002 いつか本物に
あの後メルヒオール様は無言で食堂へ戻っていった。その後ろ姿は、訓練所へ向かう時と同様、闘志と殺気に満ちている。女性に会いに行く様相ではないけれど、ハミルトンさんの言葉が利いたみたい。
私はレンリと二人で書庫の整理中だ。レンリは本が好きみたいで、懐かしい本を見つけると顔を綻ばせ、エミルが好きそうな本をどんどん見繕ってくれている。
「コレット。初めて婚約の話が出た時、いかがでしたか?」
「なぜ急にそんなことを?」
「メルヒオール様を見ていて、政略結婚とはいかなるものなのかな、と思いまして」
貴族なんてそんなものだろうけれど、あまり考えたことがなかった。
「そうね。レンリはいないの?」
「僕はいませんよ。弱小貴族の三男なんて、誰もが嫌がるでしょうし。一番上の兄は、上司の伯爵家のご令嬢と結婚していますけど、ただの同居人で仕事上の付き合いみたいな感じだって漏らしてましたので。――それより。僕のことはいいんです。コレットはどうだったのですか? 執事として見ていましたが、喜んでましたよね」
「ええ。嬉しかったわ。ヴェルネル様は私へ優しい笑顔を向けてくれる唯一の方だったから。でも、彼は気品と慈愛に満ちた女性が好みみたいなの。きっと、病弱で大人しい私に同情して選んでくださっただけだから、そう偽っていた私は、彼に相応しくなかったのよ」
レンリはクスッと笑みを溢すと、持っていた本を棚に戻し別の本を手に取ってから、こちらへ目を向けて言った。
「偽りでもいいじゃないですか。そうやって誰かの求める自分になろうと努力してできた自分も、自分じゃないですか。それが成りたい自分じゃなかったら辛いかもしれませんが、いつか偽物が本物になることもあるんですよ」
「偽物が本物?」
「はい。朝、エミルは起きた瞬間に必ず叫ぶんですよ。ボクは強いっ! って」
「初めて聞いたわ。ふふっ」
寝起きのエミルが自信満々に叫ぶ姿を想像したら可愛くて、つい笑ってしまう。
「毎日叫んでると本当になるんだそうですよ。メルヒオール様の受け売りだそうですけど」
「そんな事してたのね。意外だわ」
「ですね。あの……コレットは、気品と慈愛に満ちた女性だと思いますよ。本当は毎日剣を振り回して、本なんか投げ捨てて自由に生きたかったかもしれませんが。家族に認められようと、女性らしく淑やかになれるように勉強してきた努力の成果は身に付いていると思います。それは偽りではなく、もう自分の一部なのではないですか?」
さっきとは違って、真剣な顔でレンリはそう言った。凄く嬉しいけれど、レンリの瞳は何処か悲しげだった。
「どうしてそんな事……急に」
「別に急にそう思った訳ではありません。ずっと前から思ってましたけど、祭りの前に言っておきたかったんです」
「どうして祭りの前なの?」
「秘密です。祭りの時に分かりますから。――さて、書庫はおしまいにしましょう。次は温室ですね」
レンリはエミルに渡す本を半分私に渡すと、せかせかと書庫を出ていった。
どんな秘密なのだろう。その言葉を口にした時、レンリはとても不安そうな顔をしていた。
私と駆け落ちしたことにされた事を隠していた時と似ていて、また一人で何か抱えてしまっているのかと、少し心配になった。
◇◇
庭へ出ると訓練所から、猛々しい声が響いてきた。
隣国の姫騎士率いる精鋭部隊との共同訓練ができると、朝から双方盛り上がっているらしい。
「今日は我慢してくださいね」
「分かっているわよ。イリヤ様は私とメルヒオール様の事を少し誤解してらっしゃるから、私はいない方がいいもの」
「それって……本当に誤解なんですか?」
「当たり前でしょう」
「ですが、メルヒオール様って、コレットとは話しますよね」
「ディオさんともエミルともよく話すわよ」
「僕とは話しませんよ。――ああ。そうか。分かった。とか、単語しかいいません」
眉間にシワを寄せて、レンリはワントーン声を落としてメルヒオール様の真似をする。
「ふふっ。言いそうね。でも、ハミルトンさんや他の使用人にもそうね。口数が少なくて……。でも、笑うとエミルみたいで可愛いわよね」
「……駄目ですよ。メルヒオール様は」
レンリは溜め息混じりに、目を細めて私を見た。
「何が駄目なの?」
「メルヒオール様は変な虫の部類に入りますので、絶対に駄目ですからね」
出た。変な虫。でも、私は今、恋愛なんてしている余裕はない。他にやりたいことが沢山あるのだから。




