「『美しいだけでは幸せになれない』とか」
「それは……シンデレラを否定するセリフね」
「そうよ。でも真実でもあるでしょう?」
奈々美の冷たい笑みに、玲は背筋が寒くなる。
「美貌だけに頼る女性は、結局は敗者になるのよ」
その言葉が自分に向けられていることを、玲は理解した。
しかし負けるわけにはいかない。
「でも、仙女のセリフも重要だね」
玲が反撃する。
「『真の愛は見た目ではなく、心で感じるもの』というセリフはどうかな?」
その提案に、奈々美の表情が曇る。
「それは……」
「本当の愛とは何か、観客に考えてもらいたいんだ」
玲の意図を理解した奈々美は、表面的には笑顔を見せる。
「素晴らしいアイデアね」
しかし、その目は全く笑っていなかった。
脚本が完成し、いよいよ練習が始まった。
「それでは、第一章から行きましょう」
玲が演出を担当し、練習を進行する。
シンデレラが継母にいじめられるシーンで、奈々美は異常な熱の入れようを見せた。
「こんなところで油を売ってるんじゃないわよ!」
奈々美の迫力ある演技に、川崎麻衣は圧倒される。
「は、はい……」
「もっと惨めに! もっと哀れに!」
奈々美の指導が次第にエスカレートしていく。
「奈々美さん、そこまでしなくても……」
玲が止めに入ると、奈々美は振り返る。
「リアリティが大切なのよ。中途半端な演技じゃ観客に伝わらない」
表面的には正論だが、その目には楽しんでいる色があった。
一方、王子とシンデレラの出会いのシーンでは、奈々美は複雑な表情で見つめていた。
「君は……誰だ?」
元樹のセリフに、川崎麻衣が答える。
「私は……ただの召使いです」
「そんなことはない。君の瞳には星が宿っている」
脚本通りとはいえ、元樹の優しいセリフに奈々美の心は乱れる。
練習後、奈々美は元樹に詰め寄った。
「元樹くん、さっきのセリフ……」
「どうかした?」
「もう少し感情を込めて欲しいの」
「感情って……」
「愛する人への想いを込めて」
奈々美の言葉に、元樹は困惑する。
「でも相手は山川崎だし……」
「演技よ。プロの俳優だって、恋人役を演じるでしょう?」
奈々美の論理に、元樹は何も言えない。
しかし、その真意が元樹の心に恋愛感情を呼び起こそうとしていることは明らかだった。
文化祭まで一週間となり、衣装と道具の準備が本格化した。
「シンデレラのドレス、素敵ね」
川崎麻衣の衣装を見て、女子生徒たちが歓声を上げる。
「王子様の衣装も格好いい」
元樹のタキシード姿に、クラスの女子たちがざわめく。
一方、奈々美の継母の衣装は、わざと地味で威圧的なデザインにされていた。
「これで本当にいいの?」
友人が心配そうに聞くが、奈々美は気にしない。
「悪役は悪役らしく。それが演技よ」
しかし内心では、元樹の注目を集めるための計算をしていた。
『地味な衣装でも、演技力で魅力をアピールしてみせる』
玲の仙女の衣装は、白を基調とした神秘的なデザインだった。
「玲ちゃん、本当に仙女みたい」
「ありがとう」
鏡を見ながら、玲は自分の役割の重要性を再認識していた。
仙女として、シンデレラに真実の愛について語るシーンが、この劇の核心となる。
『元樹にも、真の愛について気づいてもらいたい』
ついに文化祭当日を迎えた。
朝早くから会場設営に追われる中、演劇部門の会場も着々と準備が進む。
「照明の調整はどう?」
「音響のテストもお願いします」
舞台裏では、出演者たちが最終準備に余念がない。
「みんな、今日は頑張ろう」
玲の掛け声に、クラス一同が気合いを入れる。
しかし、その中で奈々美だけは異質な緊張感を放っていた。
『今日こそ、元樹くんの心を掴んでみせる』
化粧室で、奈々美は入念にメイクを施していた。
継母役とはいえ、美しさは損ないたくない。
「奈々美さん、準備はどう?」
玲が様子を見に来ると、奈々美は振り返る。
「完璧よ」
鏡に映る自分の姿に、満足そうな表情を見せる。
「今日の演技、楽しみにしてて」
その言葉の裏に隠された意味を、玲は敏感に察知していた。
第一回公演
午前10時、第一回公演が始まった。
観客席には保護者や他のクラスの生徒たちが詰めかけている。
