第22話 猫争奪 夏の陣
剣道大会からの帰り道、試合会場を出て車に乗り込んでから、俺はほとんど口を開いていなかった。
車内では、綾辻先輩がそんな俺を気遣うように、ずっと慰めてくれていた。
「ヒノくんは一年生なのに、あと一歩で全国大会だったんだから凄いよ!」
「ありがとうございます……」
そう。俺は個人戦の三回戦で負けてしまっていた。
一年生という肩書きだけ見れば健闘なのかもしれないが、年齢的には四年生と同じだ。正直、あまり慰めにはならない。完全に実力不足だった。
この試合に勝てば、全国に派遣される枠に入るのはほぼ確実。そんな一戦だった。
相手は、高校時代に何度か勝ったことのある選手だ。
だが、いくら地力があっても、三年間のほとんどを剣道から離れていた俺が勝てる相手ではなかった。
試合中、相手の次の動きは読めていた。
頭では分かっていたのに、身体が反応しなかった。
一から鍛え直さないとな。
全盛期の俺ならついていけた気もする。――そう思いたくなるけど、まぁ言い訳だ。
自宅近くまで送ってもらい、お礼を言うと、
「車止めてくるから、後でね!」
そう言って綾辻先輩は近くのコインパーキングへ向かっていった。
今日は日曜日だ。鍼灸院も休み。
事務の仕事もないが、先輩は今日も無料猫カフェを堪能するつもりらしい。
部屋に入り、ベッドに崩れ落ちるように倒れ込む。傷心の俺は、愛猫のファシアちゃんに慰めてもらおうと手を伸ばした。
「ニャッ!」
――そのとき、隣室から聞き慣れた鍵の音がした。
俺の手を振りほどき、ファシアが壁の穴に向かってダッシュする。
一度アパートの廊下に出て、隣の部屋に行く。
ドアを開けると、ノートパソコンを広げている綾辻先輩の胸元に、愛猫が顔を擦りつけていた。
ウチの猫が羨ましい。
「飼い主の俺より、綾辻先輩に懐いているの、なんでなんですかね?」
「うーん。私は女の子に筋膜なんて名前をつけないからじゃない?」
なんだァ? てめェ……
もちろん、そんなことを口に出せるはずもなく、論破された俺は黙って先輩のパソコンを覗き込む。
「CBTの対策ですか」
「もうそろそろ、追い上げなのよねぇ」
医学生は、卒業までにとにかく試験が多い。
CBTというのは、医学部の学生が全員受ける試験の一つだ。
これに合格しないと病院実習に進めない。つまり、医師への道が止まる。
小休憩を挟みながら六時間、ひたすら問題を解き続ける過酷な試験だ。
まぁ、二日間で十四時間ある医師国家試験に比べれば生ぬるい。
「CBTって、問題自体はそこまで難しくないですけど、範囲が広いですよね」
四年生の忙しい時期にバイトまでしている綾辻先輩は、やっぱり変わり者だ。
最近は医学生向けの予備校もあって、そこに通う人も多いというのに。
じっと横顔を眺めていると、先輩のマウスを動かす手がだんだん鈍ってきた。
ファシアを撫でる手も止まり、不満そうな鳴き声が上がる。
先輩の頬が、ほんのり赤い。
「ちょっと……見られてると、やりにくいんだけど……」
「ふふ。勉強熱心だなぁと思って。……おいで、ファシアちゃん」
先輩の撫でる手が止まった隙を突いて、ファシアを奪い返す。
ファシアはマッサージが大好きだ。マッサージの時に使っているタオルをひらひらさせれば、簡単に寄ってくる。
「先輩は、医局に入るつもりなんですか?」
「まぁ……最低でも、専門医は取らないとね。」
医局という制度は、何かと批判されがちだ。
教授を頂点とした縦社会。過去には汚職事件の温床にもなった。
それでも、医局制度は日本の医療を支えてきた仕組みでもある。
地方に医師を派遣し、地域医療を支えているのは大学の医局だ。
医師は専門医を取らないと仕事にならない。
医局は、専門医という『ニンジン』で若手医師を僻地に送っている――そう言われることもある。
「阪大は、関連病院が近いから引っ越しは要らなそうですね」
「そう! それが阪大を選んだ理由なの」
実は誰しもの身の回りにある総合病院、その人事は基本的にどこかの大学が握っている。関連病院というやつだ。
大学病院と関連病院は、大名とその領地に例えられることがある。
そして、関連病院の質では大阪大学は西日本トップだ。
医局員の働きやすさだけで見れば、日本で最高の大学じゃないかと思う。
「ニャン……」
俺の手捌きに身を委ねて、ファシアは喉の奥から満足そうな声を鳴らしている。
ファシアを奪い返そうと隙を窺っている先輩に話しかける。
「阪大いいですよね。この近くの総合病院も阪大の関連病院なんですよ」
「そうなんだ!あそこは市立病院だったっけ」
阪大は阪神間に強固な地盤を持っている。
関連病院は都市部の優良病院が多く、給料も比較的高い。
医局からの指示で転勤になっても引っ越しがほぼ不要だ。
「ファシアちゃん、チュールあげるから、こっちに来ない?」
先輩はオヤツを振りながら誘惑している。
――飛び道具は卑怯だぞ。
だが、ファシアは俺のマッサージに夢中で、完全に無視。
頬を膨らませてパソコンに向き直る先輩が、かわいい。
「ヒノくんはどうするの? 整形外科の専門医、取った方がいいよね」
「そうなんですよね」
俺は今も、医局に入って専門医を取るべきか悩んでいる。
俺の仕事的には取るなら整形外科の専門医だ。
人気がないので、学生時代の成績が悪くても医局に入れる。専門医試験も簡単だ。
透視能力なんて意味の分からないものに頼っている今を考えると、専門医の資格は取っておいた方がいいのかもしれない。
この能力を失えば、俺は即開業しただけのヤバい医者だ。
悩ましい。
そんなことを考えていると、ふと視線を感じた。
気づけば、パソコンの操作音が止み、部屋は静まり返っている。
「……」
綾辻先輩が、至近距離で俺の横顔をじっと見つめていた。
クリクリした目、色白な肌、整った鼻と口、肩まで伸びる黒髪。
やっぱり、この人は美人だよなぁ。
阪大にファンクラブができている理由が、よく分かる。
無言でジッと見てくる先輩。
同じ空間にいることを、急に意識して、少し気恥ずかしくなる。
「ニャッ!」
しまった。考え事で手が止まり、ファシアが逃げ出した。
先輩が素早くキャッチして、悪戯っぽく笑う。
「やった。取り返せた。ファシアちゃんは、私の方が好きだもんねー」
「ニャン!」
この浮気猫め。
先輩が帰ったら、鍛え上げた手技でたっぷり可愛がってやろう。




