第19話 侵食される生活
アラームの音で目を覚ますと、ファシアがキャットタワーから降りてきて、足元にやってきた。
口を少し開けたまま、ぼんやりと俺を見上げている。
かわいい。
最近この子、俺より綾辻先輩に懐いている気がする。
事務室に俺と綾辻先輩が同時にいると、必ず先輩の膝に乗って甘えている。
だが、綾辻先輩もこの部屋には入ってこられない。
朝は愛猫を独占できる貴重な時間なのだ。
「ファシアちゃん、ご飯の時間だよ」
「ニャン……!」
高級キャットフードを皿に出してやると、テンションが上がって跳ね始める。
そろそろ貰い物が切れそうだけど……普通の餌に切り替えさせてくれるだろうか。
今日も一限から授業か。
医学科は講義を容赦なく詰め込まれるので、平日は毎日朝一から大学に通うことになる。
朝の貴重な時間、別れを惜しむように体を擦り付けてくる愛猫と涙の別れをして、大学へ向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
実質、北摂医科大学専用のゲートと化している阪急の出口を抜けて校舎に入る。
医学生といっても一年生のうちは、他学部と大差ない座学中心の生活だ。
筋肉人間だらけの教室をぼんやりと眺める。
どうして視界のデフォルトが筋肉なんだろうな。
普通に服だけが見えていたり、せいぜい服の下の皮膚が見える程度なら、中学生の頃に発狂して閉鎖病棟に放り込まれることもなかっただろうに。
スマホが震えた。綾辻先輩からのメッセージだ。
『美咲:今日は休講で暇だったから、ファシアちゃんと遊んでるよー』
胸元にファシアを入れてピースしている写真が添えられている。
愛猫が服を引っ張りすぎて、少しブラが見えているのは見なかったことにしておこう。
多分、わざとやってるし。
阪大にあると噂されている綾辻先輩ファンクラブの面々が、喉から手を出して欲しがりそうな一枚だ。
『日野:先輩、ほぼ毎日来てませんか……?』
『美咲:まぁまぁ。気にしないで!今日はいつ帰ってくるのー?』
『日野:今日は剣道の練習があるんで、十九時くらいですかね』
『美咲:了解! 今日のご飯はハンバーグだから楽しみにしててね!』
今日は予約がなく、鍼灸院は休みだ。
……なぜか事務員は出勤してきて、猫と遊んでいるようだが。
というか、いつも晩ご飯を用意してくれるので、半分同棲みたいな状態になっている。
胃袋から攻略されているのだろうか。
あの人に仕事場の鍵を渡すべきではなかったかもしれない……。
先輩から送られてくる愛猫の写真を眺めているうちに、退屈な授業は終わった。
体育館で練習中の剣道部に顔を出すと、ざわついた空気を感じた。
四方八方から視線が飛んでくる。
実は、平日の剣道部練習に参加するのは今日が初めてだ。
前回の練習日は犬飼選手の予約が入っていたから欠席したからな。
やがて筋肉人間の一人が近づいてくる。
足が凝っている。顔を見るまでもない。この筋肉は日下部先輩だ。
「やぁ、ヒノくん! 阪大のマドンナをお持ち帰りして、楽しくやってるかい?」
「お持ち帰りしたというより、された側ですね」
ははは、と笑いながら肩を叩かれる。
十人ほどの部員全員に注目されているのは、やはり綾辻先輩の件だろう。
「阪大の綾辻さんといえば、高嶺の花で有名だからね。彼女が入ってから剣道部の入部希望者は倍になったらしいよ」
しかもあの人、剣道もかなり強い。
インターハイ出場こそ逃したが、大阪府大会では上位だったはずだ。
勉強もできる、運動もできる、容姿端麗、実家も太い。完璧超人という言葉がこれほど似合う人も珍しい。
今日は基礎練習のあと、日下部先輩と試合形式でやることになった。
日下部先輩はこの剣道部の最強格で、医科大学同士の交流戦で表彰された経験もあるらしい。
「じゃあヒノくん、胸を借りるよ」
最初は、あえて踏み込みを浅くして様子を見る。
先輩の竹刀と二、三度、きれいに打ち合う。打突の重さも間合いも、さすがだ。
だが、構えの奥で、肩と脇腹の筋がわずかに連動するのが見えた。
次が来る。そう確信し、一拍だけ待つ。
踏み出しに合わせ、滑り込むように胴。
鈍い音がして、完璧に決まった。
「はは、完敗完敗。ヒノくんの練習相手にはなれないな」
申し訳ないが、実力差がありすぎて、俺の練習相手は務まらないかもしれない。
筋肉が見え、次の動作が分かる俺に勝てる相手はそう多くないだろう。
逆に言えば、高校時代の俺を倒した化け物が二人いるわけだが。
そいつらは今、大学選手権で大暴れしている。
「ヒノくん、大学剣道選手権、出てみたら? うちはあまり出場者がいないけど、君なら全国を狙えるよ」
大学選手権か。楽しそうだ。
高校時代の好敵手と再会できるかもしれない。
「日程は……六月、七月の土日ですか。バイトの調整が必要かもですね」
土日は整骨院でのバイトがある。
最近は心筋梗塞の件で鍼治療オプションの予約も増えてきているため、事前調整が必須だ。
スマホで予定を確認する。
二件ほどずらせば、何とかなりそうだ。
「行けると思います。スケジュール確保しておきます」
その後も練習は続いた。
といっても、半分以上は俺からの指導試合だった。
俺の元には部員が集まり、教えてほしいという声が相次ぐ。
熱心な学生が多く、悪い気はしない。
冷めかけていた剣道への情熱が、再び燃え上がるのを感じていた。




