第21話 バイトする日野君
整骨院でのバイトは、最近、目に見えて忙しくなってきた。
ただでさえ短い勤務時間なのに、予約はほとんど空きがない状態だ。
今日は、柔道整復師の武部さんと一緒のシフトだ。人当たりのいい好青年で、患者からの信頼も厚い。
午後から剣道の大会があるため、今日は予約分だけをこなして、早めに退勤する予定になっている。
二連続で武部さんの患者さんの鍼か、と頭の中で予定を整理しながら整骨院に入ると、すぐに表から声がかかった。
『日野くん、お願い!』――武部さんの、いつもの合図だ。
俺の出番というわけで、気持ちを切り替えて施術ベッドへ向かう。
まずは、一人目の患者さん。
ベッドに横たわる体を一目見て、直感する。
……この筋肉、見覚えがある。
リピーターかなと思いながら手を動かし、カルテに目を落とす。
やっぱり、そうだ。
太り気味で、以前は腸腰筋がかなり悪かった患者さんだ。
鍼治療はしばらく受けていなかったようで、今回は二ヶ月ぶりの再診になる。
「あ、お久しぶりですね。今日はどうされましたか?」
「武部さんが、一度日野さんに見てもらった方がいいとおっしゃるので」
なるほど、経過観察ってやつか。
頭から足先まで触りながら筋肉を確認していくが、前回とは見違えるほど状態がいい。
武部さんが、きちんとストレッチを教えたのだろう。
特に問題だった腸腰筋は、しっかり柔軟性を保っている。
正直、俺が前に鍼を刺した直後よりもいいかもしれない。
鍼治療と、適切なアフターケア。
この二つが噛み合えば、ここまで改善するのか。
思わず、感心してしまった。
……とはいえ、全身の状態は良好で、正直あまり鍼を打つ意味はない。
それにしても、なぜ武部さんは、わざわざ鍼治療を勧めたのだろうか。
もしかすると、俺に自分の日頃の仕事の成果を見せたかったのかもしれない。
だが、これは仕事だ。
オプション料金も発生している以上、何もせず返すわけにもいかない。
全身の筋肉を整えて、気持ちよく帰ってもらおう。
鍼は、痛みの原因部位に限らず、メンテナンス目的で使うこともできる。
俺は気持ちを切り替え、声をかけた。
「じゃあ、全身を軽く整えていきますね」
そう言って、解れると気持ちのいい部位に、淡々と刺激を入れていく。
「前に来た時より、だいぶ良いですね。腰痛も、ほとんど出ていないんじゃないですか?」
「そうですか? 確かに、仕事をした後も腰が痛くならない気がします」
筋肉の反応を確認しながら作業を続ける。
会話も一段落し、相手が完全にリラックスしたのを見計らって、最後の仕上げに入った。
正直なところ、やることはもうほとんどない。
あとは首筋や肩周りに鍼を打つくらいか。
この辺りは誰にやっても大体効く。
現代人は、例外なく肩が凝っていると言っても過言ではない。
慎重に四本ほど刺す。
首筋は大きな神経が近くを通っているため、刺激が強く出ることがある。
鍼を打つ上で、特に気を使う部位だ。
――今日は、だいぶ楽な仕事だった。
患者さんを送り出したあと、裏の職員出口付近で一服している武部さんに終了を伝えた。
「武部さん、さっきの方、あんまり鍼の必要なかったと思うんですけど」
「そうだった? ごめんごめん、自信なくてさ」
簡単に情報を共有してから、バックオフィスへ戻る。
椅子に腰を下ろし、束の間、肩の力を抜いた。
少し気を抜くと、自分の鍼灸院のことが頭をよぎる。
開業している院も、少しずつだが軌道に乗ってきている。
ほんのわずかとはいえ、黒字も出るようになった。
それでも、このバイトはなかなか辞められない。
時給換算で五千円近い。学生バイトとしては破格だ。
院長には世話になっているし、職場の人間関係も悪くない。
それに、ここでは鍼灸院とは違う視点の治療を学べる。
リハビリ、ストレッチ、運動指導。
俺も勉強しているが、まだまだ足りない。学ぶことは山ほどある。
そんなことを考えているうちに、次の予約時間が近づいてきた。