幕が上がると、シンデレラの家の場面から物語が始まる。
「シンデレラ! 掃除はまだなの?」
奈々美演じる継母の迫力ある演技に、観客はすぐに引き込まれる。
「すみません、継母様……」
川崎麻衣のシンデレラも、哀れさと美しさを兼ね備えた好演を見せる。
そして舞踏会のシーン。
「君は……誰だ?」
元樹演じる王子が、シンデレラに声をかける。
そのセリフを客席で聞いていた奈々美(継母として退場中)は、複雑な思いに駆られる。
『あのセリフ、私に向けて言って欲しい』
しかし、物語は順調に進行していく。
そしてクライマックス。玲演じる仙女の登場シーンとなった。
「シンデレラよ」
舞台に現れた玲の美しさに、観客席からため息が漏れる。
「真の愛とは、見た目の美しさではありません」
「心と心が響き合うこと。それが本当の愛なのです」
玲のセリフは、物語の枠を超えて会場に響く。
特に元樹には、そのメッセージが深く刺さっていた。
第一回公演は大成功に終わった。
「やったね!」
舞台裏で、クラスメートたちが喜びを分かち合う。
「みんなお疲れさま」
玲の労いの言葉に、全員が達成感を感じていた。
しかし奈々美だけは、複雑な表情を見せていた。
観客の反応は良かったが、自分が望んでいた結果とは違っていた。
元樹の注目は、演技を通じても自分に向かっていない。
午後2時、第二回公演が始まった。
観客の入りも上々で、会場は満席状態だった。
しかし、この回で事件が起こる。
継母がシンデレラをいじめるシーンで、奈々美が脚本にないセリフを言い始めたのだ。
「みっともない娘ね」
「美しいだけの女なんて、すぐに飽きられるのよ」
「本当に愛される女性は、もっと深いものを持っているの」
奈々美のアドリブに、川崎麻衣は困惑する。
舞台袖で見ていた玲も、奈々美の意図を理解して青ざめる。
『あれは明らかに私に向けたメッセージ』
しかし公演は続けなければならない。
玲は予定より早く仙女として登場し、状況を収拾しようとする。
「継母よ、あなたは間違っています」
脚本にないセリフで、玲が奈々美に反論する。
「美しさも大切ですが、それ以上に大切なのは優しさです」
「相手を思いやる心こそが、真の美しさなのです」
玲の反撃に、奈々美は一瞬たじろぐ。
しかし、すぐに演技として返す。
「きれいごとね」
「現実はもっと厳しいのよ」
二人のアドリブ合戦に、観客は息を呑む。
予定にない展開だが、ドラマチックな効果を生んでいる。
そして王子とシンデレラの最終シーン。
「私の運命の人は、君だ」
元樹のセリフに、川崎麻衣が応える。
「私も……ずっとお慕いしておりました」
二人の演技に、観客席から拍手が起こる。
しかし舞台袖の奈々美は、その光景を複雑な思いで見つめていた。
二回の公演が無事に終了し、クラス全体で打ち上げが行われた。
「今日は本当にお疲れさま」
佐々木先生が労いの言葉をかける。
「特に主演の四人、素晴らしい演技だった」
観客からの評価も高く、演劇部門では上位入賞確実との噂もあった。
「みんなで頑張った甲斐があったね」
玲がクラス全体を見回す。
「特に第二回公演のアドリブ、すごく印象的だった」
同級生の言葉に、玲と奈々美は複雑な表情を見せる。
「あれは……」
玲が説明しようとすると、奈々美が割って入る。
「演技に夢中になりすぎちゃったの」
表面的には反省している様子だが、その目には満足感があった。
少なくとも、元樹に自分の想いを伝えることはできた。
文化祭最終日、各部門の結果が発表された。
「演劇部門、第二位!」
アナウンスに、クラス全体が歓声を上げる。
「やったー!」
「みんなで頑張った結果だね」
喜びを分かち合う中で、玲は元樹の元に歩いて行く。
「元樹、お疲れさま」
「玲も。君の仙女、本当に素晴らしかった」
元樹の率直な褒め言葉に、玲の心が温まる。
「ありがとう」
「特に『真の愛』についてのセリフ、心に響いた」
その言葉に、玲は希望を感じる。
『もしかして、元樹も気づいてくれたかな』
しかし、その会話を奈々美は鋭い目で見つめていた。
文化祭は成功に終わったが、三人の関係はより複雑になっていく。
演技という名の現実の感情のぶつかり合いが、新たな展開の火種となっていた。
