007 私には何もない(フィリエル視点)
ヴェルネル先生専用の教員室に通された。魔法学科では、工房しか出入りしたことがないので、ここに来るのは初めてだ。
デスクの上には魔導書が積み重なり、少しでも触れれば崩れてしまいそうなほどだ。
ヴェルネル先生は手慣れた様子で紅茶を入れ、私の前に置いた。
「どうぞ。……それで、何かあったのかい?」
「あっ、えっと……工房で、レンリが魔法学科の後輩と、卒業パーティーに行く約束をしていたのです」
私は見たままを伝えたのだけれど、ヴェルネル先生は、小首を傾けてから口を開いた。
「ん? レンリが……? あ、もしかしてフローレスさんかな」
「えっ、知っていたのですか?」
「まぁ、何となく。人の気持ちを察するのは得意だからね。それと、私が尋ねたかったのは、フィリエルのことだよ。何かあったのかい?」
「私……ですか?」
「ああ、驚いたよ。留学するのだろう?」
「あっ、そのことでしたか。はい、留学の試験に合格しました」
さっきのことで舞い上がってしまい、留学の試験結果が出たことなど、すっかり忘れていた。
「おめでとう。コレットには?」
「試験を受けることは、コレットにだけ伝えました」
「そうか。じゃあ、メルヒオールは知らないのかい?」
「はい。今、国外にいるので、戻ってきたら伝えます」
兄に試験を受けることは伝えていない。
受ける決心を固めたのは、兄が国外の仕事へと出てからだったから。
だから知っているのは、コレットと、留学について相談したサリアやハミルトンだけだ。
「ああ、そういえばそうだったね。アーロン殿下の外交に連れ回されているんだっけ」
「はい。隣国の騎士団の視察だそうですね。何カ国か回っているそうです。兄が爵位を継いでから、今まで外交関係の任から逃げていたそうなので。でも、恐らくですけど、コレットの為に行ったのだと思います」
「コレットの?」
「はい。コレットが卒業する前に、遠出になる職務を済ませておきたかったんだと思います」
卒業式までには戻れるかと、アーロン殿下に何度も確認していたとハミルトンは言っていた。以前コレットが、兄と卒業パーティーに二人で参加する約束をしたと嬉しそうに話していたので、それまでには帰ってくるだろう。
「メルヒオールらしいな」
「はい」
「ところで、良ければ聞かせてくれないか? どうしてフィリエルが留学を選んだのかを」
ヴェルネル先生は、どうして私を気にかけてくれるのだろう。教師だからなのか、それとも、ヴェルネル先生の弟が私の元婚約者だからだろうか。
「大丈夫ですよ。ガスパルのせいではありません。私、コレットやレンリを見ていて気付いたんです。私には……何もないってことに」
コレットは剣が好きで、レンリは魔法道具の研究が好き。
二人とも好きなことを目の前にすると、瞳をキラキラと輝かせる。
私はそれにとても憧れている。
私には何もないから。
心が躍るような好きなものも、情熱を注ぐことのできるものも、何もないのだ。
あのガスパルですら持っていたものなのに、私にはない。
「だから私は留学して、もっとたくさんの物や人に触れて、見つけたいんです。心躍る何かを、夢中になれるものを」
留学は一年間の全寮制。通うのは隣国の貴族の方や他国の留学生だ。
ラシュレ家から出たことがない私が知らない人達と過ごしていけるか不安だけれど、やってみたいと思った。
他国の方と触れ合い、様々な文化に触れ、より知識を身に付けたい。
そして──。
「私も、誰かに頼られる人になりたいんです」
ヴェルネル先生は、ときどき相槌を打ちながら、真剣に私の話を聞いてくれて、大きく頷いたあと、口を開いた。
「そうか。よく決めたね。とてもよい挑戦だと思いますよ」
「ふふっ、ヴェルネル先生って、宮廷魔導師よりも、教師のほうが合っているのではないですか」
たしか、宮廷魔導師の職務も兼任したままだと聞いているけれど、教師の方が本業でもよいのではないだろうか。
知識が豊富なだけではなく、こうして生徒に寄り添える優しい人なのだから。
「教師が足りないからと、特別講師を受けただけだからね。任期が終われば、宮廷魔導師の仕事だけに専念するよ」
「あら、もったいないです」
「そうかな? まぁ、私のことはいいとして、フィリエル、君は留学して教養を深めたいと言っていたね。それから、頼られる人になりたいと」
「はい」
「私は、フィリエルはすでに、周りの人々の支えになっていると思いますよ」
「そんな、私なんて……」
謙遜して言ったわけではない。
それが私の本心だけれど、ヴェルネル先生は首を横に振ってから言った。
「あの時……私とコレットの婚約が破談した後、コレットを信じてくれてありがとう。別に、お礼を言われるようなことだとは思えないかもしれないけれど、ずっと伝えたかった」
「ヴェルネル先生……」
「君は、自分が信じたいものだけを信じるのではなく、たとえ辛いことでも、逃げずに本当のことを知ろうとしてくれた。芯が強くて、とても素敵な女性だと思いますよ」
「あ、ありがとうございます。でも、私はガスパルを……見捨ててしまいました」
結局、私はガスパルを突き放してしまったのに、お礼を言われるなんて思っていなかった。
「そうだろうか。フィリエルは正しかったと思うよ。もしも、あのまま過ちを犯したガスパルを許してしまえば、ガスパルは駄目になっていただろう。弟と向き合ってくれて、ありがとう」
私は無意識の内にヴェルネル先生を避けていたと思う。
ガスパルのことで後ろめたかったから。
私がこう思っていることをヴェルネル先生にはお見通しだったのかもしれない。
「いえ……。でも、ガスパルが、ヴェルネル先生のことを大好きな理由が分かった気がします」
「ん?」
「ガスパルは、お兄様のことが大好きだって、初めて出会った時、私に言ったんです」
初めてガスパルに出会った日のことを思い出した。
あの日の約束を守りたかったな。
でも、それはもう叶わない。
私がガスパルと一緒にいても、彼を追い詰めるだけ。
そして、私はガスパルといても、もう笑うことはできないから。
****
私とガスパルが出会ったのは、六歳くらいの頃だ。
私は身体が弱く風邪を引きやすく、あまり外に出られずにいた。
友達なんて、もちろんいない。
毎日、騎士たちが訓練する声を聞きながら、ベッドの上で外を眺めたり、たまにお散歩するくらい。
そんなある日、私と同い年のキールス家のお嬢様が、彼女の兄であるライアス様の練習を応援する為にラシュレ家に来ているという話を侍女から聞いた。
私は居てもたってもいられず、散歩と称してその子を見に行くことにしたのだ。
でも、見つけたのは別の子だった。
練習場へ向かう門をくぐると、小さな銀髪の少年がうずくまって泣いていたのだ。
それが、ガスパルだった。
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