カルテを確認し、俺は一瞬だけ手を止める。
「おっ、夏目先生か」
次の患者は、夏目先生。
同じ商店街で開業している内科医だ。
武部さんに呼ばれて向かうと、私服姿の夏目先生が施術ベッドに横たわっていた。
白衣を着ていないのが、少し新鮮に映る。
「夏目先生、お疲れ様です。鍼は初めてじゃないですか?」
「たまに整体は頼んでたけど、鍼は初めてだね。
心筋梗塞を見抜く神業鍼灸師は、なかなか予約が取れなくてね」
冗談めかして笑う夏目先生。
この人は人柄が良く、近所でも評判の医師だ。
いつも世話になっている相手だ。
念入りに体をチェックしていく。
鍼灸師に対する医師の反応は、本当に人それぞれだ。
この人は、かなり好意的な部類だろう。
でも、それは多分、夏目先生が内科医だからだ。
整形外科医の中には、鍼灸師を嫌う人も多い。
鍼灸院で手に負えなくなった患者の後始末を、任されることが多いからだ。
腰痛で鍼灸院に通い続け、限界になって整形外科に行ったら癌の骨転移だった――
そんな話も、実際に聞いたことがある。
最初から整形外科に来てほしい、と思うのも無理はない。
俺がスポーツ障害を専門にして鍼灸院を開業している理由も、実はそこにある。アスリート以外の人には、まず整形外科を受診してほしいと考えているからだ。
「今日の主訴は腰痛ですか?」
「いや、肩こりだね。……でも最近、腰もちょっと痛い。
キミから見たら、腰が悪いのかい?」
肩は、武部さんのマッサージで十分に緩んでいる。
わざわざ鍼で治療しなくてもいい気はする。しても構わないとは思うが。
「L4、L5が、多分ヘルニアだと思います。
よくある後外側突出型ですね」
腰椎椎間板ヘルニア。
L4、L5というのは腰椎の番号だ。
俺がそう口にした、その直後、夏目先生は仰向けのまま突然足を持ち上げた。
「あー、確かに言われてみれば、ヘルニアな気もする」
不意の動きに少し驚いて、カルテを床に落としてしまった。
……ちなみに、今の夏目先生の動作は、SLRテストというヘルニアを判断する検査だ。
「ちょ、ちょっと!
いきなりSLRテストするの、やめてくださいよ! びっくりした!」
夏目先生は軽く謝りながら、今度はうつ伏せになって足を曲げる。
これはFNSテストと呼ばれる動作だ。
「症状がほとんど出ていないのに、よく分かったね。
キミは人間MRIか何かなの?」
……まあ、似たようなものかもしれない。
「とにかく、これからは姿勢には気をつけてくださいね。
今日は、殿筋・梨状筋・腰方形筋。腰のインナーマッスル三連発コースです」
腰椎椎間板ヘルニアは、インナーマッスルの圧力で椎間板が押し出され、神経を圧迫する。
特に、座っている時に症状が出やすい。
座位という姿勢は、本来、人間にとって負担の大きい姿勢なのだ。
なので今回の治療ではインナーマッスルをほぐす。
腕時計を見る。もうすぐ退勤しないといけない。
午後からは剣道選手権の府大会がある。
近くの駐車場では、綾辻先輩の車が俺を迎えに来ているはずだ。
あまり待たせるわけにはいかないな。
手早く六本ほど鍼を打ち込み、筋肉に刺激を入れる。
「痛っ……ちょっと、痛すぎるんだけど……」
かなり固まっていたので、刺激が強く出ているようだ。
腰は神経が集まっている。痛みが出ることはあるが、大きな問題はない。
医者なら我慢できるだろ、多分。
「はーい、じゃあこれで施術終わりでーす。
あとはご自身で治療してくださいねー」
「あっ、でも痛いけど楽に――って、ヒノくん?
……どっか行っちゃった」
夏目先生が何か言っていたが、俺は無視して急いでバックオフィスに戻る。
他の患者ならヘルニアについて丁寧に説明するが、医師に説明するのは釈迦に説法だろう。
俺より医学的に詳しいのは、まず間違いない。
そうして俺は、退勤の挨拶もそこそこに済ませ、急いで先輩の待つ裏の駐車場へ向かうのであった。