作業の合間、光明と未菜は廊下で話していた。
「なんとかしないと、元樹が本当にまいってしまう」
光明の心配そうな表情を見て、未菜の心が温まる。
「光明くんって、本当に友達思いよね」
「当たり前だろ。友達が困ってるのに放っておけない」
その真っすぐな性格に、未菜はますます惹かれていく。
「私も……光明くんみたいな人が友達で嬉しい」
未菜の言葉に、光明の頬が赤らむ。
「友達……か」
「え?」
「いや、何でもない」
光明が照れて視線を逸らす姿に、未菜も頬が熱くなる。
二人の間に、友情を超えた感情が芽生えていた。
その夜、奈々美は一人で微笑んでいた。
「順調ね」
玲からの手紙は既に処分していた。
元樹に読まれる前に、証拠隠滅したのだ。
「上野玲……いい加減諦めればいいのに」
奈々美の瞳に、危険な光が宿る。
「でも、まだ油断はできない」
鏡に映る自分の顔を見つめながら、奈々美は策略を練る。
「もっと決定的な何かが必要ね」
6月末、期末試験が始まった。
奈々美は元樹の勉強にも介入する。
「元樹くん、一緒に勉強しましょう」
図書館で、奈々美は元樹の隣に座る。
しかし、実際は勉強よりも元樹の監視が目的だった。
他の女子生徒が元樹に話しかけようとすると、奈々美が割って入る。
「元樹くん、この問題分かる?」
そうやって会話を遮断するのだ。
元樹は集中できず、成績が下がり始めていた。
試験期間中も、玲は元樹のことが気になって勉強に集中できない。
「このままじゃ、私も元樹も成績が下がっちゃう」
そんな玲を見て、未菜が提案する。
「私たちでも勉強会しない? 光明くんも誘って」
「でも……」
「元樹くんのことは一旦置いといて、まずは自分たちのことを考えよう」
未菜の提案で、三人での勉強会が開かれることになった。
光明の家で行われた勉強会は、三人の絆を深める機会となった。
「この問題、難しいな……」
光明が数学の問題に苦戦していると、玲が教える。
「ここはこう考えるの」
「さすが玲、頭いいな」
褒められて、玲の顔が少し明るくなる。
「元樹にも教えてあげたい……」
玲がぽつりと呟くと、未菜が優しく声をかける。
「きっと機会があるよ」
「でも、奈々美さんが……」
「大丈夫」
光明が力強く言う。
「俺たちが何とかする」
その頼もしい言葉に、玲は勇気をもらう。
休憩中、光明と未菜が台所でお茶を入れていた。
「未菜、いつもありがとうな」
「私こそ、ありがとう」
未菜が湯呑みを持つ手が少し震える。
「光明くん……」
「ん?」
「あの……私、最近思うことがあって」
未菜が上目遣いで光明を見つめる。
「どんなこと?」
「友達って……どこからが友達以上になるのかな」
その質問に、光明の心臓が跳ね上がる。
「友達以上って……」
「ごめん、変なこと聞いて」
未菜が慌てて視線を逸らそうとした時、光明が彼女の手に触れる。
「変じゃないよ」
その温かい手に、未菜の頬が赤らむ。
「光明くん……」
「俺も……同じこと考えてた」
二人の距離が自然と縮まる。
「私たち……」
その時、玲の声が響く。
「お茶、まだかな?」
二人は慌てて距離を置く。
「あ、今持ってくね!」
未菜が慌てて返事をする。
しかし、お互いの想いが確認できた瞬間だった。
次の日の昼休み、玲は意を決して元樹に近づいた。
奈々美がトイレに立った隙を狙ったのだ。
「元樹」
久しぶりの二人きりの会話に、元樹の心が動く。
「玲……」
「あなた、本当に大丈夫?」
その心配そうな表情に、元樹は胸が痛む。
「俺は……」
「無理しないで。私には分かるから」
玲の優しさに、元樹の心が揺れる。
「玲……俺は」
その時、背後から冷たい声が響く。
「何の話かしら?」
振り返ると、奈々美が立っていた。
その瞳は氷のように冷たく、怒りで震えている。
「あの……」
玲が説明しようとするが、奈々美は聞く耳を持たない。
「上野さん、しつこいのね」
その威圧感に、周りにいた生徒たちも注目する。
「私、何度も言ったはずよ。元樹くんは私の恋人だって」
「でも……」
「でも、何?」
奈々美の声が一段と冷たくなる。
「まさか、人の恋人を奪おうとしてるの?」
その言葉に、玲の顔が青ざめる。
「そんなつもりは……」
「だったら近づかないで」
奈々美の宣言に、教室が静まり返る。
「奈々美、そこまで言うことは……」
元樹が止めようとするが、奈々美は彼の腕を掴んで連れて行こうとする。
「行きましょう、元樹くん」
「ちょっと待てよ!」
突然、光明が現れた。
「何だよ、その態度は」
光明の登場に、奈々美の表情が変わる。
「木口くんには関係ないことよ」
「友達が困ってるのに関係ないわけないだろ」
光明の毅然とした態度に、奈々美は警戒する。
「困ってないわ。ねえ、元樹くん?」
奈々美が元樹を見つめる。
その視線には、無言の圧力が込められている。
「俺は……」
元樹が答えを迷っていると、未菜も現れた。
「玲ちゃん、大丈夫?」
未菜が玲の肩に手を置く。
「未菜ちゃん……」
四人が対峙する中、教室の緊張は最高潮に達していた。
「みんな、私の邪魔をするのね」
奈々美の声が低くなり、その瞳に狂気の光が宿る。
「特に……上野玲」
名前を呼ぶ時の口調が、明らかに敵意を込めていた。
「私がどれだけ元樹くんを愛してるか分からないの?」
「愛してる……?」
玲が反論する。
「それは愛じゃない。束縛よ」
その言葉に、奈々美の表情が歪む。
「何ですって?」
「本当に愛してるなら、相手の自由を尊重するはず」
玲の論理的な指摘に、奈々美は激怒する。
「あなたに何が分かるの!」
奈々美の声が教室中に響く。
「元樹くんの昔を知らないくせに!」
「昔って……?」
「小学生の時、元樹くんは私を守ってくれたの!」
奈々美の告白に、クラスメートたちは困惑する。
「『ずっと一緒にいる』って約束してくれたのに!」
「でもあなたは約束を破って逃げた!」
奈々美の怒りが爆発し、元樹に向き直る。
「だから今度は絶対に逃がさない!」
その狂気的な宣言に、教室が凍りつく。
「奈々美……」
元樹が震え声で名前を呼ぶ。
「やっと分かってくれた?」
奈々美の表情が急に柔らかくなる。
「私たちは運命の恋人なの」
その急激な感情の変化に、全員が恐怖を覚える。
「もう我慢できない」
光明が前に出る。
「元樹、はっきりしろ。本当にこの関係を続けたいのか?」
光明の直球の問いに、教室中の視線が元樹に集まる。
「俺は……」
元樹が口を開きかけた時、奈々美が彼の腕を掴む。
「答える必要なんてないわ。私たちは恋人なんだから」
「違う!」
元樹がついに声を上げた。
「俺は……俺はもう疲れた」
その告白に、奈々美の顔が青ざめる。
「元樹くん……何を言ってるの?」
「奈々美、君の気持ちは嬉しい。でも……」
元樹が言葉を続けようとした時、奈々美が涙を流し始める。
「やっぱり私を捨てるのね」
その涙に、元樹は動揺する。
「捨てるんじゃない。ただ……」
「だったら一緒にいて」
奈々美が元樹にしがみつく。
「お願い、置いていかないで」
その必死な姿に、元樹の心は揺れる。
昔の記憶が蘇り、罪悪感が湧き上がる。
「元樹」
玲が静かに口を開く。
「あなたの気持ちはどうなの?」
その問いに、元樹は自分の心と向き合う。
「俺は……」
「正直に答えて」
玲の真剣な表情に、元樹は決意を固める。
「俺は……自由になりたい」
その告白に、奈々美が絶叫する。
「嘘よ!」
「本当なんだ。奈々美、君の愛情は重すぎる」
元樹の言葉に、奈々美は崩れ落ちそうになる。
「でも……私、元樹くんがいないと生きていけない」
その切実な訴えに、教室が静まり返る。
「奈々美……」
元樹が優しく声をかける。
「君には君の人生がある。俺に依存する必要はない」
「でも……」
「君はもっと自分を大切にするべきだ」
元樹の優しさに、奈々美は涙を流す。
しかし、その涙の奥には諦めない意志があった。
放課後もクラスの雰囲気は重いままだった。
「奈々美さん」
玲が勇気を出して話しかける。
「何?」
冷たい返事だが、以前ほどの敵意はない。
「あなたの気持ち、分からなくもないの」
その言葉に、奈々美は顔を上げる。
「何ですって?」
「好きな人を失いたくない気持ち。私にも分かる」
玲の正直な告白に、奈々美は困惑する。
「でも……」
「でも、本当に相手のことを思うなら、相手の幸せを願うべきよ」
その言葉に、奈々美は何も答えられない。
「元樹くんが幸せそうに見える?」
玲の問いに、奈々美は苦しそうな表情を見せる。
「私……私は」
言葉に詰まる奈々美を見て、玲は続ける。
「あなたも幸せになってほしい。本当の幸せを」
その優しさに、奈々美の心が動く。
しかし、すぐに頑なな表情に戻る。
「あなたに同情されるなんて屈辱よ」
そう言って立ち去る奈々美。
しかし、玲の言葉は確実に彼女の心に響いていた。
夕方、元樹は一人で教室にいた。
そこに奈々美が現れる。
「元樹くん」
「奈々美……」
二人きりの空間で、会話が始まる。
「本当に……私と別れたいの?」
奈々美の声は震えている。
「別れるって……俺たちは」
「恋人でしょう?」
「それは君が勝手に決めたことだ」
元樹の言葉に、奈々美は衝撃を受ける。
「勝手にって……でも昔の約束が」
「それは子供の約束だった。今の俺たちには関係ない」
元樹の断言に、奈々美は泣き出す。
「そんな……私、ずっと待ってたのに」
その涙に、元樹の心は痛む。
「奈々美……」
「何年も、元樹くんだけを思い続けてたのに」
その切ない告白に、元樹は言葉を失う。
「俺は……」
「私の気持ちなんて、どうでもいいのね」
奈々美の悲しみに満ちた表情を見て、元樹の心は揺れる。
しかし、それでも答えは変わらない。
「君の気持ちはありがたい。でも……」
「でも、私じゃだめなのね」
奈々美が自嘲的に笑う。
「だめじゃない。ただ……」
「上野玲の方が好きなのね」
その指摘に、元樹は答えられない。
自分の気持ちがはっきりとは分からないからだ。
「玲のことは……」
「分かったわ」
奈々美が突然立ち上がる。
「私、諦める」
その言葉に、元樹は驚く。
「奈々美……」
「でも、一つだけ約束して」
「何を?」
「私のことを……」
「えっ?」
その時、奈々美がなんて言ったのか俺は聞き取ることができなかった。
奈々美は寂しく微笑むと、教室を出て行った。
7月に入り、夏休みが近づいていた。
奈々美との関係が終わった元樹は、ようやく自由を取り戻していた。
「元樹、調子どうだ?」
光明が心配そうに声をかける。
「だいぶ楽になった」
元樹の表情が明るくなったことに、光明は安心する。
「良かった。心配してたんだ」
「ありがとう、光明。君がいてくれて本当に良かった」
二人の友情が、この困難を通してより深くなっていた。
一方、玲は複雑な気持ちでいた。
奈々美がいなくなったことで、元樹との距離は縮まった。
しかし、元樹の心の中での自分の位置がまだはっきりしない。
「玲」
放課後、元樹が玲に声をかける。
「元樹……」
「ありがとう。君が支えてくれたから頑張れた」
その言葉に、玲の心は温かくなる。
「当然のことよ。私たち、幼馴染だもの」
「そうだな……幼馴染」
元樹が「幼馴染」という言葉を繰り返す。
その意味を、二人ともまだ確信できずにいた。
ある日の夕方、光明と未菜は学校の屋上にいた。
「やっと落ち着いたね」
未菜が安堵の表情を見せる。
「ああ。でも大変だった」
「光明くんがいてくれて良かった」
その言葉に、光明の心が跳ねる。
「俺も……未菜がいてくれて心強かった」
二人の距離が自然と縮まる。
「未菜……」
「何?」
「俺……」
光明が何かを言いかけた時、夕陽が二人を照らす。
その美しい光景の中で、光明は決意する。
「俺、未菜のことが好きだ」
その告白に、未菜の心が高鳴る。
「光明くん……」
「友達としてじゃない。一人の女性として」
「私も……私も同じ気持ち」
二人は見つめ合い、自然と手を繋ぐ。
夕陽の中で、新しい愛が始まろうとしていた…
今回の章では、ついに元樹と奈々美の関係が大きく動きました。
「束縛」という形で彼を縛りつけていた奈々美の愛情は、時に恐怖を、時に純粋さを見せつつも、最後には別れという結末を迎えることになりました。彼女の「依存」と「愛情」の混ざり合った姿は、読んでいて複雑な感情を呼び起こしたのではないでしょうか。
一方で、玲は勇気を持って元樹を支え続け、光明と未菜は新しい恋を育み始めました。友情と恋愛、それぞれの形が交差する中で、物語は次のステージへと進んでいきます。
暁の裏




